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第2話 艤装のキックオフ

洗面所の入り口で、寝癖で髪を爆発させた新中学三年生の息子、ゆういちが怪訝そうな顔を作った。彼はまだスウェットのパジャマ姿で、首から白いワイヤレスイヤホンをぶら下げている。ついこの間まで声変わりでカスカスだった声も、すっかり低く落ち着いてしまった。

彼の視線は、床に落ちたままの弁当箱のフタ、彫像のように固まった母親の由里子、そして、私の足元にいる「トミカのパジャマを着た六歳の男の子」を順番にスキャンした。

ゆういちのやや細い目が、限界まで見開かれた。彼の手が、頭を掻き毟る途中でピタリと停止する。

「……は? 誰、これ」

無理もない。彼の視界に飛び込んできた映像は、あまりにも論理的な整合性を欠いている。

私は答える代わりに、足元の彼――八年前のゆういちの肩にそっと手を置いた。質量と体温は、依然としてそこにある。幻覚でもなければ、逃げも隠れもしない。

六歳の彼は、私の足の陰からひょっこりと顔を出し、目の前に立つ巨大な少年を無邪気に見上げた。

「パパ、このおっきいお兄ちゃん、だれ?」

高く澄んだ六歳の声帯から発せられたその声は、手狭なマンションの廊下に反響し、十四歳のゆういちの鼓膜を直撃した。

ゆういちは、目に見えて後ずさりをした。踵がフローリングの継ぎ目に引っかかり、不格好に体勢を崩しかける。

「いや、俺が聞いてんだけど。親父、何? 隠し子?」

「私の趣味はおかあさんに固く禁じられている模型作りであって、見知らぬ場所に別の家庭を作ることじゃないぞ」

私は極めて真面目な顔で答えた。ふざけた口を叩いている場合ではないのは重々承知だが、私の脳内CPUはエラー処理に追われ、口から出る言葉のフィルタリングが追いついていないのだ。

「それに、よく見ろ。こいつの顔に心当たりはないか?」

ゆういちは眉間に皺を寄せ、六歳の男の子をまじまじと見つめた。

右頬の微かな引っかき傷。少しタレ目気味の目元。

「……嘘だろ。何かのドッキリかよ」

ゆういちは顔を引きつらせ、私と由里子を交互に睨みつけた。しかし、我々の顔に小型カメラを隠し持っているような余裕がないことは、すぐに理解したらしい。彼は舌打ちを一つすると、くるりと背を向けた。

「俺、無理。こういうの理解できない。もう一回寝る」

出た。あいつの必殺技、「俺には無理」だ。

彼は自分がすぐに対処できない事象に直面すると、シャットダウンを試みる。セルフ・ハンディキャッピングという見事な防衛装甲の内側に逃げ込むのだ。吹奏楽部でトランペットのエースとしてソロを吹く度胸があるくせに、日常のイレギュラーに対してはひどく脆弱な男である。

「待て。逃げるな」

私は一歩踏み出し、リビングへ向かおうとしたゆういちのパジャマの襟首を掴んだ。

「痛っ、父さん、やめろって!」

「二度寝したところで、この不具合バグは修正されない。システムに異常が発生したなら、まずは全員でログを確認する。リビングで家族会議だ」

   *

手狭なリビングに、四人の人間が集まった。

以前の戸建てなら、もう少し距離を取って座ることもできただろうが、この都心部の賃貸マンションではそうもいかない。ローテーブルを囲むと、嫌でも膝が突き合わさるほどの距離になる。

部屋の隅では、新婚当時に購入した二〇〇八年製の三十二インチ液晶テレビが、朝の星占いランキングを陽気なBGMと共に垂れ流している。分厚いプラスチックのベゼルは長年の紫外線でわずかに黄ばんでいるが、その無骨な機械だけが、この部屋で唯一、正常に機能しているように見えた。十八年間ノーメンテナンスで働き続ける、我が家のシーラカンスだ。

六歳の彼……ここでは便宜上、「ゆう」と呼ぼう。彼はローテーブルの前にちょこんと座り込み、テレビ画面を食い入るように見つめている。彼にとって、この古めかしいテレビだけが、唯一見慣れた「元の世界のパーツ」なのだろう。

「お父さん……これ、どういうことなの。説明して」

由里子が、ダイニングチェアの背もたれを両手で強く握りしめながら言った。彼女の指先は白く鬱血している。

「俺に設計図が引ける事象なら喜んで説明もするが、あいにくタイムマシンの図面は専門外だ」

私は頭を掻いた。

「だが、現実に彼はここにいる。質量も、脈拍もある。光学迷彩でもホログラムでもない」

「ゆういちが……もう一人いるってこと? いや、昔のゆういちが?」

由里子は、ソファに沈み込んでいる十四歳のゆういちと、テレビの前にいる六歳のゆうを交互に指さした。十四歳のゆういちはスマートフォンを取り出して画面を睨みつけているが、指は一切動いていない。

「ゆういち。お前、自分が六歳だった頃、未来に来た記憶はあるか?」

私が尋ねると、十四歳のゆういちは顔を上げずに吐き捨てた。

「……あるわけねぇだろ。俺が六歳の時は、普通に幼稚園行って、ムシキングやってたよ。あと、マックのハッピーセット食ってた。今はサイゼリヤの辛味チキンの方が好きだけどな」

パラレルワールドの分岐なのか、あるいは単一のタイムライン上の一時的なバグなのか。タイムトラベルの理論など私にはさっぱりだが、少なくとも現在のゆういちの記憶に影響がないということは、即座に我々の歴史が書き換えられて消滅するわけではないということだ。

「とにかく、服を着替えさせないと」

由里子がハッとしたように言った。ゆうが着ているトミカのパジャマの膝には、微かな土汚れがついている。

「三月とはいえ、まだ朝晩は冷えるわ。風邪でも引かれたら病院にも連れて行けない。急いで昔の服を……」

由里子の言葉が、途中で宙に浮いた。

彼女の顔から、さっと血の気が引いていくのがわかった。

「……服が、一枚もないわ」

由里子が呻くように言った。

それは我が家における、ある種の致命的な構造欠陥の露呈だった。

由里子は徹底したミニマリストである。過去の思い出の品だろうが、子供の成長記録だろうが、「今使わないもの」は物理的なノイズとみなし、即座に処分する。八年前、彼が小学校に入学し、六歳当時の服がサイズアウトした時点で、彼女はそれらをすべてメルカリで売り払うか、資源ゴミに出してしまったのだ。

残っているのは、クラウド上の写真データだけ。物理的な布切れ一枚すら、この家には存在しない。

「だから言っただろ、何でもかんでも捨てるなって。俺がたまに買ってくる蟲神器のカードを捨てる暇があったら、子供の服の一枚くらい残しておいてほしかったな。一年着ない服は即捨てる、おかあさんの清々しいまでの断捨離の成果だな」

「一年着ない服はゴミよ! まさか八年前の服が再び必要になるなんて、誰が予測できるのよ!」

「俺も予測できなかったから、お前の断捨離を止められなかったわけだが」

口答えをすると火に油を注ぐだけなので、私はすぐに実務的な思考に切り替えた。

幸いなことに、ここは都心部のマンションだ。駐車場代が高くて車を手放した時は不便かと思ったが、徒歩圏内に何でもある。すぐ近くのショッピングモールの中には、朝九時から開いているファストファッションの店や子供服売り場があるはずだ。

「俺のTシャツでも着せておくかと思ったが、歩くモップみたいになるからやめよう。九時になったら、俺が自転車で駅前のモールに行って、六歳児の規格に合う一式を調達してくる」

「じゃあ、この子……どうするのよ」

由里子が焦燥に駆られた声を出した。

「警察に言うの? 迷子です、って。でも、身元なんて……」

ソファから顔を上げた十四歳のゆういちが、スマートフォンをいじりながら言った。

「警察も、児童相談所も駄目だ」

「その通りだ」私は即座に同意した。

「論理的に考えろ。指紋やDNAを調べられれば、ゆういちと完全に一致する。『過去からタイムスリップしてきた』なんて事実を公的機関に申告すれば、俺かおかあさんが重度の妄想癖で精神鑑定にかけられるか、こいつが身元不明のクローン人間として研究機関に隔離されるかの二択だ。どちらにせよ、家族のシステムは一瞬で崩壊する」

「……ヤバくね?」

十四歳のゆういちが、ようやく事の重大さに気づいたように顔をしかめた。

「ああ、ヤバい。だから俺たちで隠す。徹底的に艤装ぎそうするんだ」

私はローテーブルを指でコツコツと叩いた。船舶設計において「艤装」とは、船体というただの鉄の箱に、エンジンや居住区の内装を取り付け、社会で稼働する「船」として偽装・装備する工程を指す。

今、この手狭なマンションに突如現れたエラーを、既存の社会システムに矛盾なく組み込むための設計図が必要だった。

「ゆういちの学校はもうすぐ春休みに入る。つまり、当面の間は日中の外出を最小限に抑え、この家の中で彼を保護することが可能だ」

「保護するって……春休みが終わったらどうすんの」

「そこだ」

私は、テレビから流れるマクドナルドのCMに釘付けになっている六歳のゆうを見下ろした。

「彼がいつ元の場所へ戻るのか、あるいは戻らないのかは未知数だ。万が一、このまま彼がこの時代に定着してしまった場合、俺たちはずっとこの手狭なマンションの中に彼を隠し続けるわけにはいかない。彼は現在、六歳。四月には小学校に入学する年齢だ。無就学の児童が家にいるとなれば、いずれ行政のセンサーに引っかかる。だから、小学校に通わせる」

「小学校に……通わせるの? この子を?」

由里子が信じられないものを見る目で私を見た。

「バレるに決まってるじゃない。この子、どう見てもゆういちの小さい頃にそっくりよ?」

「それはおかあさんが母親だからそう見えるんだ。他人は他人の子供の顔なんて、そこまでマジマジと見ない。それに、中三のゆういちと六歳の彼が同時に並んで歩く機会なんて、そうそう作らなければいい」

私はテーブルの端にあった裏紙とボールペンを引き寄せた。図面を引く時の私の癖だ。思考を視覚化しなければ、構造の欠陥には気づけない。

「役所のシステムをハッキングする。設定はこうだ。おかあさんの親戚が、DV夫から逃れるために、この子を『無戸籍』のまま育てていた。だが、その親戚が急病か何かで倒れたため、居場所を隠す目的もあって、遠縁である我が家が監護者として一時的に預かることになった」

「無戸籍……? でも、そんなの役所が信じるの?」

「信じさせるんだ。前住所のデータがないのも、母子手帳がないのも、『無戸籍で病院にも行けなかったから』という完璧な理由が成立する」

私は裏紙に力強く線を引いた。

「児童の『教育を受ける権利』は、戸籍や住民票の有無よりも優先される。居住実態さえ確認できれば、教育委員会判断で仮就学が可能なんだ。当然、無戸籍となれば児童相談所は必ず介入してくるだろう」

「児相が来たら、連れて行かれちゃうじゃない!」

「だから、ハッタリをかます。『DV夫から逃げているため、無闇な保護介入は親族の安全に関わる』『すでに弁護士を通じて家庭裁判所に就籍(戸籍を新たに作る手続き)を準備中だ』と主張するんだ。行政は訴訟リスクや特例案件には及び腰になる。結果として、緊急保護ではなく『定期的な家庭訪問による見守り』というステータスに着地させられる」

由里子はしばらくポカンとしていたが、やがて小さくため息をついた。

「お父さん、そういう悪知恵を働かせる時だけは、本当に頭の回転が早いのね」

「設計士の不具合修正スキルと言ってくれ」

私はペンを置き、マクドナルドのCMが終わって退屈そうにしている彼を呼んだ。

「おい、ゆう。マック、好きか?」

私が唐突に尋ねると、彼はパッと振り向いて目を輝かせた。

「うん! 僕、ハッピーセットがいい!」

「よし。じゃあ、お利口にしていたら、後で買ってきてやる」

「やったぁ!」

彼はあまりこちらが小難しい話をしても会話が成立するタイプではない。聞かれたことに単語で答える、六歳児特有の素直さと単純さだけで構成されている。

由里子も、目をキラキラさせて喜ぶ彼を見て、微かに口元を緩ませていた。ミニマリストとしての厳格な仮面の下で、母親としての本能が小さな子供の無邪気さにあてられているのがわかる。

「いいか。今日から、ちょっと特別なゲームをする。ゆうはしばらく、この家でパパとママ、それから『おっきいお兄ちゃん』と一緒に暮らすんだ。できるか?」

「ゲーム?」

「そうだ。秘密のミッションだ」

「ミッション……!」

男の子は「秘密」や「ミッション」という言葉に弱い。ゆうは力強く頷いた。

「俺は? 俺、今日部活の朝練あるんだけど」

十四歳のゆういちが、気まずそうにトランペットの入った黒いハードケースを指さした。

「行け。普段通りのルーティンを崩すな。お前が急に部活を休めば、かえってノイズになる。ただし、この事象については誰にも喋るな。部活の仲間にも、塾の連中にもだ。いいな?」

ゆういちは複雑な表情で六歳の自分を一瞥し、そして小さく頷いた。

「……わかったよ。言えるわけねぇだろ、こんなイカれた話。あー、マジで意味わかんねぇ。てか、こいつ俺なんだよな? 腹立つくらいガキじゃん」

「お前も八年前はそうだったんだよ。よし、おかあさん、俺が服を買ってくるまで、こいつに何か飯を食わせてやってくれ。俺の分は後でいい」

私は財布とスマートフォンをポケットに突っ込み、手狭な玄関へと向かった。

背後で、古い液晶テレビがけたたましい笑い声を上げ続けている。その音に混じって、「おっきいお兄ちゃん、ラッパ吹くの?」という無邪気な声と、「あー、もう、触んなよ!」という中学生の戸惑う声が聞こえてきた。

多感な時期に、いきなり現れた過去の自分。あいつのセルフ・ハンディキャッピングの装甲は、果たしてこの無邪気な直球に耐えられるだろうか。

少しだけ面白そうだな、と不謹慎なことを考えながら、私はマンションの重い鉄扉を開けた。

外はよく晴れた、三月の冷たい空気が広がっていた。

まずは自転車を飛ばして、一番安い子供服を調達しなければならない。

そして、この世界に「親戚の六歳児」を違和感なく組み込むための、大掛かりな艤装の設計図を完成させる必要がある。

設計士の不条理な一ヶ月は、こうして極めて実務的なミッションから幕を開けたのだった。

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