第七章 兵糧を断つ影
第七章 兵糧を断つ影
千早城を包む山々には、春の気配が少しずつ濃くなっていた。木々の枝には若葉が芽吹き、谷を渡る風にも冬の冷たさは薄れつつあったが、城を取り巻く幕府軍の陣からは、昼夜を問わず人馬の物音が聞こえていた。
攻め寄せる足音が途絶えた日にも、正成は山麓の陣を見続けていた。初めのうちは城から声が上がるだけで弓を構えていた敵兵が、今では焚き火のそばに腰を据え、こちらを見上げようともしない。城を囲んで待つことに慣れたのだろう。その様子を確かめた正成は、兵たちに藁を集めさせ、古い鎧や使える矢を失った矢筒を持ってこさせた。庭先に積まれた藁が、縄で締められて人の形になっていく。茶を運んできた美月が足を止めると、兵の一人が、出来上がった人形に兜をかぶせていた。傾いた首を直す手つきが妙に丁寧で、美月は一瞬、そこで何が行われているのか分からなかった。「これを、兵に見せるのですか」正成は人形の肩へ手を置き、山麓から見える側へ向けた。「城の兵が外へ出たと知れば、手柄を欲しがる者もおろう。待つだけで済むと思うておるところを、動かすのじゃ」その夜、土地に慣れた兵たちが人形を背負い、城の外へ忍び出た。置き場所は、上から石を落とせる斜面の下である。人形を立てる者とは別に、数人が声を上げて敵の目を引き、合図とともに身を隠すことになっていた。正成は戻る道を一人ずつ確かめさせ、最後の者が退くまで石を動かしてはならぬと念を押した。空が白み始めた頃、城外から鬨の声が上がった。薄明かりの中に鎧を着けた影が並び、幕府軍の陣がにわかに騒がしくなる。先頭の一隊が斜面へ取りつくと、その後ろからも兵が続いた。人影が逃げないと見るや、我先にと足を速める者までいた。岩陰に伏せた味方の兵が、低く身をかがめて戻ってきた。正成はその人数を確かめてから、再び斜面へ目を向けた。石を支える兵たちの腕に力がこもったが、上げた手はまだ下りなかった。敵の一人が、人形へ槍を突き出した。鎧の隙間から藁がこぼれ、その男が顔を上げた。「落とせ」石が唸った。地面を打つ音が重なり、斜面に土煙が噴き上がった。登ってくる兵と逃れようとする兵がぶつかり、叫び声が谷へ落ちていく。美月は岩の縁を握りしめた。つい昨夜まで庭先に転がっていた藁が、人をここまで誘い寄せた。そのことが、目の前の光景とすぐには結びつかなかった。正成は敵の列が崩れたのを見届けると、石を落とす手を止めさせた。戻った兵の一人が肩で息をしながら兜を脱ぐ。その額から流れる汗を見て、美月はようやく、自分も息を詰めていたことに気づいた。山麓へ退いていく兵たちの向こうで、陣太鼓が鳴っていた。正成はその音を聞きながら、次の見張りを持ち場へ向かわせた。
美月が現代から持ち帰った食料や医療用品は、道玄たちの手によって大切に使われていた。滅菌ガーゼや包帯は傷の深い兵から優先して渡され、カップ麺や切り餅も、体力を取り戻しつつある者たちに少しずつ分けられていた。初めて口にした温かな麺の味を忘れられないという兵もいたが、持ち込んだ食料は決して多くない。城にいるすべての者を養うには到底足りず、美月もそのことを十分に理解していた。それでも、負傷兵の顔にわずかな笑みが戻ったことは、彼女にとって何より嬉しいことだった。
ある朝、美月が道玄とともに傷の手当てをしていると、城内を慌ただしく駆け抜ける足音が聞こえた。
「殿はどちらにおられる!」
武士の一人が声を張り上げていた。その表情には、戦場で敵の襲撃を知らせるときとは異なる、切迫したものがあった。美月が顔を上げると、道玄も手を止めた。
「何かあったのでしょうか」
「分からぬ。じゃが、よい知らせではなさそうじゃ」
ほどなくして、城の奥から正成のもとへ集まるよう命令が伝えられた。美月も道玄に促され、負傷兵の手当てをほかの者に任せると、正成のいる建物へ向かった。そこにはすでに数人の武士が集まり、険しい表情で話し合っていた。
「敵が、山へ通じる道をさらに厳しく押さえ始めました」
一人の武士が報告した。
「昨夜、兵糧を運ぼうとした者たちが途中で引き返しております。谷筋にも敵の見張りが増え、これまで使っていた細道さえ、容易には通れませぬ」
正成は腕を組み、しばらく黙っていた。
「力攻めで落とせぬと知り、今度は飢えを待つつもりか」
「このままでは、城へ運び込める米が限られます」
その言葉を聞いた美月の胸に、冷たいものが広がった。千早城の戦いについて学んだとき、彼女は楠木正成が少数の兵で幕府の大軍を翻弄したことを知った。しかし、城を守る者たちが毎日何を食べ、どれほどの苦労をして兵糧を確保していたのか、教科書にはほとんど書かれていなかった。戦いとは、刀や弓だけで決まるものではない。人が生きていくための食べ物がなくなれば、どれほど勇敢な兵でも戦い続けることはできないのである。正成は美月に目を向けた。
「そなたの持ち帰った食べ物も、いずれ尽きる。じゃが、案ずるな。わしらはこのような事態も考えておる」
「何か方法があるのですか」
「敵が道を塞ぐならば、その目を欺いて運び込むまでのことじゃ」
正成はそう言って、床に広げられた山道の図を指さした。千早城を囲む山々には、谷や尾根を縫うように幾筋もの道が延びている。その中には、土地の者でなければ気づかないような細い道もあった。
「山を知る者の力を借りる。大軍には塞ぎきれぬ場所もあるはずじゃ」
武士たちはうなずいたが、美月には一つ気になることがあった。
「でも、正成様。もし敵が、その細い道まで見つけたら……」
正成は静かに答えた。
「そのときは、また別の手を考える。戦とは、相手が何をするかを見極め、先を読むことじゃ。決めた策に固執すれば、かえって命を失う」
その言葉には、幾度も危機を乗り越えてきた武将の重みがあった。美月は改めて、目の前にいる人物が、後の世に名将として語り継がれる楠木正成なのだと感じていた。
その日の午後、美月は城内の食料を保管している場所を訪れた。そこには米俵や雑穀、干した野菜などが積まれていたが、兵たちが毎日口にする量を考えると、決して余裕があるようには見えなかった。食料を管理していた年配の武士が、美月に声をかけた。
「正成様がお預かりの娘御と聞いておる。何か用か」
「食べ物がどのくらい残っているのか、知りたくて来ました」
武士は少し困ったように笑った。
「正確な数は殿に申し上げておる。じゃが、敵に囲まれた城では、一粒の米も粗末にはできぬ。それだけは確かじゃ」
美月は並んだ米俵を見つめた。現代では、店に行けば米もパンも買える。お金さえあれば、温かい食事を手に入れることも難しくない。しかし、この時代では、米を育て、収穫し、山道を越えて運び込むまでに、多くの人々の労力が必要だった。その道を敵に塞がれれば、城の中にいる者は蓄えだけで生き延びなければならない。
「私、何か手伝えませんか」
武士は驚いたように美月を見た。
「そなたがか」
「はい。戦うことはできません。でも、食料を無駄にしない工夫なら、何かできるかもしれません」
武士はしばらく考えた後、米や雑穀を量り分ける仕事を手伝わせてくれた。美月は木の器を使って一人分ずつを分けながら、食べる量を減らすことが、どれほど人の体力を奪うかを考えていた。すでに傷ついている兵に、十分な食事も与えられなくなれば、回復はさらに遅れるだろう。道玄が言っていた言葉を思い出した。助けられる命を、一つでも多く助ける。そのためには、薬や包帯だけでなく、食べ物も必要なのだ。
夕暮れが近づいた頃、城の見張り台から知らせが入った。
「西の谷に敵兵が集まっております!」
美月が外へ出ると、山の斜面を見下ろす場所に正成が立っていた。数人の武士が周囲を取り囲み、谷の向こうに目を凝らしている。
「敵が動き始めたのですか」
美月の問いに、正成はうなずいた。
「兵糧を運ぶ者が通ると見込んでおるのじゃろう。あの谷を押さえれば、城へ入る道を一つ断てる」
美月も谷へ目を向けた。木々の間には、わずかに人影が見え隠れしていた。遠くからでは数も分からないが、敵が少しずつ山の中へ入り込んでいることだけは確かだった。
「正成様、あそこを通る人たちは大丈夫なのでしょうか」
「敵の動きは知らせてある。今夜はあの道を使わせぬ」
そう答えた正成の表情は落ち着いていたが、その目は厳しかった。
「ただ、敵も愚かではない。一つの道を塞いで終わりにはすまい。これからは、城を攻めるよりも、城を飢えさせることに力を注ぐやもしれぬ」
美月は言葉を失った。戦場では、敵の矢が飛んでこなくても人は死ぬ。食べ物がなくなり、傷が癒えず、病が広がれば、城を守る兵たちは少しずつ力を失っていく。歴史の本には、千早城が幕府軍の大軍を相手に持ちこたえたと記されている。しかし、その一行の裏には、今ここで生きている人々の苦しみがあった。美月は正成に向き直った。
「正成様。私は、もっとこの時代のことを知りたいです。どうすれば、この城の人たちを助けられるのか、考えたいんです」
正成は彼女を見つめ、わずかに微笑んだ。
「そなたは、もう十分に力を尽くしておる」
「いいえ。まだ、できることがあると思うんです」
正成はしばらく黙っていたが、やがて山々へ視線を戻した。
「ならば、よく見ておくがよい。城を守るとは、敵を討つことだけではない。ここにいる者たちを、生き延びさせることでもあるのじゃ」
美月は深くうなずいた。
夜になると、城の周囲は再び闇に包まれた。山麓の篝火は以前よりも広い範囲に増え、幕府軍が包囲を強めていることを物語っていた。美月は道玄のもとへ戻り、負傷兵たちの様子を確かめた。昼間に熱を出していた若い兵は、少し落ち着いた表情で眠っている。別の兵は、美月の姿を見ると、弱々しくも笑顔を見せてくれた。
「娘御。あの不思議な麺は、もうないのか」
美月は思わず笑った。
「まだ少し残っています。でも、みんなで分けなければいけないので、今日はお預けです」
「そうか。それなら、元気になってからの楽しみにしておこう」
兵はそう言って目を閉じた。美月はその顔を見つめながら、胸の奥に温かなものを感じた。この人たちは、歴史の中に記された名もない兵士ではない。家族があり、帰りを待つ人がいて、明日も生きたいと願っている、一人ひとりの人間なのだ。そのとき、建物の外から、慌ただしい足音が聞こえた。
「道玄殿!急ぎお越しくだされ!」
道玄が立ち上がった。
「何事じゃ」
「山道で兵が倒れております。敵に追われてきた者のようで……」
美月も思わず立ち上がった。
「私も行きます!」
道玄は一瞬ためらったが、すぐにうなずいた。
「よし。手当ての道具を持ってまいれ」
美月は現代から持ち帰ったガーゼと包帯を手に取り、道玄の後を追った。夜の城内を、二人は急いで駆け抜けた。やがて門の近くへたどり着くと、そこには数人の武士に支えられた若い男がいた。衣服は泥にまみれ、肩から血が流れていた。男は苦しそうに息をしながらも、何かを伝えようとしていた。道玄が傷を確かめる間、美月は男のそばに膝をついた。
「大丈夫です。今、手当てをしますから」
男はかすかに首を振った。
「それより……殿に……」
「何ですか」
男は震える唇を動かした。
「敵が……山の道を……」
そこまで言うと、激しく咳き込んだ。美月は男の手を握った。
「無理に話さなくていいです。まず、傷を……」
しかし男は、残された力を振り絞るように言葉を続けた。
「裏の道を……知っております……」
美月の胸が大きく高鳴った。千早城を支えてきた、山中の秘密の道。それが敵に知られてしまったのだとすれば、城の命綱が断たれるかもしれない。道玄は男の肩を押さえ、出血を止めようとしていた。美月は武士の一人に向かって叫んだ。
「正成様を!すぐに正成様を呼んでください!」
武士が駆け出していく。男は美月を見つめ、かすれた声で言った。
「まだ……間に合う……」
その目には、恐怖とともに、どうしても伝えなければならないという強い意志が宿っていた。美月は男の手を握り直した。
「分かりました。必ず伝えます。だから、あなたも生きてください」
遠くの山から、法螺貝の音が響いた。それが味方の合図なのか、敵の動きを知らせるものなのか、美月には分からなかった。ただ一つ、確かなことがあった。千早城を守る戦いは、これまでとは違う局面へ入り始めていたのである。




