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第五十一章 湊川、開戦

 建武三年五月二十五日。夜明け前の湊川には、海から吹き寄せる湿った風が流れていた。東の空がわずかに白み始める頃、楠木正成は陣の前に立ち、遠く海上に浮かぶ足利方の船影を見つめていた。沖には数えきれないほどの船が並び、その向こうには、陸路を進んできた足利軍の大軍が迫っている。

 正成はすでに、この戦いが容易ならぬものになると悟っていた。兵力の差は歴然としており、味方の新田義貞との連携が崩れれば、敵に包囲される危険がある。それでも、後醍醐天皇への忠義を胸に戦場へ赴く決意は変わらなかった。ただ一つ、以前とは違うことがあった。自分の命が失われるはずのこの戦いに、まだ知られていない道が残されていることだった。

 昨夜、正季と美月とともに確かめた山裾の谷。美月の祖父の古文書に記された「月影」の印が示すその場所には、細い水の流れがあり、岩に囲まれた淵が静かに水をたたえていた。月がその水面に映り、古文書の言葉が唱えられたとき、時を越える道が開かれる可能性がある。

 しかし、その道へたどり着くには、敵の包囲を破らなければならない。しかも、これまで確かめた方法では、月の光が届く時刻まで持ちこたえなければならなかった。正成はその困難を承知していた。

「兄上」

 背後から正季が声をかけた。

「美月殿は、すでに山裾へ向かわせました。兵を二人つけております。谷へ続く道も、最後まで確認させました」

 正成は静かにうなずいた。

「そうか。あの娘には、これ以上危険な思いをさせたくない」

「しかし、美月殿は必ず兄上を迎えに行くと申しておりました」

 その言葉を聞いた正成の表情に、かすかな苦笑が浮かんだ。

「まこと、強情な娘よ」

「兄上に似たのでございましょう」

 正季がそう言うと、正成は思わず笑った。しかし、その笑みはすぐに消え、二人は再び海の方へ目を向けた。正季は兄がこれから何を背負って戦うのか、誰よりも理解していた。史書に記された兄弟の最期を、美月からすべて聞いている。そして、その結末を変えるために、自分が果たさなければならない役目も知っていた。

「兄上。戦の趨勢が決したときは、ためらわれませぬよう」

「正季……」

「兵を退かせる道は、すでに用意しております。あとは、その時を見誤らぬことにございます」

 正成は弟の顔を見つめた。

「お前も生きて戻るのだ」

 正季はすぐには答えなかった。兄の願いがどれほど切実なものか、痛いほど分かっていたからである。やがて正季は深く頭を下げた。

「まずは、この戦を戦い抜きましょう」

 そのとき、遠くから法螺貝の音が響いた。夜明けの静寂を引き裂くように、次々と陣触れが伝わっていく。足利軍が動き始めたのである。正成は兜をかぶり、家臣たちに向き直った。

「皆、聞け。敵は大軍なれど、我らはただ数を頼みに戦うのではない。地の利を生かし、互いを信じ、一人でも多く生きて帰るのだ」

 兵たちは一斉に頭を下げた。

「御意!」

 正成は馬にまたがり、湊川の方へ進み始めた。正季もその後に続く。いよいよ、歴史に刻まれた一日が始まろうとしていた。

 同じ頃、美月は山裾の木立に囲まれた場所にいた。そこは昨夜、三人で確認した月影の谷へ続く細道の入口だった。岩陰には小さな平地があり、木々が生い茂っているため、遠くからは人の姿を見つけにくい。正季がつけてくれた二人の兵が周囲を警戒し、美月は祖父の地図を膝の上に広げていた。

 何度見ても、朱色で記された「月影」の二文字が目に留まる。

 その印の先にある淵が、本当に正成たちを救う道になるのだろうか。美月は地図を折りたたみ、胸元に抱いた。

「お願い……。どうか、間に合って」

 遠くから太鼓の音が聞こえた。続いて、地を震わせるような鬨の声が山裾まで届いてきた。美月は思わず立ち上がり、木々の間から湊川の方を見つめた。遠くに土煙が立ち上っている。戦いが始まったのだ。美月は歴史を学ぶ中で、湊川の戦いについて何度も書物を読んできた。足利尊氏の軍勢、新田義貞の後退、楠木正成の奮戦、そして兄弟の最期。その一つ一つを知識として覚えていた。しかし、今は違う。

 あの土煙の向こうに、正成がいる。正季がいる。昨日まで言葉を交わし、ともに笑い、未来について語り合った人々が、命を懸けて戦っている。歴史の一行として読んでいた出来事が、今は胸を締めつけるほどの現実になっていた。

「美月様、どうかこちらへ」

 護衛の兵が声をかけた。

「敵の斥候が山へ入るやもしれませぬ。姿を見られてはなりません」

 美月はうなずき、岩陰へ戻った。そのとき、遠くから馬のいななきと、人々の叫び声が聞こえてきた。戦場は、少しずつこちらへ近づいていた。

 湊川の戦場では、すでに激しい戦闘が始まっていた。正成は限られた兵を巧みに動かし、迫り来る足利方の軍勢を迎え撃っていた。敵が一斉に押し寄せれば兵力の差は埋めようもない。そこで正成は、敵の動きを見極めながら部隊を進退させ、相手の陣形が乱れたところを突いた。

「今だ、押し返せ!」

 正成の号令とともに楠木勢が突撃した。槍と太刀がぶつかり合い、馬が倒れ、兵たちの叫びが戦場に満ちる。土煙の中では敵味方の姿さえ見分けにくくなり、わずかな判断の遅れが命取りになった。正季もまた、兄とは別の一隊を率いて奮戦していた。

「深追いするな!陣を乱すな!」

 正季は兵を励ましながら、常に兄のいる方角を確かめていた。敵を討つことだけが目的ではない。兄を最後まで守り、月影の谷へ導く。そのためには、どれほど戦況が悪化しても、退路を完全に失ってはならなかった。しかし、戦場は人の思いどおりには動かない。海の方角から新たな敵勢が現れたという知らせが届き、続いて新田勢が圧迫されているとの報告が入った。正成は馬上で振り返った。

「義貞殿の陣はどうなっておる」

 伝令の兵は息を切らしながら答えた。

「敵の攻勢激しく、陣形を保つこと難しき様子にございます!」

 正成は歯を食いしばった。恐れていた事態が始まっていた。このまま新田勢が後退すれば、楠木勢は敵中に取り残される。正成はすぐさま使者を走らせ、正季にも陣を縮めるよう命じた。その一方で、負傷した兵を後方へ移すよう指示した。

「歩ける者は互いに肩を貸せ。動けぬ者を見捨てるな。ただし、山へ通じる道を塞いではならぬ」

 正成の命令を受け、兵たちは負傷者を支えながら後方へ移動し始めた。その行く先に、美月が待っていることを、正成は知っていた。

 昼が近づく頃、山裾の道に最初の負傷兵が現れた。二人の兵に肩を支えられた若い武士は、左腕から血を流していた。顔には土と汗がこびりつき、足元もおぼつかない。美月はすぐに駆け寄った。

「こちらへ。座ってください!」

 護衛の兵が周囲を見張る中、美月は持参した布を取り出し、傷口を押さえた。血の量に一瞬息をのんだが、手を止めるわけにはいかなかった。

「少し痛みます。じっとしていてください」

 若い武士は苦しそうに顔を上げた。

「そなたは……」

「今は話さなくていいです。傷を押さえますから」

 美月は布を重ね、しっかりと圧迫した。やがて兵の呼吸が少し落ち着くと、美月は尋ねた。

「楠木正成様は、どうされていますか」

「楠木殿は……なお前線にて戦っておられます。正季様も、ご無事にございます」

 その答えに、美月はわずかに胸をなで下ろした。しかし、続いて運ばれてきた兵は、さらに深い傷を負っていた。美月は護衛の兵にも手を借り、できる限りの手当てを続けた。一人、また一人。負傷者が増えるにつれ、戦況が悪くなっていることは、誰の目にも明らかだった。美月は手についた血を見つめた。これまで祖父から聞いてきた武将たちの逸話も、教科書に記された戦の勝敗も、その裏には、こうして傷つき、家族のもとへ帰ろうとした人々がいたのだ。

「お母さん……」

 手当てを受けていた若い兵が、うわごとのようにつぶやいた。美月はその手を握った。

「大丈夫。今は傷を押さえています。しっかりしてください」

 自分の言葉がどれほどの力になるのかは分からない。それでも、美月はその手を離さなかった。やがて、遠くの山道を駆けてくる一人の伝令が見えた。

「美月殿!」

 馬から飛び降りた兵は、肩で息をしながら告げた。

「正季様よりお伝えするよう命じられました。敵の包囲が狭まりつつあります。決して谷から離れず、お待ちくだされ!」

 美月は立ち上がった。

「正成様は?正季様は無事なのですか?」

「お二方とも、なお戦っておられます。されど、敵勢は増すばかりにございます」

「……分かりました」

 伝令は再び馬に乗り、戦場へ戻っていった。美月はその背中を見送ったあと、谷の奥へ目を向けた。木々の向こうには、あの静かな淵がある。けれど、今はまだ太陽が高い。水面に月影が映るまでには、あまりにも長い時間が残されていた。美月は胸元にしまっていた祖父の古文書を取り出し、何度も読み返した。何か見落としていることはないだろうか。月を待つ以外に、時を越える道を開く方法はないのだろうか。文字を追う指先が、かすかに震えていた。

 そのとき、谷の入口を守っていた兵の一人が、突然声を上げた。

「何者だ!」

 美月が振り向くと、木々の間に数人の武装した男たちの姿が見えた。楠木方の兵ではなかった。先頭の男が、美月たちを見つけて叫んだ。

「ここにも敵兵がおるぞ!」

 護衛の兵が刀を抜いた。

「美月様、奥へ!」

 美月は一瞬、足がすくんだ。戦場から離れたはずの月影の谷にも、ついに敵の手が伸びてきたのだ。兵たちが前へ出る。刀のぶつかる音が木立の中に響き、静かだった山道はたちまち緊迫した空気に包まれた。美月は後ずさりしながら、胸元の古文書を強く握りしめた。ここを失えば、正成たちを救う道がなくなる。その思いが恐怖を押しのけた。

「この場所だけは……絶対に守らなければ」

 美月は谷の奥へ駆け出した。背後では、護衛の兵たちが必死に敵を食い止めていた。遠くの湊川では、なおも激しい鬨の声が響いている。正成と正季が戦う場所と、美月が守ろうとする月影の谷。二つの場所で、歴史に抗う戦いが始まっていた。そして、運命の夕刻は、まだ遠かった。

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