第五十三章 湊川、運命の刻
湊川の戦場には、幾重にも重なった鬨の声が響き渡っていた。足利軍の大軍勢が押し寄せるなか、楠木正成は馬上から戦況を見渡していた。正面では味方の兵たちが必死に敵を食い止めていたが、左右から回り込もうとする足利勢の動きは速く、戦場のいたるところで楠木軍の陣形が崩れ始めていた。海から吹きつける風には潮の匂いが混じっていた。その風に乗って、敵味方の叫び声と、刃がぶつかり合う音が絶え間なく聞こえてくる。
「兄上!」
馬を駆って近づいてきたのは、弟の正季だった。兜の下からのぞく顔には汗と土がこびりついていたが、その眼光には少しも衰えがなかった。
「西の陣が破られました。敵はさらに兵を増しております。このままでは背後まで回り込まれましょう」
正成は静かにうなずいた。
「分かっておる。義貞殿の軍も退き始めたようだ」
新田義貞の軍勢は、足利方の水軍が海岸へ兵を上陸させたことで側面を脅かされ、陣を維持することが難しくなっていた。敵の勢いは衰えるどころか、刻一刻と増している。正成は遠くの海を見た。その向こうには、足利尊氏がいる。かつて同じ朝廷のために戦った武将が、今は互いの命を奪い合う敵となっていた。
「兄上、もはや勝敗は見えております」
正季が声を落とした。
「されど、ここで兵を引けば、敵はそのまま京へ向かいましょう」
「そうだな」
正成は短く答えた。この戦に勝つことが難しいのは、出陣を命じられたときから分かっていた。兵力の差も、敵の進軍経路も、そして自分が迎えるはずだった最期さえ、すでに知っていたのである。だが、正成の胸に迷いはなかった。朝廷への忠義を捨てるつもりはない。だからといって、ここで自分に従ってきた兵たちを一人残らず死なせることが忠義だとも思わなかった。
「正季。まだ動ける者をまとめよ。傷を負った者から退かせるのだ」
「兄上は?」
「わしはここに残る。敵を引きつける」
正季は即座に首を振った。
「それはなりませぬ。兄上を一人残して、わしだけ退くことなどできませぬ」
「正季」
「兄上とともに戦うため、わしはここへ参ったのです。今さら別々の道を選ぶつもりはございませぬ」
正成は弟を見つめた。幼い頃から、正季はそういう男だった。兄の後ろに隠れることを嫌い、どれほど厳しい状況でも自分の信じる道を曲げようとはしなかった。正成の脳裏に、美月の顔が浮かんだ。彼女は知っている。この戦いの結末も、自分たち兄弟がどこで命を落とすことになるのかも。そして、その運命を変えるために、今もどこかで必死に道を探しているはずだった。
「正季。美月殿との約束を覚えておるか」
弟の表情がわずかに変わった。
「忘れるはずがございませぬ」
「ならば、まだ死ぬわけにはいかぬな」
正季は兄の言葉に目を見開いた。正成は静かに続けた。
「わしはこの戦から逃げるつもりはない。されど、戦い抜くことと、必ず死ぬことは同じではあるまい」
正季はしばらく黙っていたが、やがて深くうなずいた。
「承知いたしました。兄上とともに、最後まで戦い抜きます」
そのとき、前方から激しい叫び声が上がった。
「敵勢、来襲!」
足利軍の一隊が、崩れかけた陣へ突入してきた。正成は太刀を抜いた。
「皆の者、ここを守れ!退く者たちの道を開くのだ!」
その声に応じて、楠木勢が一斉に槍を構えた。正季も馬を返し、敵の先陣へ向かって駆け出した。兄弟の周囲で、再び激しい戦闘が始まった。正季は迫る敵の槍を払い、馬上から太刀を振るった。正成は味方の動きを見極めながら、少ない兵を巧みに動かして敵の進撃を阻んだ。数では圧倒されていた。それでも楠木軍は、容易には崩れなかった。
正成の指揮に従う兵たちは、退路を確保するために陣を組み直し、敵の突撃を幾度も跳ね返した。しかし、一度退けた敵の後ろからは新たな兵が押し寄せ、槍を失った者は太刀を抜き、太刀が折れれば組みついて戦うしかなかった。戦場に倒れる者が増えていく。正成はその光景を見つめながら、胸の奥に重い痛みを覚えていた。自分の命令によって、どれほど多くの者が命を失っているのか。忠義とは何なのか。その問いは、これまで何度も自分に向けてきたものだった。
だが今、答えを出すために立ち止まることは許されなかった。
「兄上!こちらへ!」
正季が叫んだ。正成の馬の前に敵兵が迫り、槍の穂先が胸元へ突き出された。正成は身をひねってそれをかわし、太刀で槍の柄を打ち払った。直後、正季が横から駆け込み、敵を押し返した。
「危ういところでございました」
「助かった、正季」
兄弟は一瞬だけ顔を見合わせた。その目に、互いの覚悟が映っていた。やがて正成のもとへ、一人の伝令が駆け込んできた。
「申し上げます!新田勢は兵庫の北方へ退却!我らの右翼も、もはや支えきれませぬ!」
正成は周囲を見渡した。戦い始めた頃にはまだ整っていた陣形は、すでにその形を失っていた。残された兵はわずかで、傷を負っていない者の方が少ない。敵は四方から迫っていた。このまま戦い続ければ、やがて全員が討たれる。正成は太刀を握る手に力を込めた。
「正季、兵をまとめよ。北へ退く」
正季は北の山裾へ目を向けた。
「いよいよ退かれるのですな」
「そうだ。敵は我らがここで討ち死にすると考えておろう。その思い込みを利用する」
正成は、かつて美月とともに確かめた地形を思い浮かべた。山裾へ続く道。人目につきにくい谷。そして、美月の祖父の古文書を手掛かりに美月が探し当てた、月影の場所。そこへたどり着ければ、まだ道はあるかもしれない。ただし、敵の包囲を抜けられればの話だった。
「兄上、あの谷へ向かわれるのですな」
正季の問いに、正成はうなずいた。
「美月殿を信じよう」
正季の顔に、かすかな笑みが浮かんだ。
「承知いたしました。ならば、わしが道を開きます」
「無理をするな。二人で生きてたどり着くのだ」
「はい」
正成は残った兵たちを集め、声を張り上げた。
「皆、よく戦ってくれた。ここからは退くぞ。傷を負った者を守りながら、互いに離れず進め!」
兵たちは一瞬戸惑った。この戦いで命を落とす覚悟を決めていた者も少なくなかったからだ。だが、正成は続けた。
「生きて帰れ。そなたたちには、まだ守るべき者がおろう。わしのために命を捨てるな!」
その言葉に、兵たちの表情が変わった。
「楠木様に続け!」
誰かが叫んだ。正季が先頭に立ち、敵の薄い一角へ突入した。正成も残った兵を率いて後に続く。敵はすぐに動きを察した。
「楠木勢が退くぞ!逃がすな!」
背後から追撃の声が上がった。正季は馬を走らせながら、迫る敵を振り返った。
「兄上、急ぎましょう!」
正成はうなずいた。しかし、谷へ向かう道の入口に近づいたとき、前方の木立から新たな敵兵が姿を現した。先回りされていたのである。正季が馬を止めた。
「兄上……!」
前にも敵。後ろにも敵。残された兵たちは疲れ果て、もはや長く戦い続ける力はなかった。正成は周囲を見渡し、静かに息を整えた。史実であれば、この先に待つのは兄弟の最期だった。だが、今は違う。少なくとも、違う未来を選ぼうとしている。
「正季」
「はい」
「ここを抜けるぞ」
正成の声は、驚くほど落ち着いていた。弟は太刀を構え直した。
「どこまでも、お供いたします」
その瞬間、背後から敵の矢が飛来した。正成が振り返るより早く、正季が馬を寄せた。
「兄上、危ない!」
正季の肩を、一本の矢がかすめた。衣が裂け、血がにじむ。
「正季!」
「この程度、何でもございませぬ!」
正季は歯を食いしばり、なおも太刀を構えた。正成は弟の傷を見つめ、胸の奥に冷たいものが走るのを感じた。美月殿。そなたは今、どこにいる。わしらに、まだ時は残されているのか。正成は再び前を向いた。敵の槍が、夕刻へ向かう陽光を受けて鈍く光っていた。その頃、美月は谷の淵で鏡を握りしめていた。水面に浮かぶ青白い光は、先ほどよりも大きくなっていた。鏡が受けた太陽の光が古文書の刻印に重なり、そこから生まれた金色の輝きが、淵の奥へゆっくりと広がっている。美月は息をのんだ。
水面の向こうに、見覚えのある景色が浮かび始めたのである。現代の街並みだった。遠くを走る自動車。見慣れた建物。そして、六百年以上の時を隔てた世界の空。
「つながった……!」
美月の声が震えた。だが、次の瞬間、風が吹き抜け、鏡に当たる光がわずかに揺らいだ。現代の景色が薄れかける。
「駄目……消えないで!」
美月は慌てて鏡の角度を戻した。刻印が再び輝き、水面の向こうの景色が戻ってくる。これなら、正成と正季を救えるかもしれない。けれど、二人はまだ来ない。美月は戦場の方角を振り返った。遠くから、かすかに兵たちの叫びが聞こえた。その声が近づいているようにも思えた。
「正成様……正季様……早く……」
美月は鏡を握る手に力を込めた。今、ここを離れるわけにはいかない。自分が鏡を動かせば、ようやく開いた道が消えてしまうかもしれないのだ。助けに行きたい。けれど、ここで待たなければ二人を救えない。美月は涙をこらえながら、ただひたすら光を保ち続けた。そのとき、谷の入口の方角から馬のいななきが聞こえた。続いて、金属がぶつかり合う激しい音。美月は顔を上げた。
「……正成様?」
返事はなかった。ただ、木々の向こうから幾人もの叫び声が響いてくる。美月は鏡を離すことができず、その場に立ち尽くした。そして、木立の向こうに、一人の武者の影が現れた。血に染まった肩を押さえながら、太刀を握りしめている。美月はその姿を見た瞬間、息をのんだ。
「正季様……!」
正季は美月の声に顔を上げた。その後ろでは、なおも激しい戦いが続いていた。兄の正成は、まだ姿を見せていなかった。美月の胸に、言いようのない不安が広がった。
「正成様は……?」
正季は荒い息を整えながら、美月を見つめた。そして、ようやく口を開いた。
「兄上は……」
その言葉が終わるより早く、谷の入口から新たな鬨の声が響いた。美月は鏡を握りしめたまま、正季の背後を見つめた。
月影の道は、すでに開いている。
しかし、そこへたどり着くべきもう一人の姿は、まだ見えなかった。




