第五章 戦場に灯る命
第五章 戦場に灯る命
千早城に夕闇が迫る頃、山麓に集結した幕府軍の陣には、数え切れないほどの篝火が灯り始めていた。西の谷での戦いを退けた後も、正成は兵たちに警戒を怠らぬよう命じていた。城内では傷ついた者の手当てが続き、武具を修理する音や、薪を割る音が絶え間なく聞こえていた。美月は、城の奥に設けられた小さな建物の前で足を止めた。中から苦しそうなうめき声が聞こえたのである。
戸口をのぞくと、敷かれた筵の上に数人の負傷兵が横たわっていた。腕を布で巻かれた者、足を傷つけた者、顔色を失いながら痛みに耐えている者もいた。その傍らでは、白髪交じりの男が小さな器を手に、傷の具合を確かめていた。
「そこにおる娘、何か用か」
突然声をかけられ、美月は慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません。けがをした方たちが気になって……」
男は美月の顔をしばらく見つめた。
「見慣れぬ顔じゃな。どこの者じゃ」
「正成様のお許しをいただいて、城に置いていただいています。楠木美月と申します」
「楠木……?」
男は少し驚いた様子を見せたが、それ以上は尋ねなかった。
「わしは道玄と申す。薬の心得が少しあるゆえ、ここで傷ついた者を診ておる」
道玄は器を置くと、傍らに積まれた布を指さした。
「手伝う気があるなら、その布を取ってくれぬか」
美月はすぐに布を差し出した。道玄は負傷兵の腕に当てていた古い布を慎重に外した。現れた傷口を見た瞬間、美月は思わず息をのんだ。刃物で切られたらしく、皮膚が大きく裂けていた。
「この者は、敵の太刀を受けた。幸い深手ではないが、油断はできぬ」
道玄は湯を入れた器を近くへ寄せ、傷の周囲についた土や血を少しずつ拭い取った。別の男が傷を押さえ、道玄が新しい布を当てて巻いていく。
「傷は、ただ塞げばよいというものではない。汚れたままでは、後から腫れて熱を持つことがある」
美月は真剣にその手元を見つめた。大学で歴史を学んできた彼女にも、中世の医療について詳しい知識があるわけではなかった。傷の治療法が現代とは違うことは分かっていても、目の前で行われる手当ての一つひとつが初めて見るものだった。
「道玄様、私にも覚えられるでしょうか」
「覚えることはできよう。だが、人の命を預かることは容易ではないぞ」
道玄は美月を見つめた。
「それでも、やってみたいか」
「はい。何もできずに見ているだけなのは、つらいんです」
道玄はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「ならば、まずは湯を運ぶことと、布を整えることから始めよ。傷の深い者には、勝手に手を出してはならぬ」
「分かりました」
美月は袖をまくり、道玄の指示に従って働き始めた。湯を沸かすために薪を運び、使う布を整え、負傷兵の体を支える。単純な仕事ばかりだったが、傷ついた兵たちのそばで動いているうちに、時間が過ぎるのを忘れていた。しばらくすると、一人の若い武士が美月に声をかけた。
「そなた、朝方にも城内におったな」
顔を上げると、今朝の戦いの後、母親を気遣っていた、あの負傷兵だった。
「はい。腕の傷は大丈夫ですか」
「大したことはない。母上に知られれば、また小言を言われようがな」
若者は笑ったが、顔には疲労が浮かんでいた。美月も微笑み返した。
「早く良くなるといいですね」
「そうじゃな。生きて帰らねば、母上に叱られる」
その言葉を聞き、美月は胸が熱くなった。彼には帰りを待つ家族がいる。ここに横たわる兵たちにも、それぞれの暮らしがあるのだ。美月は道玄に教わったとおり、新しい布を手渡し、若者が楽な姿勢で休めるよう手を貸した。
夜が深まる頃、美月はようやく建物の外へ出た。冷たい山風が頬をなで、かまどのある方角から、温かな湯気と穀物の煮える匂いが漂ってきた。空腹を覚えた美月がそちらへ向かうと、大きな釜の前で数人の男たちが食事の支度をしていた。釜の中では、米に麦や粟を交えた粥が煮えていた。別の鍋には、大根や山菜を入れた汁があり、傍らには干した魚や塩漬けの食べ物が少しばかり置かれていた。
「腹が減ったか」
振り返ると、正成が立っていた。
「はい。そういえば、こちらへ来てから、まともに食事をしていませんでした」
「それはいかぬ。腹が減っては、力も出まい」
正成は炊事をしていた男に声をかけ、美月のために粥を一椀用意させた。美月は両手で木の椀を受け取った。白いご飯とは違い、粥にはさまざまな穀物が混じっていた。口に運ぶと、柔らかく煮えた米の中に麦や粟の粒が感じられ、ほのかな甘みが広がった。
「おいしい……」
思わず声が漏れた。正成は穏やかに笑った。
「粗末なものですまぬな」
「そんなことありません。温かいものが食べられるだけで、ありがたいです」
美月がそう答えると、正成は少し表情を和らげた。
「籠城の戦では、兵糧が何より大切じゃ。いかに堅い城であろうと、食うものが尽きれば守り続けることはできぬ」
「これだけ大勢の人がいるのに、食べ物は足りるのですか」
「長く守れるよう、備えはしてある。米ばかりではない。麦や雑穀、干した食べ物も蓄えておる。だが、いつまでも尽きぬわけではない」
正成は山麓に広がる敵の陣を見下ろした。
「敵も同じじゃ。大軍であればあるほど、食わせねばならぬ口も増える。兵の数が多いことは、必ずしも利ばかりではない」
美月は椀を持つ手を止めた。大学で学んだ千早城の戦いでは、正成の知略や城の堅固さが強調されていた。しかし、戦いを支えていたのは、武器や戦術だけではなかった。兵たちが毎日食べるものを確保し、負傷者を支え、明日も戦える状態を保つこと。それらすべてが、城を守るために必要だったのだ。
「正成様は、戦うこと以外にも、こんなにたくさんのことを考えているんですね」
「わし一人で考えておるわけではない。食を整える者、傷を診る者、道を見張る者。それぞれの働きがあって、初めて城は守れる」
正成は静かに続けた。
「一人の力には限りがある。されど、皆が力を合わせれば、大軍にも抗うことができるのじゃ」
美月はその言葉を深く胸に刻んだ。
翌朝、美月は再び道玄のもとを訪ねた。
「おや、また来たか」
「はい。今日もお手伝いさせてください」
道玄は少し笑った。
「ならば、昨日教えたことを忘れておらぬか、見せてもらおう」
美月は湯を用意し、布を整えた。道玄が負傷兵の傷を診る間、必要なものを手渡し、痛みに耐える兵の体を支えた。最初は血を見るだけで体がこわばっていたが、目の前の人を助けたいという思いが、その恐怖を少しずつ和らげていった。昼近くになると、道玄は美月に一人の兵の様子を見に行くよう頼んだ。昨夜から熱を出しているという。美月がその兵のもとへ向かうと、若い男が苦しそうに目を閉じていた。額に触れると、驚くほど熱かった。
「道玄様!」
美月が呼ぶと、道玄はすぐに駆けつけた。傷口の周囲は赤く腫れ、兵は呼びかけに弱々しく答えるばかりだった。道玄の顔が険しくなった。
「傷が悪くなっておる……」
美月は唇をかんだ。現代であれば、医師の診察を受け、必要に応じて薬や適切な処置を受けられる。しかし、この時代には、そのための手段が限られている。自分は未来から来たのに、目の前の人を救う方法を知らない。その悔しさが胸に込み上げた。
「道玄様、私にできることはありませんか」
道玄は兵の様子を確かめながら答えた。
「水を持ってきてくれ。それから、清い布を。わしが診る間、この者が一人にならぬよう、そばにおってやれ」
美月はうなずき、すぐに立ち上がった。水を運び、道玄の指示に従って兵の世話を続けた。熱にうなされる若者が何度も母親を呼ぶたび、美月はそっと声をかけた。
「大丈夫。ここにいますから」
その言葉が、どれほどの助けになるのかは分からなかった。それでも、美月は彼の手を離さなかった。夕方になり、ようやく若者の呼吸が少し落ち着いた頃、道玄が美月の隣に腰を下ろした。
「よく働いたな」
「私は、何もしていません。ただ、言われたことをしただけです」
「それでよいのじゃ」
道玄は静かに言った。
「人を救おうとする者が、何もかもできると思うてはならぬ。できることを見極め、力を尽くす。それが大切なのじゃ」
美月は若者の寝顔を見つめた。まだ熱は下がりきっていない。明日になれば元気になるという保証もない。それでも、今は生きている。その命を守るために、自分にもできることがある。美月はようやく、その小さな手応えを感じていた。
その夜、城の見張り台から法螺貝の音が鳴り響いた。美月が外へ出ると、正成が数人の武士とともに山麓を見つめていた。
「何かあったのですか」
正成は振り返った。
「敵の陣に動きがある。どうやら、力攻めだけでは城を落とせぬと悟ったらしい」
「それでは……」
「次は、別の手を使うやもしれぬ」
正成の視線の先には、山を取り囲むように幕府軍の篝火が連なっていた。美月はその光景を見つめながら、昼間、道玄が語った言葉を思い返した。自分にできることを見極め、力を尽くす。戦うことはできなくても、傷ついた人のそばにいることはできる。食事を運び、手当てを覚え、誰かが生き延びるための力になることもできる。そのとき、正成が静かに口を開いた。
「美月。そなたには、まだ聞いておらぬことがある」
「何でしょうか」
「そなたの知る後の世では、この千早城の戦いは、どのように伝わっておる」
美月は息をのんだ。正成の瞳は、まっすぐに彼女を見つめていた。その問いに答えることは、単に歴史を語ることではない。これから起こる未来を、この時代に生きる人間へ伝えることになる。美月はしばらく言葉を探した。山麓では、無数の篝火が夜風に揺れていた。そして彼女は、初めて自分の知る歴史を、正成にどこまで話すべきなのかという問いと、真正面から向き合うことになるのであった。




