第五十九章 父として、武将として
月の光が静かに消えたとき、美月と正季は再び現代の観心寺の裏山に立っていた。つい先ほどまで、六百年以上前の河内で松明の明かりを見つめ、戦に敗れた人々の声を聞いていたことが、遠い夢のように思えた。だが、正季の険しい表情と、美月の胸に残る重苦しさが、あの夜の出来事が紛れもない現実だったことを物語っていた。
木々の間から見える遠くの街には、無数の灯りが輝いている。正季はその光景をしばらく見つめたあと、静かに息を吐いた。
「こちらの世は、まこと穏やかでございますな」
美月は隣に立ち、山の向こうに広がる街並みを見つめた。
「そうですね。でも、正季様が見てきた世界も、ここにつながっているんです。あの時代を生きた人たちがいたから、今の私たちがいるんですよね」
正季はゆっくりとうなずいた。
「そう思えば、兄上が命を懸けて守ろうとなされたものも、決して無駄ではなかったのでございましょう」
その声には、兄への深い敬意が込められていた。
二人は山道を下り、車を置いていた場所へ向かった。正季は歩きながら何度か肩に手を当てていたが、美月が気遣うと、心配はいらないと笑ってみせた。しかし、その笑顔が無理をしているものであることを、美月は見抜いていた。車に乗り込むと、美月は暖房を入れ、正季に温かい飲み物を渡した。
「正季様、少し休んでください。正成様には、私からもちゃんと説明しますから」
「かたじけない。されど、兄上には、わしの口から伝えねばならぬことがございます」
「分かっています」
美月は車を走らせた。夜の道を進む間、正季はほとんど口を開かなかった。窓の外を流れる街の灯りを見つめながら、何かを考え続けているようだった。
美月にも、その理由は分かっていた。正成の妻と子供たちは生きていた。だが、父の死を信じ、悲しみの中にいる。そして、楠木家と関わりのある人々は、足利方の圧力にさらされ始めていた。正成にその事実を伝えれば、彼がどれほど苦しむことになるか。美月は、ハンドルを握る手に力を込めた。
家に着いたとき、時刻はすでに深夜を回っていた。玄関の明かりがついている。美月が鍵を開けるより早く、内側から扉が開いた。
「美月殿、正季!」
正成が立っていた。その顔には、二人の帰りを待ち続けていた疲れがにじんでいた。湊川で負った脇腹の傷はまだ癒えていないはずだったが、弟の姿を認めると、思わず一歩前へ出た。
「兄上。ただいま戻りました」
正季が頭を下げると、正成は弟の肩に手を置いた。
「無事であったか」
「はい。美月殿のおかげでございます」
正成は深く息を吐いた。
「よかった……」
その一言を聞いて、美月は胸が熱くなった。戦場では幾千もの兵を率い、死を前にしても動じなかった武将が、今はただ、弟が無事に帰ってきたことを喜んでいる。そこにいたのは、歴史に名を残す楠木正成ではなく、一人の兄だった。
三人は居間へ移り、向かい合って座った。正成は二人の顔を見比べたあと、静かに尋ねた。
「それで、向こうの様子はどうであった」
正季はすぐには答えなかった。美月が温かい茶を用意し、三人の前に置いたところで、ようやく口を開いた。
「兄上。まず、お伝えせねばならぬことがございます」
「申してみよ」
「兄上は、向こうの時代では、すでに討ち死にしたものと信じられております」
正成は黙っていた。驚いた様子はなかった。湊川から逃れるとき、いずれそうなる可能性を考えていたのだろう。
「そうか」
短く答えたあと、正成は茶碗に目を落とした。
「では、わしが生きておることを知る者は……」
「少なくとも、わしらが話を聞いた者たちの中にはおりませぬ。兄上の首が京へ運ばれたという噂もございましたが、その真偽までは確かめられませんでした」
正成はゆっくりとうなずいた。
「ならば、今は死んだ者としておく方がよかろう」
正季は兄を見つめた。
「兄上……」
「わしが生きていると知れれば、足利方は再び追ってくるやもしれぬ。そればかりか、わしに関わる者たちまで危険にさらすことになる」
正成はそこで言葉を切り、しばらく沈黙が続いたあと、低い声で尋ねた。
「……妻と子らは、どうしておる」
その声は、先ほどまでとは違っていた。美月は思わず正季を見た。正季は深く息を吸い、兄に向き直った。
「御方様も、若君方も、ご無事とのことでございます」
正成の肩から、わずかに力が抜けた。
「そうか……皆、無事か」
「はい。兄上の御家に仕えてきた者たちも、できる限りのことをしておるようです」
「それは、ありがたいことだ」
正成は目を閉じた。美月には、その胸にどれほどの安堵が広がっているのか、想像することしかできなかった。
だが、正季には、まだ伝えなければならないことがあった。
「兄上。正行は……」
正成が顔を上げた。
「正行が、どうした」
「父上が討ち死にしたと聞いてから、ほとんど涙を見せぬそうでございます。幼い身でありながら、楠木の家を守らねばならぬと、気丈に振る舞っておると聞きました」
正成は何も言わなかった。正季は言葉を続けた。
「御方様も、若君方の前では気丈にしておられるそうです。されど、夜になれば、どれほどお悲しみになっておられることか……」
正成はゆっくりと顔を伏せた。その手が、膝の上で強く握り締められる。
「……正行が、泣かぬと申すか」
「はい」
「まだ、あれほど幼いというのに……」
正成の声が震えた。美月は何も言えなかった。
正成はしばらくうつむいていたが、やがて顔を上げ、窓の外を見つめた。
「わしは、あの子に何を残してやれたのだろうな」
正季は黙って兄の言葉を聞いていた。
「戦の道ばかり歩み、家を空けることも多かった。父として、共に過ごしてやれた時は決して長くない。それなのに、あの子は、わしが死んだと聞いても涙を見せぬという」
正成は苦しげに息を吐いた。
「泣いてよいのだ。父が恋しければ、声を上げて泣けばよい。まだ、家を背負うことなど考えずともよいのに……」
最後の言葉は、かすかに震えていた。正季は兄の前に膝を進めた。
「兄上。正行は、兄上の背を見て育ったのでございます」
「……わしの背を?」
「はい。損得ではなく、己が正しいと信じた道を歩む兄上の姿を、あの子は幼いながらも見ておりました。だからこそ、父上がいなくなった今、自分がしっかりせねばならぬと思っておるのでございましょう」
正成は目を閉じた。その頬を、一筋の涙が伝った。
美月は息をのんだ。湊川の戦場でも、命を失う寸前まで、正成は弱音を吐かなかった。だが今、家族の話を聞きながら、静かに涙を流している。武将としての覚悟が、父としての悲しみを消してくれるわけではないのだ。
「正季……」
正成は涙を拭わず、弟を見つめた。
「わしは、あの子らに会いたい」
正季の表情が曇った。
「兄上……」
「妻にも、正行にも、正時にも……皆に会いたいのだ」
その声には、戦場で幾度も兵を奮い立たせた力強さはなかった。ただ、家族を思う父の切実な願いだけがあった。
美月は胸の奥が締めつけられた。正成を救い出したとき、これほど深い苦しみが待っているとは思わなかった。命を救えば、それで幸せになれる。どこかで、そう考えていたのかもしれない。しかし、正成にとって生きるということは、愛する家族と引き離されたまま、死者として存在し続けることでもあった。
正季は長い沈黙のあと、静かに口を開いた。
「兄上。だからこそ、わしは戻りとうございます」
正成が顔を上げた。
「何?」
「わしは、あの時代へ戻り、正行と正時を守りとうございます」
正成は弟を見つめた。
「そなたは、すでに十分すぎるほど戦った。湊川で命を失いかけたばかりではないか」
「それでも、戻らねばなりませぬ」
「なぜ、そこまで……」
正季はまっすぐに兄を見つめた。
「兄上。わしは、この未来の世で『太平記』を読みました。正行と正時が十二年後、四條畷で命を落とすことも、すでに知っております」
正成は目を伏せた。その運命については、兄も以前、美月から聞かされていた。しかし、弟の口からあらためて語られると、胸に突き刺さるものがあった。
「わしは、あの子らを死なせたくありませぬ」
正季の声が強くなった。
「兄上は、湊川で死ぬはずでございました。されど、美月殿のお力で、こうして生きておられる。ならば、正行と正時の運命も、変えられるやもしれませぬ」
正成は黙っていた。
「十二年ございます。その間、わしがあの子らのそばにおり、武芸を教え、戦の心得を伝え、危険が迫れば守る。そして、四條畷の戦が訪れる前に、必ず助け出す道を見つけたいのでございます」
正成はゆっくりと弟の顔を見た。
「そなたが、わしの代わりに父となると申すのか」
「父の代わりにはなれませぬ」
正季は静かに首を振った。
「兄上は、あの子らにとって、ただ一人の父上でございます。わしは叔父として、できる限りのことをするだけです」
正成は長い間、何も言わなかった。やがて、正季の肩に目を向けた。
「その傷も、まだ癒えておらぬというのに……」
「傷が癒えるまでは、こちらで養生いたします。美月殿にも、無理をせぬと約束しております」
美月はうなずいた。
「正成様。私も正季様と一緒に考えます。時を越える道を開けるのは私だけですから、正季様が一人で戻ることはできません。でも、何度か行き来しながら、少しずつ準備することはできます」
正成は美月を見つめた。
「美月殿。そなたには、何度礼を申しても足りぬ」
「お礼なんて、まだ早いです」
美月は静かに答えた。
「正成様も、正季様も、正行様たちも、みんなが生きられる道を探したいんです」
正成は目を閉じた。その言葉が、どれほど難しい願いであるか、三人とも分かっていた。歴史を変えることが、必ずしも人を幸せにするとは限らない。一人を救えば、別の誰かの運命が変わるかもしれない。正成の生存が知られれば、妻や子供たちだけでなく、楠木家に関わる多くの人々が危険にさらされる可能性もある。それでも、何もしなければ、十二年後に悲劇が訪れる。
正成はしばらく考え込んだあと、正季に向き直った。
「正季。そなたの覚悟は分かった」
「兄上」
「だが、一つだけ約束してくれ」
「何でございましょう」
「わしの子らを守るために、そなた自身の命を粗末にするな」
正季は兄を見つめた。
「兄上……」
「わしは、湊川でそなたを失うところであった。もう二度と、あのような思いはしたくない」
正成の声には、深い痛みがにじんでいた。
「正行も正時も大切だ。されど、そなたもまた、わしにとってかけがえのない弟なのだ」
正季の目が潤んだ。しばらくの沈黙のあと、彼は深く頭を下げた。
「承知いたしました。兄上との約束、決して忘れませぬ」
正成は弟の肩に手を置いた。二人はそのまま、しばらく動かなかった。
美月は静かに席を立ち、窓辺へ歩いた。夜の街には、変わらず穏やかな灯りが広がっていた。六百年以上前の河内では、戦に敗れた人々が明日の暮らしを案じ、父を失ったと信じる子供たちが悲しみに耐えている。その一方で、ここには、歴史の上では死んだはずの二人の兄弟が生きている。美月は、窓ガラスに映る自分の姿を見つめた。
祖父の古文書を見つけたあの日から、自分の人生は大きく変わった。最初は、過去の世界を知りたいという思いだけだった。だが今は違う。目の前にいる人たちの未来を守りたい。その願いが、何よりも強くなっていた。
「そうだ……」
美月はふと、観心寺の岩のことを思い出した。振り返ると、正成と正季がこちらを見た。
「正成様、正季様。もう一つ、お話ししたいことがあります」
「何でございましょう」
正季が尋ねた。
「観心寺の裏山で見つけた岩です。向こうの時代にも、同じ岩がありました」
正成の表情が変わった。
「まことか」
「はい。形も場所も、ほとんど同じでした。正季様も確認してくださいました」
正季がうなずいた。
「間違いございませぬ。幼い頃に見た岩でございました」
「ならば、あの岩に刻印を彫れば……」
正成は言いかけて、美月を見た。
「はい。昼間でも、未来へ戻る道を開けるかもしれません」
美月は鞄から祖父の古文書を取り出し、刻印の図を開いた。
「ただ、まだ確かめなければならないことがあります。刻印の形だけでなく、鏡で反射した光をどこへ当てるのか、水をどう使うのか。その条件がそろわなければ、うまくいかないかもしれません」
正成は古文書を見つめた。
「そなたの祖父君は、まこと不思議なものを遺されたのだな」
「はい。でも、この古文書にも、すべてが書かれているわけではありません」
美月は、現代で撮影した岩の写真を携帯電話に映した。苔に覆われた岩の右側に、かすかな曲線が見える。
「それに、気になることがあるんです」
「何でございましょう」
「この線です。向こうの時代の岩には、見当たりませんでした」
正季は画面をのぞき込んだ。
「確かに、向こうでは見えませなんだな」
「もしこれが、私たちがこれから刻む印の一部だとしたら……」
美月はそこで言葉を止めた。その言葉の意味を察した正成が、静かに口を開いた。
「まだ行っておらぬことが、すでに未来に残っておるということか」
「そうなります」
三人はしばらく、画面に映る岩を見つめていた。
やがて正成が口を開いた。
「ならば、慎重に進めねばなるまい。時を越える力が、どのような理で動いておるのか、我らにはまだ分からぬ」
「はい」
美月はうなずいた。
「次に向こうへ行くまでに、刻印を彫る方法と、戻るための条件をもう一度調べます。正季様の傷が癒えるまで、準備の時間にしましょう」
正季も異存はないと答えた。正成は二人を見つめ、静かに言った。
「美月殿、正季。わしからも頼みがある」
「何でしょう」
「次に向こうへ行くとき、妻と子らのことを、もう少し詳しく確かめてほしい」
その声には、先ほどまでの悲しみとは違う、確かな決意があった。
「わしは、今すぐ会いに行くことはできぬ。だが、父として、夫として、あの者たちを守るために何ができるのか、考えたいのだ」
正季は深くうなずいた。
「必ず、お力になります」
美月も答えた。
「私も一緒に考えます」
正成は二人に頭を下げた。その姿を見た美月は、胸の奥に強い思いが生まれるのを感じた。歴史に名を残す武将であっても、愛する者を思う気持ちは、今を生きる人々と何も変わらない。時代が違っても、命の重さは同じなのだ。
窓の外では、夜明けが近づいていた。東の空がわずかに白み始め、遠くの山並みが薄く浮かび上がっている。正成はその光を見つめながら、静かにつぶやいた。
「わしは、もう死んだ者なのだな」
正季が顔を上げた。
「兄上……」
「いや、嘆いておるのではない」
正成は穏やかに笑った。
「死んだはずの命を、こうして生かしていただいた。ならば、この命を何のために使うべきか、考えねばならぬ」
美月は正成を見つめた。正成は続けた。
「武将として果たせなかったことは、数えきれぬほどある。されど、今のわしには、父として、夫として、まだできることがあるのかもしれぬ」
正季は静かに頭を下げた。
「兄上ならば、必ず見つけられましょう」
正成は弟を見つめ、ゆっくりとうなずいた。そして、昇り始めた朝の光の中で、二人の兄弟は新たな決意を胸に刻んだ。それは、戦に勝つための誓いではなかった。愛する者たちを生かすための、長い戦いの始まりだった。




