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第1話 洗面所での不具合

その朝、冷たい水で顔を洗ってタオルで水分を拭き取り、何気なく鏡を見た瞬間。

私の寝ぼけた脳みそは、「あ、ついに俺の視覚システムにも深刻なバグが発生したか」と、ひどく呑気な現実逃避を始めた。

二〇二六年、三月十一日。午前六時三十分。

我が家の洗面所は、大の男が手足を伸ばすには少しばかり窮屈だ。息子の中学進学を機に、都心から車で一時間ほど離れた郊外にあった二階建ての中古戸建てを売り払い、この便利な都心部の賃貸マンションに引っ越してきたのはいいが、いかんせん手狭になった。

環境としては文句はない。歩いて行ける距離にスーパーもショッピングモールもあるし、なんなら百貨店だってすぐそこだ。駐車場代が目の飛び出るほど高いから、かつての広い家に住んでいた頃に乗っていた安い軽自動車は思い切って手放した。今はもっぱら自転車移動である。都心部で交通の便が良いからそれで全く不自由はしていないのだが、家族三人で暮らすには、どうしても物理的な距離が近すぎるきらいがある。

何より一番の不満は、私のささやかな趣味である模型作りが、妻の由里子の鶴の一声であえなく禁止の憂き目に遭っていることだ。

「これ以上、家に物を増やさないで。置く場所なんてないんだから」

引っ越しの段ボールを開けている最中、おかあさんはそう言い放った。由里子は徹底したミニマリストである。過去を振り返らず、一年使わなかったものは即座に捨てるか売る。その清々しいまでの容赦なさは、時に恐怖すら覚えるほどだ。

先日も、虫がいまだに好きな十四歳の息子と遊ぼうと思ってダイソーでこっそり買ってきた「蟲神器」という百円のカードゲームがリビングの端に積んであるのが見つかり、「紙切れ一枚でも物は物よ!」とこってり絞られたばかりだ。

私は基本的に細かいことは気にしないタチだし、少しふざけた冗談で場を和ませるのが得意な方だと自負しているが、由里子のあの融通の利かない真面目さの前では、どんなユーモアも「不真面目」のレッテルを貼られて弾き返されてしまう。

最近はサイゼリヤの辛味チキンにハマっている受験生の息子と、たまに対戦してささやかな娯楽を楽しんでいるというのに、そういう息抜きすら「物が増える」という理由で制限されるのだから、たまったものではない。

……といったような日頃のぼやきを頭の片隅で反芻しながら、私は鏡を見たのだ。

五十歳に手が届こうかという、重力に負け始めた自分の顔。まあ、それはいい。十五年以上土木設計の仕事で地面の基礎と睨み合い、今は船舶設計士としてAutoCADやFusionといったソフトと格闘している中年男のリアルな出力結果だ。設計図面の不具合エラーを見つければ、昼夜を問わず修正せずにはいられない生真面目な性分が、目の下の隈となって表れている。私自身は変化を嫌い、一定のルーティンを刻む日々を望んでいるというのに、仕事の図面はいつもイレギュラーの連続だ。

だが、現在の問題は私自身の顔ではなかった。

鏡の中。私の右腰のあたり。

そこにあるはずのないものが、ひょっこりと映り込んでいた。

ん? と私は目を瞬かせた。

トミカのプリントがすっかり擦り切れたパジャマ。寝癖でピョンと跳ね上がった、柔らかく色素の薄い髪の毛。

丸い目で、じっと鏡の中の私を見上げている、小さな子供。

私はそのまま数秒間、完全にフリーズした。

現在、我が家には私と、妻の由里子、そして四月から新中学三年生になる息子の「裕一」しかいないはずだ。ゆういちはこの時間、壁一枚隔てた隣の部屋のベッドで丸まっているはずだし、そもそも身長はとうの昔に私の肩を超えている。

あいつはとにかく勉強が嫌いで、成績は学年で「上の下」といったところだ。高校受験を約一年後に控えているというのに、本人は危機感があるのかないのかさっぱりわからない。

「勉強しなさい!」と口うるさく言う由里子とは頻繁に衝突しており、そのたびに手狭な家の中の空気が重くなる。私も「今設計図を引き直さないと、後で基礎からやり直しになるぞ」とそれとなく諭してはいるのだが、あいつは「わかってるって」と生返事をするばかりで、塾には行くものの隙あらばサボろうとする。

そのくせ、入学当初の体験入部三日間をすべてつぎ込んで決めた吹奏楽部では、今やトランペットパートのエース的な存在だ。ソロ演奏やソリを任され、学校自体も二年連続で全国大会に出場している。それだけの実力と根性があるのに、少しハードルが上がると「俺には無理」とすぐに予防線を張る。あのセルフ・ハンディキャッピングの癖には、親としてもどう接していいか持て余すことが多かった。これまでも、そしてこれからも、あいつへの接し方はこれで正しいのかと、酒を飲むたびに一人で悩んでいる。

そんな、扱いづらい十四歳の息子が、こんな百十センチそこそこのサイズに縮むわけがない。

だとしたら、なんだこれは。

最近仕事で根を詰めすぎたせいか? それとも、模型を作れないストレスが限界を突破して、ついに脳内に謎のイマジナリーフレンドを出力してしまったのか?

「パパ?」

背後から、鼓膜を直接揺らすような、高く澄んだ声がした。

私は蛇口を閉め忘れていた。一筋の水が、洗面台の陶器のボウルにぶつかって単調な音を立てている。

「パパ、どうしたの?」

幻聴ではない。空気の振動を伴った、物理的な音声だ。

私はタオルを握りしめたまま、極めてゆっくりとした動作で振り返った。あまり急に動くと、首の筋を違えそうだったからだ。

狭い洗面所の入り口。冷たいクッションフロアの上に、彼は裸足のまま立っていた。

少し開いた口。右の頬にある、微かな引っかき傷。そして、私の足元にまとわりつくように見上げてくる、その無邪気で、しかしどこか戸惑いを含んだ視線。

「ちょっと、シワシワのおじいちゃんになっちゃった?」

男の子が、小さな手を伸ばして私のスウェットの裾をちょいちょいと引っ張った。

布が引かれる感覚。指先の微かな体温。

私は、その顔を知っていた。そのパジャマの擦り切れ方も、右頬の傷の理由も、すべて完全に把握していた。

二〇一七年の三月上旬。かつて住んでいた家の近くの公園で、滑り台から勢いよく飛び降りて顔から突っ込んだ時につけた傷だ。傷跡に貼る絆創膏を嫌がって泣き叫び、おかあさんと大立ち回りを演じた記憶が、脳の奥底のアーカイブから鮮明に引きずり出される。

私はゆっくりと膝を折り、彼と同じ目線になるまでしゃがみ込んだ。

「……マジか」

口から出たのは、ひどく間抜けな呟きだった。

心拍数が一気に跳ね上がるのがわかる。設計士という職業柄、図面の不具合を見つければ「やれやれ」とぼやきながらも論理的に修正箇所を探るのが私のルーティンだ。だが、目の前にあるこの「不具合」は、どうやって修正すればいいのか皆目見当がつかなかった。

「ゆういち、なのか?」

私が恐る恐る尋ねると、男の子は不思議そうに小首を傾げた。

「うん。パパ、お顔洗ってたの? ねえ、カービィのゲーム、どこいったか知らない?」

3DSの『星のカービィ ロボボプラネット』。

当時、彼が狂ったように遊んでいたゲームだ。この子はあまりこちらが小難しい話をしても会話が成立するタイプではなく、聞かれたことに単語で答えるようなところがある。休日のたびに「パパ、マック行こう!」とはしゃぎ、ショッピングモールのゲームセンターでカブトムシなどの昆虫が出てくる『ムシキング』をやりたがっては、大量のカードを家に持ち込んで由里子に怒られていた。

あの無邪気な六歳の息子。

そのカービィのソフトは、引っ越しのドサクサに紛れて由里子が「もうやらないでしょ」と勝手に売り払ってしまった。ムシキングの大量のカードに至っては、いつの間にか資源ゴミの束に紛れ込ませて捨てられていた。

私は震える手を伸ばし、彼の小さな肩にポンと触れてみた。

……ある。質量がある。骨があり、筋肉があり、血が通っている温かさがある。

光学的なホログラムの類でも、私の脳が作り出した幻影でもない。

八年前の息子が、そっくりそのままの姿で、二〇二六年の現在の我が家に立っている。

「パパ?」

彼が、僕を見てよと言わんばかりに私の顔を覗き込む。

私はただ、息を呑むしかなかった。

新中三になった今のゆういちと、目の前にいる六歳のゆういち。全くすれ違っていなかったあの頃の無邪気さのまま、彼が私を呼んでいる。

胸の奥に、得体の知れない戸惑いと、なんだかひどく懐かしいようなくすぐったい愛情が静かに湧き上がってくるのを感じた。

リビングのドアの隙間から、ニュース番組の明るいアナウンサーの声が漏れ聞こえてきた。

我が家のリビングには、二〇〇八年製の三十二インチ液晶テレビが鎮座している。新婚当時に購入した、分厚くて無骨な代物だ。由里子の過激な断捨離の嵐をなぜかくぐり抜け、我が家で唯一、十八年間ノーメンテナンスで生き残っている奇跡の家電である。過去の広い戸建て時代から、現在のこの手狭なマンションに至るまで、唯一変わらずにそこにある象徴的な存在。

そのテレビから流れる日常の音が、目の前の非日常な光景と混ざり合い、私の頭をぐらぐらと揺さぶった。

「お父さん、お水出しっぱなしよ。朝から何ボーッとしてるの」

背後の引き戸が開く音がして、キッチンから由里子が顔を出した。

彼女は手にお弁当箱のフタを握っていた。ゆういちは、もうすぐ春休みだというのに今日も塾と部活の朝練があるため、毎朝弁当を作らされているのだ。

由里子の小言は、途中で不自然に途切れた。

彼女の視線が、床にしゃがみ込む私と、私の前に立つ六歳の男の子に釘付けになる。

徹底した几帳面さと、融通の利かない真面目さを持つ彼女の脳が、目の前の光景を処理しきれずにフリーズしていくのが、傍目にもはっきりとわかった。

「……えっ?」

由里子の指から力が抜け、プラスチックの弁当箱のフタがポロリと滑り落ちた。

フローリングの床にカランカランと音を立てて転がっていく。

その音に反応するように、奥の部屋のドアが開く気配がした。

「母さん、弁当まだ? あと俺のイヤホン見なかった?」

変声期をとうに過ぎた、低く不機嫌な声。現在の息子、十四歳のゆういちが起きてきたのだ。

私は、足元にいる六歳の『彼』を背中へ庇うようにして、ゆっくりと立ち上がった。

洗面所の蛇口からは、相変わらず水が流れ続けている。

タイムスリップだかパラレルワールドだか知らないが、我が家のシステムに途方もないバグが発生してしまったことだけは確かだった。

私は黙って手を伸ばし、蛇口のレバーを下ろして水を止めた。

静寂が降りた手狭なマンションの中で、ここから始まるひどく不条理で、どこかおかしい一ヶ月の幕開けを、私はただ呆然と受け入れるしかなかった。

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