第五十四章 生と死の狭間
「兄上は……まだ、敵を食い止めておられます」
正季は荒い息を整えながら、谷の入口を振り返った。肩から流れた血が衣を赤く染め、太刀を握る手にも疲労の色が濃く浮かんでいた。
「わしを先に行かせ、ご自身は残った兵とともに敵を引きつけておられるのです。美月殿がここで待っていると信じて……」
美月は胸を締めつけられた。正成は約束を守ろうとしている。自分だけが生き延びるためではなく、弟や兵たちを一人でも多く逃がすために、再び危険の中へ身を投じたのだ。
「正季様、こちらへ来てください。もう道は開いています」
美月が指し示した淵には、青白い光と金色の輝きが重なり、揺れる水面の奥に現代の街並みが浮かんでいた。正季は目を細めた。かつて美月とともに訪れた未来の風景が、再び水の向こうに広がっている。
「美月殿……再び、未来への道を開かれたのですな」
「はい。月が出るまで待てなかったので、鏡で太陽の光を反射させたんです」
正季は静かにうなずいた。
「ならば、今度こそ兄上をお連れせねばなりませぬ」
「でも、まだ向こうへ行かないでください。正成様が来るまで、ここで待っていてほしいんです」
正季は首を振った。
「兄上を置いて行くわけにはまいりませぬ」
「分かっています。私も同じ気持ちです」
美月は鏡を握り直した。太陽は少しずつ西へ傾き、谷へ差し込む光の角度も変わり始めている。鏡面をわずかに動かすだけで、刻印の輝きは強くなったり弱くなったりした。この光を失えば、二人を救うための道も閉ざされてしまうかもしれない。正季はそんな美月の様子を見つめ、やがて覚悟を決めたように言った。
「美月殿。ここはお任せいたします。わしは兄上を迎えに参る」
「でも、その傷では……」
「この程度の傷で倒れる正季ではございませぬ」
そう言って笑ったものの、肩を動かした瞬間、その顔が苦痛にゆがんだ。美月は思わず立ち上がりかけたが、鏡の角度がずれ、水面の光が大きく揺らいだ。
「あっ……!」
慌てて元の位置へ戻すと、消えかけた景色が再び浮かび上がった。正季はその様子を見て、静かにうなずいた。
「美月殿には、ここでしか果たせぬ役目がある。兄上を連れて戻るのは、わしの役目でございましょう」
美月は唇を噛みしめた。引き止めたい。けれど、正成を救うには、誰かが迎えに行かなければならない。
「必ず……必ず、お二人で戻ってきてください」
「約束いたします」
正季は太刀を握り直し、谷の入口へ向かった。その背中を見送りながら、美月は祈るように鏡を支え続けた。遠ざかる足音が消えると、谷には水の流れる音だけが残った。しかし、その静けさも長くは続かなかった。木々の向こうから、再び激しい戦闘の音が響いてきたのである。正成は、谷へ続く細い道の入口で敵の追撃を防いでいた。馬はすでに傷を負い、これ以上走らせることができなかった。正成は馬を降り、太刀を手にして残った兵たちとともに狭い道を守っていた。
敵の数は増え続けている。それでも、山道の幅が狭いことが幸いし、一度に押し寄せる敵の数は限られていた。正成はその地形を利用し、槍を持つ兵を前に出し、太刀を持つ者を後方に控えさせていた。
「押し返せ!道を渡すな!」
正成の声に応じて、兵たちが一斉に槍を突き出した。先頭の敵兵が倒れ、後続の足が止まる。だが、敵はすぐに陣を立て直した。矢が降り注ぎ、楠木勢の一人が胸を射抜かれて倒れた。
「殿……申し訳、ございませぬ……」
倒れた兵の手を、正成は強く握った。
「よく戦ってくれた。もうよい。何も申すな」
兵はかすかにうなずき、やがて動かなくなった。正成はその手を静かに地面へ下ろした。幾度も戦場を駆け抜けてきた。数えきれぬほどの敵と刃を交え、味方の死を見送ってきた。それでも、人の命が失われる瞬間に慣れることなどなかった。
正成は立ち上がり、迫る敵を見据えた。自分がここで死ねば、歴史は記されたとおりに進むのだろう。しかし、美月はその歴史を変えようとしている。ならば、自分も生きるために戦わなければならない。それは忠義を捨てることではない。これまで命を懸けて守ろうとしてきたものを、別の形で未来へ残すための選択だった。そのとき、敵の一隊が道の側面から回り込んできた。
「殿!右手より敵が!」
正成が振り返った瞬間、敵兵の槍が脇腹を狙って突き出された。身をかわしきれず、槍の穂先が鎧の隙間をかすめた。鋭い痛みが走る。正成は歯を食いしばり、太刀で槍を打ち払った。しかし、足元がふらついた。長い戦いによる疲労と、失われた血が、確実に身体を蝕んでいた。
「楠木正成、もはや逃げ場はないぞ!」
敵将らしき武者が叫んだ。
「潔く首を差し出せ!」
正成は静かに顔を上げた。
「わしの首が欲しくば、己の力で取りに参れ」
その言葉とともに太刀を構える。敵兵たちが一斉に踏み込んだ。正成は最初の一撃を受け流し、次の敵を斬り伏せた。だが、三人目の槍をかわしたとき、足元の石に躓き、膝をついた。敵の太刀が振り上げられる。その刹那だった。
「兄上!」
聞き慣れた声が響いた。正季が木立の間から飛び出し、敵兵の太刀を横から打ち払った。
「正季……!」
「迎えに参りました!」
正季は肩の傷をものともせず、兄の前に立った。
「美月殿が待っておられます。道は開いたとのこと!」
正成の目に、驚きと希望が浮かんだ。
「まことか……」
「はい!今なら、まだ間に合います!」
正成は弟の差し出した手を取り、立ち上がった。その瞬間、敵の矢が再び飛来した。正季は兄を引き寄せ、近くの岩陰へ身を隠した。
「兄上、急ぎましょう。ここで倒れては、美月殿との約束を果たせませぬ」
正成は深くうなずいた。
「そうだな。行こう、正季」
二人は残った兵たちに退却を命じ、谷へ続く道を駆け始めた。背後から敵が追ってくる。正成の脇腹からは血が流れ、正季の肩の傷も再び開いていた。それでも二人は足を止めなかった。やがて、木々の向こうに淡い光が見え始めた。月影の光だった。美月は、その光の前で二人を待っていた。谷の入口から足音が聞こえたとき、美月は思わず振り返った。
「正成様!正季様!」
二人の姿が木立の間に現れた。正成は脇腹を押さえ、正季も肩から血を流していたが、確かに生きていた。美月の目から涙があふれた。
「よかった……本当によかった……!」
しかし、その喜びも束の間だった。正成の背後から、敵兵たちの声が迫ってきた。
「楠木を逃がすな!」
正季が振り返り、太刀を構えた。
「兄上、美月殿を連れて先へ!」
「正季、お前も来るのだ!」
「わしが食い止めます!」
美月は叫んだ。
「駄目です!二人とも来てください!もう誰も置いていかないで!」
その声に、正成と正季が振り返った。水面には、現代へ続く光の道が開いていた。だが、太陽は山の稜線へ近づき、谷に差し込む光が弱まり始めている。古文書の刻印が、かすかに明滅した。美月は鏡を握りしめた。
「時間がありません!光が消えてしまいます!」
正成は一瞬だけ弟を見つめた。正季も兄を見返した。かつて歴史に記された二人の最期は、互いに刺し違えて命を絶つというものだった。しかし今、二人の目の前には、別の道が開かれている。正成は弟の腕をつかんだ。
「正季。ともに行くぞ」
正季は大きくうなずいた。
「はい、兄上!」
二人は美月のもとへ駆け寄った。そのとき、背後から放たれた一本の矢が、谷の岩肌に突き刺さった。続いて、敵兵たちが木立を抜けて姿を現した。美月は鏡を支えながら、必死に叫んだ。
「早く!光の中へ!」
正成が先に水辺へ踏み出し、正季がその後に続いた。しかし、二人が光に触れようとした瞬間、谷を吹き抜けた強い風が鏡の向きを変えた。刻印の輝きが大きく揺らいだ。現代の景色が薄れ、水面が暗く沈み始める。
「そんな……!」
美月は慌てて鏡を戻そうとした。だが、山の稜線に太陽が隠れかけ、反射する光は先ほどよりもはるかに弱くなっていた。正成が美月の肩に手を置いた。
「美月殿、落ち着くのだ」
「でも、このままじゃ……!」
正成は穏やかな目で彼女を見つめた。
「そなたは、ここまでよくやってくれた。最後まで諦めてはならぬ」
その言葉に、美月は涙を拭った。鏡を持つ手を、もう一度ゆっくりと動かす。わずかに残った陽光が鏡面に触れた。細い光が古文書の刻印を照らす。青白い輝きが、再び水面の奥から立ち上った。正成は水辺の岩に置かれた古文書を、美月が鏡を向けたままそっと持ち上げた。印を照らす細い光が途切れぬよう、三人は身を寄せた。
「今です!」
美月が叫んだ。正成と正季は互いの腕をつかみ、光の中へ踏み出した。その背後で、敵兵の一人が弓を引き絞った。矢が放たれる。美月はその音を聞いた。振り返る間もなかった。次の瞬間、眩い光が谷全体を包み込んだ。正成も、正季も、美月も、その光の中へ姿を消した。そして、矢は誰もいなくなった水辺の岩に突き刺さった。谷には再び静寂が戻った。水面を覆っていた光は消え、そこにはただ、夕暮れの空を映す澄んだ淵が残されていた。
敵兵たちは立ち尽くした。目の前で何が起きたのか、誰一人として理解できなかった。やがて一人が、震える声でつぶやいた。
「楠木正成が……消えた……」
その言葉は、誰にも答えられないまま、谷を吹き抜ける風の中へ消えていった。




