第四章 西の谷に潜む罠
第四章 西の谷に潜む罠
千早城を包む朝霧は、夜明けを迎えてもなお、深い谷の底に白く漂っていた。東の尾根から押し寄せた幕府軍は、正成の巧みな指揮によっていったん退いたものの、山麓に連なる陣からは絶えず人馬の動く音が聞こえていた。城を守る兵たちは束の間の休息を取っていたが、誰一人として武具を手放そうとはしなかった。美月は城内の片隅に立ち、負傷した兵が運ばれていく様子を見つめていた。
つい先ほどまで、彼らは正成の命令に従い、城へ攻め上がってくる敵兵に矢を放っていた。戦いの最中は勇ましく見えた彼らも、矢を置けば痛みに顔をゆがめる一人の人間だった。腕に傷を負った若い武士が、仲間に支えられながら通り過ぎていく。年の頃は美月とさほど変わらないように見えた。
「母上には、知らせるなよ。余計な心配をかけとうない」
若者がそう言うと、肩を貸していた武士は苦笑した。
「そのような傷、帰ればすぐに分かるわ」
二人は笑おうとしたが、その声には疲労がにじんでいた。美月は二人の後ろ姿を見送った。傷を負いながらも母親を気遣う若者の言葉が、いつまでも耳に残っていた。自分にも何かできることはないだろうか。そう考えたものの、傷の手当てさえ満足にできない自分が、もどかしかった。そのとき、城の奥から数人の武士が足早に現れた。先頭に立つ正成は、先ほどまでの穏やかな表情を消し、険しい山並みへ目を向けていた。
「西の谷の様子はどうじゃ」
「敵勢は谷口に集まりつつあります。東の尾根より道は険しゅうございますが、木立に隠れて近づくつもりかと」
報告を聞いた正成は、すぐには答えなかった。しばらく谷の方角を見つめていたが、やがて口元にわずかな笑みを浮かべた。
「なるほど。正面から登れぬと見て、今度は西へ回ったか」
傍らにいた年配の武士が、心配そうに声を低めた。
「殿、あちらは道こそ狭うございますが、ひとたび上まで取りつかれれば厄介にございます。兵を割いて守りを固めましょうか」
「いや。むやみに兵を動かせば、こちらの手薄な場所を敵に教えることになる」
正成は足元に落ちていた小枝を拾い、地面に簡単な山の形を描き始めた。美月は思わず近づいた。描かれたのは、千早城を囲む尾根と谷、そして敵が進もうとしている西側の細い道だった。正成はその一角を小枝の先で示した。
「ここには、雨が降るたびに土が流れる急斜面がある。大勢が通れるような場所ではない。敵が谷を抜けようとすれば、必ずこの狭い道へ集まることになる」
「では、そこで迎え撃つのでございますか」
「ただ迎え撃つだけでは、兵を失う。敵には、こちらの姿を見せぬ方がよい」
正成は兵を二手に分けた。一隊には谷の入口でわざと姿を見せて退くよう命じ、もう一隊には木立の奥で弓を構えさせた。敵が追撃を急いだところで、左右から矢を射かけ、城へ向かう道を断つ算段だった。その手際には迷いがなかった。美月は地面に描かれた山の形を見つめた。史料には、正成が地形を利用して幕府軍を苦しめたと記されていた。しかし、その知略がどのような判断から生まれたのか、彼女は今、初めて目の当たりにしていた。
「美月」
突然、正成に名を呼ばれ、彼女は顔を上げた。
「そなたは、この山を知っておると言うたな」
「はい。私の時代にも、千早の山は残っています。ただ、道や景色はずいぶん違っていますけれど」
「そうであろうな」
正成は地面の図を指さした。
「では、この西の谷について、何か知っておることはないか」
美月は戸惑った。自分が知っているのは、七百年近く後の千早赤阪村である。山の形そのものは大きく変わらなくても、道や谷の様子まで同じとは限らない。まして、目の前にいる正成は、その土地を誰よりも知り尽くしているはずだった。
「申し訳ありません。今の時代の地形については、正成様の方がずっと詳しいと思います」
正成はうなずいた。
「それでよい。知らぬことを知っておると言われるより、よほど頼もしい」
その言葉に、美月は少しだけ肩の力が抜けた。正成は小枝を置き、武士たちへ向き直った。
「敵を侮るな。こちらが山を知っておるように、向こうにも戦を知る者がおる。仕掛けに気づけば、無理には進むまい。退き道を塞ぐことより、まず城へ近づかせぬことを考えよ」
武士たちは深く頭を下げ、それぞれの持ち場へ走っていった。美月は、その後ろ姿を見送りながら尋ねた。
「正成様は、敵を全滅させようとは思わないのですか」
正成は静かに彼女を見た。
「敵を一人残らず討とうとすれば、こちらも多くを失う。わしらは、この城を守らねばならぬのじゃ。敵に、これ以上攻めても得るものはないと思わせる。それも戦い方の一つよ」
美月は何も言えなかった。
「奇策」と呼ばれる正成の戦い方には、限られた兵を生かし、城を守り抜こうとする思いがあった。
やがて谷の向こうから鳥の鳴き声に似た合図が響いた。それは、見張りの兵が敵の接近を知らせたものである。正成はすぐに顔を上げた。
「来たか」
城内の空気が再び張り詰めた。美月は正成に促され、見張りのいる高台から少し離れた岩陰へ移った。そこからは西の谷を見下ろすことができたが、深い木立と朝霧に遮られ、敵兵の姿は容易には見えなかった。しばらくすると、谷底から甲冑の触れ合う音が聞こえてきた。幕府軍の一隊が、細い山道を慎重に進んでいた。先頭の兵は槍を構え、頭上の木々を警戒しながら一歩ずつ登ってくる。後続の兵たちはその後ろに連なり、谷の狭さのため、隊列を広げることができずにいた。美月は息を殺した。
正成の兵たちが潜んでいるはずの斜面には、人影一つ見えなかった。敵の先頭が曲がり角へ差しかかったとき、谷の奥から鋭い声が響いた。
「上を見ろ!」
一人の兵が何かに気づき、顔を上げた。その瞬間、木立の陰から楠木方の兵が数人姿を見せ、矢を放つとすぐに背を向けた。幕府軍の先頭が追いかけようとしたが、指揮官が怒鳴った。
「待て!誘いに乗るな!」
兵たちの足が止まる。正成の仕掛けは見破られたかに思えた。ところが、退いた兵を追わずに進路を変えた敵の一隊が、木立の奥へ踏み込んだ。そこで初めて、左右から弓弦の鳴る音が重なった。矢は敵の前方の地面に突き立ち、進む道を塞いだ。敵の指揮官は隊をまとめ直そうとしたが、先頭と後続の動きが食い違い、谷に混乱が広がった。美月は、敵が罠を疑ってなお、その先の道を選ばざるを得ないよう仕向けた正成の判断に息をのんだ。そのとき正成の声が聞こえた。
「深追いするな!道を守れ!」
潜んでいた兵たちは矢を放って敵の進路を阻みながらも、谷底へ追い下ることはしなかった。幕府軍は混乱の中で隊列を立て直そうとしたが、狭い道では大軍の利を生かせず、やがて後方へ退き始めた。正成はその様子を最後まで見届けた。勝ち鬨を上げる兵もいたが、正成自身は声を張り上げることなく、谷の向こうへ視線を向けていた。
「殿、敵は退きました!」
報告に来た武士に、正成は短くうなずいた。
「こちらの傷ついた者を確かめよ。谷へは近づきすぎるな。敵が再び戻るやもしれぬ」
「はっ!」
武士が走り去ると、正成はようやく小さく息を吐いた。美月は、その横顔をしばらく見つめていた。
「正成様」
「何じゃ」
「先ほどの若い武士、腕に傷を負っていました。私にも何かできることはないでしょうか」
正成は美月に向き直った。
「ならば、傷ついた者たちの話を聞いてやってくれ。痛みをこらえておる者ほど、弱音を吐けぬことがある」
美月はうなずいた。戦を見届けるだけでなく、自分にも果たせる役目がある。そう思うと、胸の奥にあった無力感が少しだけ薄れた。正成の背中を見つめながら、美月は三年後の湊川を思った。未来を告げる勇気はまだない。それでも、今できることを見つけたい。そのとき、城の方から慌ただしい足音が近づいてきた。一人の武士が正成の前に膝をついた。
「殿、申し上げます。山麓に新たな軍勢が到着した模様にございます」
正成の表情が変わった。
「どこの兵じゃ」
「旗印までは確かめられておりませぬ。ただ、先ほどまでの敵勢とは異なり、相当な数にございます」
正成はゆっくりと山麓へ目を向けた。朝霧が薄れ始めた谷の向こうに、新たな旗がいくつも立ち上がっていた。美月もその方角を見つめたが、旗印を見分けることはできなかった。正成はしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「幕府も、いよいよ本腰を入れてきたか」
その声には恐れよりも、相手の次の一手を見極めようとする静かな緊張があった。美月は山麓に広がる軍勢を見つめた。この戦いの先に鎌倉幕府の滅亡が待っていることを、この時代で知っているのは自分だけなのかもしれない。彼女は無意識のうちに、胸元へ手を当てた。あの夜、月の光に導かれて時空を超えた理由は、まだ分からない。けれども、ただ歴史を見届けるためだけに、自分がここへ来たとは思えなくなっていた。朝の風が吹き抜け、千早城の旗が大きくはためいた。
その下で、正成は次の戦いに備えるため、再び兵たちへ指示を出し始めていた。




