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第五十八章 死者の名を背負う者

 松明の明かりが山道の向こうへ消えてからも、正季はしばらく動こうとしなかった。夜の観心寺には、木々を渡る風と沢の流れる音だけが残されていた。先ほど男たちが口にした兄の首の話が、耳の奥で繰り返される。湊川の戦いから命からがら逃れ、兄とともに六百年以上先の未来へ渡ったはずなのに、この時代では楠木正成という武将が、すでに死んだ者として語られている。正季はその事実を受け止めようとしていた。

「兄上は、生きておられる」

 自分に言い聞かせるような声だった。美月は隣に立ち、静かにうなずいた。

「はい。正成様は生きています。今も私たちの帰りを待っています」

「分かっております。されど、兄上が死んだと聞かされるのは、やはり妙な心持ちがいたしますな」

 正季は苦く笑ったが、その目に笑みはなかった。美月は何か言葉をかけようとして、やめた。正季が感じているものは、単なる悲しみではない。自分が生きていることを誰にも明かせず、死者の名を背負って生きていかなければならない兄への思いだった。

「正季様。まずは寺の様子を確かめましょう。さっきの人たちの話だけでは、何が起きたのか分かりません」

「そうでございますな。ただし、わしの顔を知る者もおりましょう。美月殿、決して人前でわしの名を呼ばぬように」

「分かりました」

 二人は山道を下り、寺の裏手へ回った。観心寺の建物は、現代で見た姿とは異なっていた。屋根の形も、建物の配置も、長い歳月の中で変わっている。それでも、山の斜面に沿って広がる境内の空気には、どこか変わらぬものがあった。正季は暗がりから建物を見つめ、懐かしそうに目を細めた。

「幼い頃、兄上とここへ参りました。兄上は書を読むのを好まれ、わしはそれを待ちきれず、外で木刀を振り回しておったものです」

「正成様らしいですね」

「兄上は何事にも熱心なお方でした。学問も武芸も、人の話を聞くことも。わしが子供の頃は、いつも兄上の背中を追いかけておりました」

 美月はその話を聞きながら、現代に残してきた正成の姿を思い浮かべた。傷を負った身体で弟を見送り、家族の安否だけを確かめてほしいと願った人。その正成にも、兄として弟を導き、故郷の山を歩いた穏やかな日々があったのだ。やがて、建物の一つから明かりが漏れているのが見えた。中から男たちの声が聞こえる。

「赤坂も千早も、これからどうなることか」

「正成殿が討たれたとあれば、楠木の一族も難しかろう」

「されど、御子らはまだ若い。今すぐ何かが決まるわけではあるまい」

 美月は正季を見た。正季はわずかにうなずき、建物の陰に身を寄せた。男たちの話は続いた。

「河内では、足利方に従うべきだという者も出ておるそうな」

「無理もない。戦に負けた以上、家や田畑を守るためには、そうするほかない者もおろう」

「しかし、正成殿に恩を受けた者まで、たやすく心を変えるとは思えぬが……」

 しばらく沈黙があり、やがて別の男が低い声で言った。

「人は生きねばならぬ。忠義だけでは、幼い子に飯を食わせることもできぬ」

 その言葉を聞いた正季の拳が、静かに握り締められた。美月は彼の袖にそっと触れた。正季は目を閉じ、深く息を吐いた。彼にも分かっていたのだろう。戦に敗れた者の家族が、どれほど厳しい現実にさらされるかを。戦場で命を懸ける武士だけでなく、村で暮らす人々にも、それぞれ守らなければならないものがある。正成が損得で忠義を曲げなかったことと、領民が生きるために苦しい選択を迫られることは、決して同じ問題ではなかった。二人は建物から離れ、人目につかない場所へ移った。

「正季様、今の話では、正成様が亡くなったと信じられていることは間違いなさそうですね」

「うむ。されど、首の話はまだ確かめられておらぬ。兄上の死がどのように伝えられたのか、それを知る必要がある」

「それに、正行様たちのことも」

「……そうですな」

 正季の表情が曇った。兄の子供たちが今、どこで何をしているのか。父の死を知らされたのか。母とともに無事でいるのか。そのどれ一つとして、確かなことは分かっていなかった。正季はしばらく考えたあと、美月に向き直った。

「寺に長居するのは危険です。明るくなる前に、河内の様子をもう少し探りたい」

「でも、正季様。肩の傷もありますし、夜道を歩き続けるのは……」

「承知しております。無理はいたしませぬ。ただ、せめて兄上の御家族が無事かどうか、何か手掛かりを得たいのです」

 美月は迷った。正季の気持ちは痛いほど分かる。しかし、今ここで正季の正体が知られれば、彼だけでなく現代にいる正成まで危険にさらされるかもしれない。

「分かりました。でも、危ないと思ったらすぐに戻ります。それだけは約束してください」

「約束いたします」

 二人は寺を離れ、山裾に続く道を歩き始めた。月明かりは木々の間から差し込み、細い道をところどころ白く照らしていた。正季は足元に注意を払いながら進んでいたが、やがて遠くに人家の灯りが見えると、急に歩みを緩めた。

「あの辺りに、昔からの知り合いがおります」

「会いに行くんですか?」

「いや。今は顔を見せられませぬ。ただ、家が無事かどうかを確かめたい」

 正季は道を外れ、低い木立の陰へ進んだ。そこからは、小さな家の庭先が見えた。戸口の近くには薪が積まれ、家の中から人の話し声が漏れていた。しばらくすると、年老いた男が戸を開け、夜空を見上げながら外へ出てきた。正季は息を止めた。

「……生きておったか」

 その声には、安堵がにじんでいた。美月は何も尋ねず、隣で待った。男は庭先を見回したあと、家の中へ戻ろうとした。そのとき、戸の内側から若い声が聞こえた。

「父上、楠木様のお屋敷の方へは、明日も参るのですか」

 男は足を止めた。

「参るとも。御方様も若君方も、さぞおつらかろう。今こそ、できることをせねばならぬ」

 正季の顔色が変わった。美月も思わず男の方を見た。

「若君方は、お元気なのでしょうか」

 若い声が続いた。

「御長男様は、父君のことをお聞きになってから、ほとんど涙を見せぬそうじゃ」

 老人は重い声で答えた。

「まだ幼いというのに、家を守らねばならぬと、気丈に振る舞っておられるのだろう。されど、子供は子供じゃ。泣きたいときには、泣かせて差し上げたいものよ」

 正季は木の幹に手をついた。美月は、その横顔を見た。月明かりの中で、正季の目には涙が浮かんでいた。兄の長男、正行。まだ父に甘えたい年頃でありながら、すでに楠木の家を背負おうとしている。その姿が、正季にはありありと浮かんだのだろう。

「……正行」

 正季は、誰にも聞こえぬほど小さな声で甥の名を呼んだ。家の中では、老人がなおも話していた。

「御方様も、若君方の前では気丈にしておられると聞く。じゃが、夜になれば、どれほどお心を痛めておられることか」

 美月は胸が締めつけられた。正成は生きている。けれど、そのことを知らない妻と子供たちは、父を失った悲しみの中にいる。美月が救った命の向こうに、別の苦しみが生まれていた。それを思うと、胸の奥が重くなった。やがて家の明かりが消え、辺りは再び静寂に包まれた。正季は長い間、その場を離れようとしなかった。

「正季様……」

 美月が呼びかけると、彼はゆっくりと振り返った。

「美月殿。兄上には、皆が無事であると伝えられますな」

「はい」

「それだけでも、今宵戻った甲斐がございました」

 正季はそう言ったが、声はかすかに震えていた。美月は彼の肩の傷を気遣いながら、静かに尋ねた。

「戻りましょうか」

 正季はうなずきかけた。しかし、そのとき、遠くの道から馬の蹄の音が聞こえてきた。二人は身を固くした。月明かりの下を、数人の騎馬武者が進んでくる。先頭の男は松明を掲げ、周囲の家々を見渡しながら、何かを確かめているようだった。

「何者でしょう」

 美月がささやくと、正季は低い声で答えた。

「分かりませぬ。されど、今の河内で夜更けに武装して動く者たちです。近づかぬ方がよい」

 二人は木立の奥へ身を隠した。騎馬武者たちは先ほどの家の前で馬を止めた。

「この辺りに、楠木の縁者が住んでおると聞いた」

 先頭の男が大声で呼びかけた。家の中で物音がした。

「戸を開けよ。少し尋ねたいことがある」

 美月は正季を見た。正季の表情が一変していた。さきほどまで涙を浮かべていた目には、戦場で見せた鋭い光が戻っている。

「正季様……」

「分かっております」

 正季は短く答えた。しかし、その手は無意識に腰へ伸びていた。今回は偵察だけと決め、刀は現代の家に置いてきた。今の正季には、傷の癒えぬ身体と、長年培った武士としての経験しかなかった。それでも、目の前で知己の家が脅かされようとしているのを、黙って見過ごすことはできないのだろう。美月は正季の腕をつかんだ。

「約束しましたよね。今回は、確かめるだけです」

 正季は唇を引き結んだ。家の戸が、ゆっくりと開かれた。老人が姿を現し、騎馬武者たちに頭を下げる。その背後では、若い男が不安そうに立っていた。先頭の武者は馬上から老人を見下ろし、冷ややかに告げた。

「楠木正成は討ち死にした。もはや、あの者に従う義理はあるまい」

 老人は答えなかった。

「聞けば、そなたは今も楠木の家へ出入りしておるそうだな」

「……長年、お世話になった御家でございます」

「ならば、よく考えることだ。これからの河内で、誰に従うべきかをな」

 男の言葉には、露骨な脅しが込められていた。正季の身体が、わずかに前へ動いた。美月はその腕を、さらに強く握った。ここで正季が姿を現せば、すべてが変わってしまう。兄の生存を隠し、十二年後の悲劇を防ぐために戻ってきたはずなのに、最初の夜から歴史の流れを大きく乱してしまうかもしれない。美月は祈るような思いで、正季を見つめた。正季は歯を食いしばり、じっと騎馬武者たちを見据えていた。その胸の中で、二つの思いが激しくぶつかり合っていた。

 目の前の人を守りたいという武士の心と、未来を変えるために今は耐えなければならないという決意。やがて老人は、静かに口を開いた。

「わしらは、ただ昔からの御恩を忘れずにおるだけでございます。それが罪になるのでございましょうか」

 騎馬武者はしばらく老人を見下ろしていたが、やがて鼻を鳴らした。

「今宵はそれだけにしておく。次は、そうはいかぬぞ」

 男が馬の腹を蹴ると、一行は再び道を進み始めた。蹄の音が遠ざかり、松明の明かりが闇に消える。老人はしばらく立ち尽くしたあと、若い男に支えられながら家の中へ戻っていった。正季はようやく、深く息を吐いた。

「……危ういところでございました」

 美月は腕を離した。

「正季様が出ていったら、どうなっていたか分かりません」

「分かっております。されど、あの者は兄上が苦しい折にも、食糧を届け、兵たちの世話をしてくれた男です。あのような扱いを受けるのを見れば、黙っておるのがつらくてなりませぬ」

 美月は静かにうなずいた。

「だからこそ、正季様には生きていてほしいんです。今ここで命を懸けるより、これから先、正行様たちを守るために」

 正季は美月を見つめた。その言葉は、彼の胸の奥に深く届いたようだった。

「……そうでございましたな」

 正季は夜空を仰いだ。

「わしは、まだ十二年の時を担っておる」

 美月は何も言わなかった。正季が知っている十二年後の未来。それは、正行と正時が四條畷で命を落とすという、歴史に記された悲劇だった。しかし、その結末を変えるためには、今ここで感情に任せて動くわけにはいかない。正季は再び美月に向き直った。

「戻りましょう。兄上に伝えるべきことが確認できました」

「はい」

 二人は山道へ戻り、月明かりを頼りに観心寺の方角へ歩き始めた。その背後には、戦に敗れた河内の人々の暮らしがあった。正成を失ったと信じ、悲しみながらも明日を生きようとする者たち。恩を忘れずにいる者たち。そして、勝った側に従わなければ生きられない者たち。正季は、そのすべてを胸に刻み込んでいた。やがて観心寺の裏山が見えてきた頃、美月はふと足を止めた。

「正季様。岩のこと、どうしましょう」

 正季も立ち止まった。あの岩に刻印を彫れば、昼間でも時を越える道を開けるかもしれない。しかし、今は道具も十分ではなく、夜が明けるまでに正確な刻印を完成させられる保証もなかった。

「今宵は、やめておきましょう」

 正季は静かに答えた。

「兄上をこれ以上待たせるわけにはまいりませぬ。それに、あの印は慎重に刻まねばならぬ。急いで失敗しては、取り返しがつきませぬからな」

 美月はうなずいた。

「そうですね。まず戻って、正成様と相談しましょう」

 二人は沢へ向かった。水面には、変わらず月が映っていた。美月は手鏡を取り出し、月光を水面へ重ねて呪文を唱えた。

「月影、水に宿る時、隔てし世の道ひらかれん」

 静かな沢の奥に淡い光が広がり始めた。正季は最後に一度、故郷の山々を振り返った。

「兄上。必ず、お伝えいたします」

 その声は、夜の風に溶けて消えた。次の瞬間、二人の姿は月の光に包まれ、六百年以上先の未来へと消えていった。あとに残されたのは、静かな沢の流れと、山の奥に眠る大きな岩だけだった。その岩には、まだ何の刻印も刻まれていない。だが、やがてそこに刻まれる一つの印が、楠木一族の運命を大きく変えることになるとは、この時代の誰も知る由もなかった。

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