第五十六章 時を越えて残る岩
湊川の戦いから戻って数日が過ぎた頃、美月は正成と正季を連れて、河内長野の観心寺を訪れていた。朝の山には薄い霧が残り、木々の葉を渡る風が、静かな境内へ流れ込んでいた。参道を歩く人々の姿はまだ少なく、遠くから聞こえる鳥の声が、かえって山の深い静けさを感じさせた。正成は足を止め、山門の向こうに広がる景色を見つめた。
「観心寺……」
その声には、懐かしさと驚きが入り混じっていた。以前、美月に導かれて訪れたときにも、この寺が残っていることに心を動かされた。だが、湊川から生きて戻り、弟と並んで境内に立つ今は、その景色が違って見えた。六百年以上を越えて残った山門の向こうを、自分はもう一度歩くことができる。幼い頃、学問に励んだ日々。師から教えを受け、山道を駆け回った記憶。そして、戦乱の世に身を置くようになってからも、折に触れて思い起こしていた故郷の山々。
それらが、今もこの場所に息づいているように思えた。
「兄上。変わったところもございますが、この山の姿は、昔とさほど違いませぬな」
正季も感慨深そうに辺りを見渡していた。
「そうだな。人の世は変わっても、山は容易には変わらぬものだ」
正成はそう答え、ゆっくりと歩き始めた。湊川では、あと一歩遅ければ二人を失っていた。あの戦場で血に染まっていた兄弟が、今は穏やかな山の空気を吸いながら、かつて親しんだ寺を歩いている。その光景を見ているだけで、救い出したことの意味をあらためて感じずにはいられなかった。しかし、今日ここを訪れたのは、思い出に浸るためではない。美月は鞄から祖父の古文書を取り出した。
「正成様、正季様。まず、岩を探しましょう」
正季がうなずいた。
「現代と我らの時代、双方に残っている岩でございますな」
「はい。できれば地面と一体になった大きな岩がいいんです。人の手で運ばれた石では、いつ置かれたものなのか分かりませんから」
美月は境内の案内図を確かめたあと、二人を山側へ導いた。目指したのは、寺の奥から山の斜面へ続く古い道だった。正成たちの時代より後に、後村上天皇の陵が営まれた山の一帯。その山道のどこかに、昔から動かされていない岩があるかもしれないと考えたのである。もちろん、現代の道がそのまま南北朝時代にも存在したとは限らない。美月は祖父の残した資料と、正成たちの記憶を照らし合わせながら、慎重に足を進めた。
しばらく歩くと、石段の脇に小さな岩がいくつも現れた。だが、どれも地面から独立していたり、後から積まれたように見えたりして、目的には合わなかった。
「なかなか見つかりませんね」
美月がつぶやくと、正成は足元の土を見つめながら答えた。
「急ぐことはない。山の形を見れば、古くからそこにある岩と、人が運んだ石とは、おおよその見当がつくこともある」
正季も道の斜面を注意深く見渡していた。
そのときだった。
「美月殿。あれをご覧くだされ」
正季が指さした先に、木々の根に半ば覆われた大きな岩があった。山の斜面から突き出すように露出しており、表面には厚い苔が生えている。人が容易に動かせる大きさではなく、下部は土の中へ深く続いているようだった。美月は思わず足を速めた。
「これ……」
岩は人の背丈ほどの高さがあり、横幅も十分だった。上部には雨水が流れたような浅い溝があり、長い年月の間に風雨にさらされてきたことをうかがわせた。正成は岩の前に立ち、しばらく黙っていた。
「この岩……」
美月が振り返る。
「ご存じなんですか?」
正成はすぐには答えず、岩の形と周囲の木々を見比べた。
「断言はできぬ。だが、幼い頃、この辺りの山道を通った覚えがある。大きな岩のそばで、雨宿りをしたこともあった」
正季も岩を見上げた。
「わしにも覚えがございます。ただ、六百年も経てば、木々も道も変わっておりましょう。同じ岩かどうかは、向こうへ戻って確かめねばなりませぬな」
「はい」
美月は慎重にうなずいた。これほど大きな岩であっても、六百年以上前から同じ形で存在していたと、今ここで証明することはできない。だが、正成と正季の記憶に残る岩と一致するなら、手掛かりになる可能性は高かった。美月は携帯電話を取り出し、岩の正面と側面、周囲の地形を何枚も撮影した。正季がその様子を興味深そうに見つめた。
「その小さな道具で、岩の姿を残せるのでございましたな」
「そうです。向こうの時代で同じ岩を探すとき、この写真が役に立つと思います」
正成は岩の上部を見つめた。
「もしこの岩が、わしらの時代にもあるならば、刻印を彫る場所としては申し分あるまい」
美月は古文書を開き、刻印の図と岩の形を見比べた。湊川の谷で見た刻印は、三日月と、その下に重なる波紋の形をしていた。その印を正確に再現するには、ある程度平らな面が必要だった。岩の右側には、苔に覆われた比較的平らな部分があった。
「ここなら……」美月は指を伸ばしかけ、ふと手を止めた。
苔の下に、何か細い溝のようなものが見えたのである。目を近づけると、岩の表面に一本の曲線が走っていた。自然にできた傷とも、人の手で刻まれた線とも取れる。
「どうしたのです?」
正季が尋ねた。
「いえ……何か、線があるように見えて」
正成も身をかがめた。だが、苔と土が重なっており、はっきりした形は分からなかった。美月は無理に苔を剥がすことをためらった。ここは歴史ある寺の山中であり、岩を傷つけたり、勝手に手を加えたりしてよい場所ではない。
「今は、このままにしておきましょう」
美月はそう言って、線の見える部分を写真に収めた。そのとき、正成が静かに口を開いた。
「美月殿。もし、この岩にすでに印が刻まれておるとすれば、それは何を意味するのだろうな」
美月は岩を見つめたまま答えた。
「私たちがこれから過去へ行って、刻むはずの印が、もうここに残っている……ということかもしれません」
正季は目を細めた。
「まだ刻んでもおらぬものが、すでにあると申されるか」
「時間を越えるというのは、そういうことなのかもしれません」
美月自身、その答えに確信があるわけではなかった。過去を変えれば未来が変わるのか。それとも、自分たちが過去へ行って行うことまで、すでに歴史の一部になっているのか。考え始めれば、答えのない問いが次々に浮かんでくる。ただ一つ確かなのは、ここにある岩が、二つの時代を結ぶ手掛かりになるかもしれないということだった。美月は写真を確かめ、古文書を鞄へ戻した。
「まずは、同じ岩が向こうの時代にあるかどうか。それを確かめましょう」
正季がうなずいた。
「承知いたしました」
正成は二人を見つめた。
「正季。そなた、本当に戻るつもりなのだな」
弟は兄の前に立ち、深く頭を下げた。
「はい。兄上。まずは湊川の後を確かめ、楠木の家がどうなっているかを見てまいります」
「わしも行こう」
正成の言葉は、迷いのないものだった。しかし、正季は首を振った。
「兄上には、ここに残っていただきとうございます」
「なぜだ」
「兄上が生きていることを知られれば、何が起こるか分かりませぬ。すでに討ち死にしたことになっておるならば、なおさらです」
正成は弟を見つめた。
「そなた一人を、危険な世へ送り返せというのか」
「一人ではございませぬ。美月殿も同行してくださいます。それに、今度は戦うために戻るのではありません。まずは確かめるだけです」
正成はしばらく黙っていた。自分が生き延びたことで、弟に新たな危険を背負わせようとしている。その思いが胸を締めつけた。だが、正季の目には、かつて戦場で幾度も見た揺るぎない決意が宿っていた。
「……必ず戻れ」
やがて正成は、それだけを告げた。
「はい、兄上」
正季は深く頭を下げた。美月は兄弟のやり取りを見守りながら、胸の奥に重いものを感じていた。今度の旅は、正成を救うための旅とは違う。歴史の行方を確かめ、その先にある悲劇を変えるための旅だった。そして、その始まりが、観心寺の裏山にひっそりと眠る一つの岩なのかもしれなかった。寺を離れる前、美月はもう一度、岩を振り返った。木々の間から差し込んだ午後の光が、苔むした表面を淡く照らしている。
その一角に見えた細い曲線は、光の角度が変わると、まるで三日月の輪郭のようにも見えた。美月は足を止めた。だが、次の瞬間には木の影が重なり、その形は分からなくなった。見間違いかもしれない。それでも、美月の胸には小さな確信に似たものが芽生えていた。この岩には、まだ誰も知らない秘密がある。そして、その秘密を明らかにするには、六百年以上前の観心寺へ行かなければならない。美月は静かに歩き始めた。次の月夜、再び時空の道を開くために。




