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第五十五章 生き残った者の決意

 美月が目を開けたとき、最初に耳へ届いたのは、遠くを走る自動車の音だった。つい先ほどまで響いていた兵たちの叫びも、太刀がぶつかり合う音も、もう聞こえない。谷を包んでいた眩い光は消え、目の前には見慣れた現代の景色が広がっていた。美月はしばらく息を整えることさえできなかった。膝が震え、手にした鏡を落としそうになる。だが、すぐ隣から聞こえた低い声に、我に返った。

「美月殿……」

 正成だった。脇腹を押さえながら立つその姿を見た瞬間、美月の目から再び涙があふれた。正成の傍らには正季もいた。肩に傷を負い、顔には疲労が刻まれていたが、二人とも確かに生きている。

「戻ってこられたんですね……本当に、お二人とも……」

 正成は静かに周囲を見渡した。以前、美月に導かれて訪れた未来の世界。その景色は記憶に残っていたが、今はあのときとはまったく違う意味を持っていた。あのときは、いずれ自分の時代へ帰るつもりだった。しかし今、自分は歴史に記された最期を越え、この場所に立っている。

「また、この世へ来ることになろうとはな」

 正成の言葉に、正季もうなずいた。

「兄上。まずは傷の手当てをいたしましょう。今は生き延びたことを喜ぶべきです」

 美月も急いで二人を促した。脇腹と肩の傷は、見た目以上に深いかもしれない。現代の医療を受けさせる必要がある。二人の身元や服装をどう説明するかという問題もあったが、今は命を守ることが先だった。美月は人目につかない場所へ二人を導き、祖父が残した品々を収めていた荷物から布を取り出した。正成の傷を押さえ、正季の肩にも新しい布を当てる。正季はその間、ほとんど口を開かなかった。美月は、戦いの疲れがそうさせているのだと思った。

 だが、正季の胸には、別の思いが芽生え始めていた。兄は助かった。歴史に記された湊川の最期から、確かに救い出すことができた。それは何より喜ばしいことだった。しかし、自分たちが去ったあとの南北朝の世は、どうなっているのか。足利軍は京へ進むだろう。後醍醐天皇をめぐる争いも、終わるわけではない。そして何より、兄が残してきた息子たちがいる。正行と正時。美月のもとで読んだ『太平記』の記述が、正季の脳裏から離れなかった。十二年後、四條畷。

 そこで二人を待ち受ける運命を、正季はすでに知っていたのである。

 その夜、傷の手当てを終えた正成が休んでいる間に、正季は美月へ静かに声をかけた。

「美月殿。少し、お話ししたいことがございます」

 美月は正季の表情を見て、何か重大な決意を抱いているのだと察した。

「はい。何でしょうか」

「わしを、もう一度あの時代へ連れて行っていただけませぬか」

 美月は思わず息をのんだ。

「南北朝へ……戻るんですか?」

「はい。ただし、今すぐ戦へ戻ろうというのではございませぬ。まずは、湊川の戦の後がどうなったのか、この目で確かめたいのです」

 正季は少し言葉を切り、眠る兄のいる部屋へ目を向けた。

「兄上は、あの戦で討ち死にしたことになっておるやもしれませぬ。もしそうなら、兄上が生きていることを知られるわけにはまいらぬでしょう」

「そうですね……」

「それに、兄上の子らのこともございます」

 美月は黙って正季の言葉を待った。

「正行と正時が、十二年後にどのような最期を迎えるのか。わしはすでに知っております。あの書物を読んだときから、どうにかして救えぬものかと考えておりました」

 正季の声には、戦場で見せた激しさとは異なる、深い苦しみがにじんでいた。

「兄上を救うことができた今、甥たちの命を見捨ててよいものか。わしには、どうしてもそうは思えぬのです」

 美月は正季を見つめた。十二年という歳月。現代にいる自分にとっても、それは決して短い時間ではない。まして、戦乱の続く南北朝の世で十二年間を生き抜くことが、どれほど厳しいことなのか。

「正季様。戻ったら、また戦いの中に身を置くことになるかもしれません」

「承知しております」

「今度は、必ず助けに行けるとは限らないんですよ」

 正季は静かにうなずいた。

「それも覚悟の上です。されど、まずは確かめたい。兄上が討ち死にしたと世に伝わっているのか、楠木の家はどうなっているのか。それを知らずして、これからの道は決められませぬ」

 美月はしばらく考えた。正季の言うことはもっともだった。歴史書に記された事実と、今の世界で実際に起こったことが、すべて同じとは限らない。正成が生き延びた以上、どこかで歴史が変わり始めている可能性もある。

「分かりました。私も一緒に行きます」

 正季が顔を上げた。

「よろしいのですか」

「正季様だけでは時空の道を開けません。それに、私も確かめたいんです。私たちが変えた歴史が、今どうなっているのかを」

 美月は机の上に置かれた古文書を見つめた。選ばれし者。そこに記された言葉の意味が、今は以前よりも重く感じられた。古文書の末尾には、道を開く者と、その血を同じくする者、婚姻によって家を結んだ者についての但し書きがあった。これまで道を開けたのは美月だけであり、正成と正季がともに渡れたことも、その記しに合っていた。楠木の家に連ならない者まで通れるとは書かれていない。正季がどれほど強く願っても、美月がいなければ時を越えることはできない。

 美月はその責任を、今あらためて感じていた。

「ただし、一つ約束してください」

「何でございましょう」

「今回は偵察だけです。無理に戦わないでください。状況を確かめたら、必ず私と一緒に戻ってくる。それが条件です」

 正季はしばらく美月を見つめていたが、やがて深く頭を下げた。

「お約束いたします」

 その言葉を聞いて、美月は小さく息をついた。しかし、もう一つ考えなければならないことがあった。月影の力で南北朝へ向かうことはできても、帰るための条件が整わなければ、二人とも向こうの時代に取り残されてしまう。湊川では古文書に描かれた印と鏡を使い、太陽の光で時空の道を開いたが、別の場所でも同じように道が開くか、まだ確かめてはいなかった。美月は古文書を開き、月影の刻印を指でなぞった。

「正季様。少し、方法を考えましょう」

「方法、でございますか」

「はい。向こうへ行くことだけじゃなくて、安全に戻ってくるための方法です」

 美月はしばらく古文書を見つめていたが、ふと顔を上げた。

「観心寺です」

「観心寺……?」

「そうです。正成様にも正季様にも縁の深い、あのお寺です。南北朝時代にも存在していて、現代にも残っています」

 正季はうなずいた。

「もちろん存じております。兄上が幼い頃より学び、修行を重ねられた寺でもございます」

「もし、南北朝時代の観心寺に月影の刻印を彫ったら、その岩が失われない限り、六百年以上たった今の観心寺にも同じ刻印が残っているはずなんです」

 正季は目を見開いた。

「なるほど。昔に刻んだものが、そのまま未来へ残るということですな」

「そうです。現代で新しく彫る必要はありません。ただし、そのためには、まず今の観心寺に適した岩があるかどうかを確かめなければなりません」

 美月は机の上に紙を広げ、簡単な図を描いた。

「例えば、寺の境内やその近くに、昔から動かされていない大きな岩があったとします。その岩が南北朝時代にも同じ場所にあったと確認できれば、そこを利用できるかもしれません」

「その岩に、わしらの時代で刻印を彫るのですな」

「はい。でも、岩があるだけでは駄目です。刻印を照らす光と、月影の力を受ける水も必要になるかもしれません。そこは古文書と照らし合わせて確かめたいんです」

 正季は感心したように、美月の描いた図を見つめた。

「ならば、まず現代の観心寺を訪ねる必要がございますな」

「そうです。そこで岩の場所を確かめ、古文書に記された条件と合うか調べるんです。それから、月の出ている夜を選んで、これまでと同じように水面に映る月影の力で南北朝へ向かいます」

 美月は図の上に指を置き、続けた。

「向こうへ着いたら、まず湊川の戦いの後がどうなったのかを調べます。そして観心寺へ行き、現代で確認したのと同じ岩を探して、そこに刻印を彫るんです」

「そうすれば、帰るときは観心寺から……」

「ええ。刻印が正しく働けば、鏡に反射させた太陽の光で、昼間でも時空の道を開ける可能性があります。そして、昔の岩に刻んだ印が今も残っていれば、現代の観心寺へつながるはずです」

 正季はしばらく考え込み、やがて静かにうなずいた。

「同じ寺、同じ岩を、六百年の時を隔てて結ぶということですな」

「はい。ただし、まだ仮説です。だからこそ、先に現代の観心寺を調べたいんです」

 美月は古文書を閉じた。祖父が長年追い求めていた月影の謎。その手掛かりが、正成ゆかりの観心寺にあるかもしれないと思うと、不思議な巡り合わせを感じずにはいられなかった。

「正季様。お二人の傷が落ち着いたら、まず観心寺へ行きましょう。岩を確認できたら、次の月夜に南北朝へ向かう準備をします」

「承知いたしました」

 正季の表情に、かすかな希望が浮かんだ。しかし、まだ一つ、大きな問題が残っていた。正成のことだった。兄を現代に残し、自分だけが再び戦乱の世へ戻る。その考えを、正成が簡単に受け入れるとは思えなかった。正季は眠る兄のいる部屋へ目を向けた。

「美月殿。兄上には、わしからお話しいたします」

「はい。でも、私も一緒に説明します。これは正季様だけの問題ではありませんから」

 そのとき、背後から静かな声が聞こえた。

「その話、わしにも聞かせてくれぬか」

 二人が振り返ると、部屋の入口に正成が立っていた。傷を押さえながらも、その眼差しはまっすぐ正季へ向けられていた。

「正季。そなた、再び戦乱の世へ戻るつもりなのか」

 正季は立ち上がり、兄に向かって深く頭を下げた。

「兄上。まずは、湊川の後を確かめてまいりとうございます」

 正成はしばらく何も言わなかった。やがて、ゆっくりと口を開いた。

「わしの子らのためか」

 正季は顔を上げた。

「はい」

 その一言に、正季の決意のすべてが込められていた。正成は目を閉じた。正行と正時。愛する息子たちの名が、胸の奥によみがえる。自分が生き延びたことで、彼らの運命まで変わるのか。それとも、歴史に記された悲劇はなおも待ち受けているのか。正成には、まだ分からなかった。だが、弟が何を守ろうとしているのかは、痛いほど理解できた。

「ならば、わしも……」

 正成がそう言いかけたとき、正季は静かに首を振った。

「兄上。そのことも、まずは確かめてからにいたしましょう」

 兄弟の視線が交わった。湊川で終わるはずだった二人の物語は、まだ終わっていない。そして、十二年後の四條畷へ続く新たな運命が、静かに動き始めようとしていた。

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