第六章 月影の帰還
第六章 月影の帰還
あの夜、正成に千早城の戦いが後の世でどう伝わっているのかと問われた美月は、「少ない兵で大軍を退けた戦いとして、今も語り継がれています」とだけ答えた。正成はそれ以上尋ねなかったが、美月には、語らなかった未来の重さが残っていた。それから数日が過ぎ、月が明るく輝く夜。千早城は深い静寂に包まれていた。
山麓に広がる幕府軍の陣には無数の篝火が灯り、夜風に揺れる光が、まるで地上に星を散りばめたように見えた。昼間の戦いで疲れ果てた兵たちは、それぞれの持ち場で束の間の休息を取っていた。それでも、城を取り囲む敵の気配が消えることはなかった。美月は、負傷兵たちが休む建物の前に立っていた。道玄に教わりながら手当てを手伝うようになって数日が過ぎていた。傷の深い兵の中には、熱を出して苦しむ者もいる。手元にある薬や道具だけでは救えない命があることを、美月は思い知らされていた。
「せめて、現代の医療用品があれば……」
思わず漏れた言葉は、冷たい夜風に消えていった。そのとき、雲の切れ間から丸い月が姿を現した。美月は顔を上げた。月は、夜空の高いところで静かに輝いていた。その光を見つめているうちに、祖父の遺した古文書の一節が、突然、鮮明によみがえった。
『月影、水に宿る時、隔てし世の道ひらかれん。血を継ぐ者、その声を聞くべし。』
美月は息をのんだ。月影が水に宿る時。あの夜、自分が時空を超えたのも、水面に映った月を見つめた瞬間だった。
「もしかしたら……帰れる?」
胸の鼓動が速くなった。しかし、すぐに別の思いが浮かんだ。現代へ帰ることができたとしても、再びこの時代へ戻ってこられる保証はない。美月はしばらく迷っていたが、負傷兵たちの苦しむ姿が脳裏をよぎった。帰るためではない。もう一度、ここへ戻ってくるために、現代へ行くのだ。そう決心した美月は、正成のいる建物へ向かった。
正成は、数人の武士とともに城の守りについて話し合っていた。美月が訪ねると、正成は武士たちを下がらせ、静かに彼女を迎えた。
「このような夜更けに、どうしたのじゃ」
「正成様。お願いがあります」
美月は、古文書に記されていた一節と、満月の光が水面に映ったときに起きた不思議な出来事について話した。正成は黙って耳を傾けていた。
「私は、一度、自分の時代へ戻りたいんです」
その言葉に、正成の表情がわずかに曇った。
「元の世へ帰るのか」
「はい。でも、帰ったままにはしません。必ず戻ってきます」
「何のために」
「傷ついた兵たちを助けるためです。私の時代には、今よりずっと進んだ医療用品があります。それに、少しですが、食べ物も持ってこられます」
正成はしばらく考え込んでいた。
「そなたの心はありがたい。だが、未来のものをこの世へ持ち込めば、後の世に何か影響を及ぼすことにはならぬのか」
美月はすぐには答えられなかった。歴史を変えることへの恐れは、彼女自身も感じていた。
「分かりません。でも、目の前で苦しんでいる人を、何もせずに見ていることもできないんです」
正成は美月を見つめた。やがて、静かにうなずいた。
「ならば、そなたの思うようにしてみよ。ただし、無理はするな。戻れぬこともあるやもしれぬ」
「はい」
正成は人目につかぬよう、城の奥にある小さな庭へ美月を案内した。そこには水を蓄えるための口の広い陶器の甕が置かれていた。正成は自ら水を汲み、月の光が届く場所へ甕を移した。美月はその前に膝をついた。水面には、縁の欠け始めた月が映っていた。
「本当に、これで……」
美月は水面を見つめ、心の中で強く願った。元の時代へ帰りたい。そして、必ずここへ戻ってきたい。しばらくは何も起こらなかった。美月は手帳を開き、古文書から写した一節を、祈るように読み上げた。
「月影、水に宿る時、隔てし世の道ひらかれん」
傍らでは正成が息を潜めて見守っていた。やがて、水面に映った月がかすかに揺れた。風は吹いていなかった。それなのに、銀色の光だけが水の奥へ沈み込むように広がり始めた。美月の周囲の空気が冷たく震え、足元から淡い光が立ち上がった。
「美月!」
正成の声が聞こえた。美月が顔を上げた瞬間、月の光が視界いっぱいに広がった。そして次の瞬間、彼女の姿は庭先から消えていた。
美月が目を開けると、そこは見覚えのある山道だった。夜空には、丸みを残した月が浮かんでいた。遠くには現代の街灯が見え、舗装された道路が月明かりを受けて鈍く光っていた。
「戻ってきた……」
美月はその場にしゃがみ込んだ。自分がいたのは、七百年近く前の千早城だった。しかし、今、目の前にあるのは現代の千早赤阪村である。美月は震える手でスマートフォンを取り出した。画面が明るくなり、見慣れた数字と通知が表示された。日付を確かめ、美月は何度も画面を見直した。千早で過ごした日数ほどには、こちらの時間が進んでいない。二つの時代で同じだけ時が流れるとは限らないのだろうか。母から届いていた連絡に、無事でいることと帰宅することを伝えてから、もう一度日付を手帳に記した。その光景を見ただけで、涙がこぼれそうになった。けれども、感傷に浸っている時間はなかった。月が出ていれば再び帰れるのか、それとも先ほどの言葉が必要だったのか、まだ分からない。美月は急いで山を下り、現代の街へ向かった。
翌朝、美月は必要なものを買い集めていた。包帯、滅菌ガーゼ、手袋、清潔な布、消毒用品。さらに、保存の利く食料として、カップ麺を二箱と個包装の切り餅を数袋用意した。荷物を前にすると、その量に自分でも驚いた。
「これだけでも、運ぶのは大変そう……」
カップ麺は軽いが、箱はかさばる。切り餅は小さくても、数が増えればかなりの重さになった。医療用品も加わり、一度に持てる量には限界があった。美月は荷物を整理し、背負えるものはリュックサックへ詰め、残りは両手で運べるようにまとめた。それでも、城にいる数百人の兵を養える量ではない。彼女は、まず負傷兵や体力の落ちた者たちに届けようと考えた。その夜、美月は再び千早赤阪村へ向かった。月はまだ丸く、夜空を明るく照らしていた。
彼女は、前夜に戻ってきた場所の近くで、静かな水面を探した。山道の脇に、小さな水たまりがあった。しかし、水面は狭く、月の姿が完全には映らなかった。美月はしばらく考えた後、持ってきた大きめの容器に水を張り、月がはっきり映る場所へ置いた。水面が静まると、そこに、わずかに縁の欠けた月が浮かび上がった。美月は荷物を抱え直し、祖父の古文書の一節を、祈るように声に出した。
「月影、水に宿る時、隔てし世の道ひらかれん。血を継ぐ者、その声を聞くべし」
「お願い……もう一度、あの時代へ」
水面の月が揺れた。銀色の光が広がり、山道の景色がゆっくりと薄れていく。そして、美月は再び時空の境を越えた。
千早城の奥まった庭では、美月が姿を消した翌日の夜も、正成が一人で帰りを待っていた。人払いを済ませた庭に、兵たちの姿はなかった。月の光を受けた甕の水面が、ふいに銀色に輝き始める。正成が息をのんだ次の瞬間、光の中から美月が姿を現した。両手には大きな荷物を抱え、背中にはリュックサックを背負っていた。
「正成様!戻りました!」
正成は驚いたように目を見開いたが、すぐに安堵の表情を浮かべた。
「本当に戻ってきたか」
「はい。約束しましたから」
美月は荷物を下ろし、正成に中身を見せた。
「これが、私の時代の食べ物です。それから、傷の手当に使うものも持ってきました」
正成は見慣れない包みや器を、一つひとつ不思議そうに眺めた。
「これは、何じゃ」
「カップ麺といって、お湯を入れるだけで食べられるものです」
「湯を入れるだけで?」
「はい。少し待てば、温かい麺になります」
正成は感心したようにうなずいた。
「なんとも不思議なものじゃな」
美月はさらに、個包装の切り餅を取り出した。
「こちらはお餅です。焼いたり煮たりして食べられます。体力を取り戻した兵たちにも、少しずつ分けたいと思っています」
正成は餅を手に取った。
「餅ならば、この世にもある。されど、このように一つずつ包んであるとは……」
そのとき、道玄が呼ばれてやってきた。美月は持ち帰った医療用品を見せ、使い方を説明した。道玄は清潔なガーゼや包帯を手に取り、その作りの細かさに驚いていた。
「これほど清らかな布を、傷に当てられるとは……」
「でも、道玄様。私も医者ではありません。使い方を間違えると危険なものもあります。だから、一緒に確かめながら使いたいんです」
道玄は深くうなずいた。
「分かった。そなたの知ることと、わしの心得を合わせて、傷ついた者たちのために尽くそう」
美月は微笑んだ。
翌日、城内には久しぶりに明るい声が響いた。大きな釜で湯が沸かされ、美月が持ち込んだカップ麺が、負傷兵たちに振る舞われた。初めて見る食べ物に、兵たちは目を丸くした。見慣れぬ器を前に箸を伸ばしかねる者もいたが、正成が先にひと口味わい、「案ずるな。傷ついた者のために用意した食べ物じゃ」と告げると、兵たちの緊張もようやく和らいだ。
「これは、何という食い物じゃ」
「麺です。熱いので、気をつけてくださいね」
一人の兵が恐る恐る口に運ぶと、驚いたように顔を上げた。
「うまい!」
周囲から笑い声が上がった。正成も少しだけ味を確かめ、その濃い味付けと手軽さに感心していた。しかし、彼はすぐに残りの食料の数を確かめた。
「美月、これは大切に使わせてもらおう。今あるものを一度に食べ尽くしてはならぬ」
「はい。私もそう思います」
切り餅は、食べられるまでに回復した兵たちへ、少しずつ分けられた。道玄は美月とともに負傷兵の手当てを続け、清潔な布やガーゼを必要な者から使っていった。美月が持ち込んだものだけで、城のすべての苦しみを取り除けるわけではないのであった。それでも、傷ついた兵たちの表情には、確かに小さな希望が生まれていた。
その夜、美月は正成とともに城の高台に立っていた。少し欠けた月は西の空へ傾き始めていた。
「美月」
「はい」
「そなたの世には、これほど便利なものがあるのじゃな」
「はい。でも、私たちの時代にも、争いや苦しみはあります」
正成は静かにうなずいた。
「世が変わっても、人の心は容易には変わらぬものか」
美月は答えられなかった。正成はしばらく月を見上げていたが、やがて口を開いた。
「そなたが持ち帰ったものは、確かにありがたい。だが、わしが何より嬉しかったのは、そなたが戻ってきたことじゃ」
美月は正成を見つめた。
「正成様……」
「そなたは、帰ろうと思えば元の世へ帰れた。それでも、この城へ戻ってきた。その心を、わしは忘れぬ」
美月の目に涙が浮かんだ。遠い未来から来た自分を、この時代の人々が受け入れてくれている。そして、自分もまた、彼らのために何かをしたいと思っている。その思いは、もはや歴史への興味だけではなかった。山麓では、幕府軍の篝火が夜の闇に連なっていた。戦いはまだ終わっていない。美月は月を見上げた。満月に近い明るさを保つ夜は、もう長くは続かない。行きにも帰りにも古文書の言葉を口にしたあとで道が開いたが、それが何を意味するのかは分からなかった。次に確かに帰れるのは、ひと月近く先かもしれない。それまで自分は、この時代で生きていかなければならない。
しかし、不思議と恐れはなかった。正成とともに、この時代を見届けたい。そして、できる限りの命を救いたい。美月は静かに決意した。月の光が、千早城の石垣と山々を銀色に照らしていた。




