第五十七章 月影の向こうへ
観心寺の裏山で古い岩を見つけてから三日後、美月は再び正季とともに、河内の山々を訪れていた。その夜は雲が少なく、東の空に昇った月が、山の稜線を淡い銀色に染めていた。昼間の暖かさはすでに失われ、木々の間を抜ける風には、肌を刺すような冷たさが混じっている。正季は、現代の衣服の上から薄い上着を羽織り、静かに山道を見つめていた。湊川で負った肩の傷はまだ完全には癒えていない。それでも、兄の正成を残して再び戦乱の世へ向かおうとする彼の表情に、迷いは見られなかった。
「正季様。本当に大丈夫ですか」
美月が尋ねると、正季は穏やかに笑った。
「肩の傷なら、案ずるには及びませぬ。美月殿のおかげで、ずいぶん楽になりました」
「でも、無理はしないでください。今回は様子を確かめるだけです。戦うために戻るんじゃありませんから」
「心得ております」
正季はそう答えたが、その眼差しは遠い山の向こうを見つめていた。美月には、その先に何があるのか分かっていた。兄の正成が死んだと信じられているはずの世界。そして、正成の妻と子供たちが、父の帰りを待ち続けているかもしれない世界である。何より正季は、現代で読んだ『太平記』によって、十二年後に正行と正時が迎える運命を知っていた。その事実を知りながら、何もせずに現代で暮らすことなど、彼にはできないのだろう。
「正成様は、今頃どうしているでしょうね」
美月がつぶやくと、正季は少しだけ表情を曇らせた。
「兄上は、じっとしておられることが苦手なお方です。まして、妻や子らが向こうに残っているとあれば、心穏やかではありますまい」
出発前、正成は二人を見送るため、家の玄関まで出てきていた。傷の痛みはまだ残っているはずだったが、正成はそれを口にしなかった。ただ、弟の肩に手を置き、長い間、その顔を見つめていた。
「正季。無事に戻ることだけを考えよ」
「兄上も、どうかご養生くだされ」
「わしのことはよい。それより、妻と子らのことを……」
そこまで言いかけて、正成は言葉を止めた。自分が生きていることを家族に伝えてほしい。その願いが喉元まで出かかっていたのだろう。しかし、もし正成の生存が知られれば、ようやく逃れた死の運命が、再び彼らを追いかけてくるかもしれない。正成は唇を引き結び、やがて静かに言い直した。
「皆が無事であるか、それだけ確かめてくれ」
「必ず」
正季は兄に深く頭を下げ、美月とともに家を出たのだった。そのときの正成の表情が、美月の心から離れなかった。山道を進みながら、美月は鞄の中身をもう一度確かめた。祖父の古文書、岩の写真を保存した携帯電話、小さな鏡、懐中電灯、応急手当の道具。それに、正季の傷が悪化した場合に備えた清潔な布も入れてある。正季は、見慣れぬ道具が次々に現れるのを見て、小さく笑った。
「美月殿は、まこと用意がよい」
「前みたいに、何が起こるか分かりませんから」
「そうでございましたな」
二人の間に、わずかな笑みが生まれた。だが、それも長くは続かなかった。山道の先に、三日前に確かめた大きな岩が姿を現したのである。月明かりの下で見る岩は、昼間とはまるで違っていた。苔に覆われた表面は黒く沈み、木々の影が幾重にも重なっている。その姿は、長い年月をじっと見守ってきた山の番人のようにも見えた。美月は岩の前で足を止めた。
「ここですね」
正季は周囲を見渡した。
「確かに、幼い頃に見た岩に似ております。されど、今宵はこの岩から渡るのではないのでございましょう?」
「はい。まだ向こうの時代で刻印を彫っていませんから、この岩を使って昼間に戻れるかどうかは分かりません。まずは月明かりと水で、南北朝の時代へ渡ります」
美月は携帯電話で岩の位置を確認し、写真をもう一枚撮った。
「向こうへ行ったら、まず同じ岩を探しましょう。見つかったとしても、すぐには刻印を彫りません。周りの様子を確かめて、安全に使える場所かどうか調べてからです」
「承知いたしました」
正季はうなずいた。岩のそばを離れ、二人は山の斜面に沿って流れる小さな沢へ向かった。沢の水は澄み、浅い岩のくぼみに静かにたまっていた。水面には月の光が映り込み、風がやむたびに白い円がくっきりと浮かび上がる。美月は祖父の古文書を開いた。そこには、月光と水によって時の境界が開くこと、そして選ばれし者の導きがなければ、その道を越えることはできないと記されていた。正季は水面を見つめながら、低い声で尋ねた。
「美月殿。もし向こうで何かが起こり、月が雲に隠れたならば、戻ることはできぬのでございますな」
「はい。月明かりがなければ、夜の道は開きません。だからこそ、昼間でも戻れる方法を用意したいんです」
「なるほど。あの岩に刻印を彫ることができれば、日差しと鏡を使って戻れるかもしれぬ」
「そうです。でも、刻印を彫っただけで必ず成功するとは限りません。だから無理は禁物です」
正季は静かにうなずいた。
「美月殿。わしは、そなたに大きな役目を背負わせておりますな」
「そんなことありません。私が自分で決めたことです」
「しかし、そなたは本来、わしらの戦に関わる必要などなかった。現代で穏やかに暮らすこともできたはず」
美月はしばらく答えなかった。沢を流れる水の音が、二人の間を満たしていた。
「私も、最初はそう思っていました」
やがて美月は口を開いた。
「でも、正成様、正季様、ご先祖様と出会って、昔の人たちも私たちと同じように、家族を大切にして、明日を信じて生きていたんだって分かったんです」
正季は黙って聞いていた。
「歴史の本には、誰が勝って、誰が負けて、誰が何年に亡くなったかが書かれています。でも、その人が最後に何を思ったのか、残された家族がどれほど悲しんだのかまでは、分からないことも多いですよね」
「……そうでございますな」
「私は、正成様を助けたことを後悔していません。だから、これから先も、できることをしたいんです」
正季は美月を見つめ、深く頭を下げた。
「かたじけない」
その一言には、武将としての礼だけではない、深い感謝が込められていた。美月は古文書を閉じ、沢のそばに膝をついた。
「それじゃあ、行きましょう」
正季が隣に立った。月は高く昇り、水面に映る光が少しずつ強くなっていく。美月は手鏡を取り出し、月光を受ける角度を慎重に合わせ、呪文を唱えた。
「月影、水に宿る時、隔てし世の道ひらかれん」
鏡に映った光が沢の水面へ重なると、そこに浮かぶ月の輪郭がゆっくりと揺らぎ始めた。初めは、ただ水が震えているように見えた。しかし、次第に水面の奥に淡い光が広がり、周囲の景色が薄い霧に包まれたようにぼやけていく。正季は美月の手をしっかりと握った。
「美月殿」
「大丈夫です。離さないでください」
次の瞬間、足元から冷たい風が吹き上がった。沢のせせらぎが遠ざかり、代わりに、どこか遠くで木々が激しく揺れる音が聞こえた。美月は目を閉じ、正季の手を握る力を強めた。身体がふわりと浮き上がるような感覚が訪れたかと思うと、今度は深い水の底へ引き込まれるような重さが全身を包んだ。どれほどの時間が過ぎたのか分からない。やがて足元に固い土の感触が戻り、美月はゆっくりと目を開いた。そこには、先ほどまでとよく似た山の景色が広がっていた。しかし、何かが違っていた。
山道は細く、足元には踏み固められた土が続いている。遠くに見えていた現代の灯りは一つもなく、木々の間には深い闇が広がっていた。そして、風に乗ってかすかに聞こえてきたのは、寺の鐘の音だった。
「……戻った」
正季が低くつぶやいた。美月は辺りを見渡した。
「南北朝の時代……ですね」
「うむ。この山の匂い、この静けさ。間違いあるまい」
正季は大きく息を吸い込んだ。六百年以上の時を隔てた故郷の空気が、胸の奥へ流れ込んでくる。だが、その表情はすぐに引き締まった。
「美月殿。まずは人目を避けましょう。湊川の戦から、まださほど日が過ぎておらぬはずです。寺にも、何らかの知らせが届いておるやもしれませぬ」
「はい」
二人は沢を離れ、木々の間に身を隠しながら、ゆっくりと山道を進んだ。正季は周囲を見渡し、幼い頃の記憶をたどっていた。
「この道を下れば、寺の裏手へ出るはずです。岩も、そう遠くはありますまい」
美月は携帯電話を取り出し、保存していた写真を画面に映した。現代で撮影した岩の姿が、暗闇の中に浮かび上がった。
「これと同じ岩を探しましょう」
正季は画面をのぞき込み、うなずいた。二人は月明かりを頼りに、山の斜面を慎重に進んだ。やがて、正季が突然足を止めた。
「……あれではござらぬか」
その視線の先に、大きな岩があった。斜面から突き出した形も、上部に走る浅い溝も、現代で見た岩によく似ていた。ただし、周囲の木々は若く、岩の表面を覆う苔も少なかった。美月は息をのんだ。
「同じ……」
写真と見比べると、岩の輪郭はほとんど一致していた。正季はゆっくりと近づき、岩の表面に手を当てた。
「間違いあるまい。幼い頃、兄上とこの辺りを歩いたことがございます。あのときも、この岩はここにありました」
美月は胸をなで下ろした。少なくとも、二人が探していた岩は、南北朝の時代にも存在していたのである。
「よかった……」
だが、次の瞬間、美月は岩の右側に目を留めた。現代で三日月のような線が見えた場所だった。美月は懐中電灯を取り出しかけたが、正季がそっと手を添えた。
「光が遠くから見えるやもしれませぬ」
「そうですね」
美月は明かりを使わず、月光の届く角度へ身を移した。岩の表面には、自然の細かな亀裂がいくつも走っていた。しかし、現代で見た三日月のような曲線は、どこにも見当たらなかった。美月の胸が高鳴った。もし、あの線が自分たちの刻む印の一部だとしたら、これから行うことが六百年以上先まで残ることになる。だが、それを確かめるのは、まだ先だった。
「正季様。岩は見つかりました。けれど、刻印を彫る前に、寺の様子を確かめましょう」
「うむ」
正季は岩から手を離した。
そのときだった。
山道の下の方から、かすかな人声が聞こえてきた。二人は同時に身を低くした。木々の向こうに、小さな松明の明かりが揺れている。
「……楠木殿の御首は、すでに京へ運ばれたと聞く」
男の声が、夜の静けさの中を伝わってきた。美月は息を止めた。正季の表情が凍りつく。
「まことか。では、河内へは戻らぬのか」
「いや、いずれ戻されるとの話もある。されど、何が真実か、今は誰にも分からぬ」
二人の男はそう話しながら、山道を下っていった。松明の光が木々の向こうへ消えるまで、美月と正季は身動き一つしなかった。やがて正季が、低くつぶやいた。
「兄上の首が……」
その声には、怒りとも悲しみともつかぬ感情がにじんでいた。正成は生きている。今も現代の世界で、妻や子らの安否を案じながら、二人の帰りを待っている。それなのに、この時代では、すでに首が運ばれたという話が広まっていた。美月は正季を見つめた。
「正季様……」
正季はしばらく黙っていたが、やがて静かに首を振った。
「まだ、何も確かではござらぬ。今は人々の話を集めねばなりませぬな」
美月はうなずいた。そのとき、正季はもう一度、暗い山道の先を見つめた。
「しかし、もし兄上が討ち死にしたと信じられておるならば……」
言葉を切り、深く息をついた。
「兄上が未来にとどまる道は、開けたのかもしれませぬ」
美月はその言葉の意味を理解していた。正成が死んだと信じられている限り、敵が彼を追う理由はなくなる。だが同時に、妻も子供たちも、父が生きていることを知らずに悲しみ続けることになる。命を救うことと、家族の幸せを守ること。その二つが、必ずしも同じ道へつながるとは限らなかった。美月は夜空を見上げた。月は変わらず、山の上に輝いていた。その光の下で、二人はようやく、歴史の向こう側に隠されていた現実へ足を踏み入れたのである。




