↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
50/59

第五十章 月影の谷

 夜明け前の湊川には、海から吹き込む冷たい風が流れていた。東の空がわずかに白み始めた頃、正季は数人の兵を伴い、陣の北側に広がる山裾へ向かった。美月もその後に続き、祖父が遺した地図を懐に収めていた。前夜からほとんど眠れなかったものの、不思議と疲れは感じなかった。今日こそ、あの朱色の印が示す場所を確かめられるかもしれない。その思いが、足を前へと進ませていた。

 湊川の戦いが迫っていることは、誰の目にも明らかだった。街道には軍勢が行き交い、遠くの海には足利方の船影が増えつつある。正成は新田義貞との連携を確かめながら、兵の配置と退路の準備を進めていたが、美月には、そのすべてが歴史に記された悲劇へ向かっているように思えた。

「美月殿、足元にお気をつけください」

 先を歩く正季が振り返った。山道は昨夜の雨でぬかるみ、ところどころに露出した岩が滑りやすくなっている。美月が頷くと、正季は再び歩き始めた。やがて一行は、木々に覆われた細い谷へ入った。谷の両側には切り立った斜面が迫り、頭上を覆う枝葉の隙間から朝の光が差し込んでいた。足元には小さな沢が流れ、その水は澄みきっている。人の往来がほとんどないのか、道らしい道は途中で途切れ、獣の踏み跡だけが奥へ続いていた。美月は地図を広げ、周囲の地形と見比べた。

「この谷で間違いないと思います。祖父の地図では、沢を上った先に印があるんです」

 正季は周囲を見渡し、兵の一人に声をかけた。

「ここから先は、二人ずつ間を空けて進め。崖の上にも目を配るのじゃ。敵の斥候が潜んでおるやもしれぬ」

 兵たちは頷き、慎重に歩みを進めた。しばらくすると、沢の流れが岩に遮られ、道が二つに分かれていた。一方は急な斜面を登る細道で、もう一方は水の流れに沿って谷の奥へ続いている。美月は地図に目を落とした。

「水のある方です。印は、この先にあるはずです」

 正季は頷いた。

「では、進みましょう」

 谷の奥へ進むにつれ、周囲の音が少しずつ変わっていった。遠くで聞こえていた兵たちの声も、海から届く波の音も、いつしか消えていた。代わりに聞こえるのは、岩の間を流れる水音と、木々を揺らす風の音だけだった。やがて一行の前に、大きな岩壁が現れた。その根元には小さな淵があり、山から流れ落ちる水が静かにたまっていた。淵の周囲には苔むした岩が並び、木々の枝が水面を覆っている。昼間でも薄暗いその場所は、まるで長い年月、人の目から隠されてきたかのようだった。

 美月は足を止めた。

「……ここだ」

 正季が振り返った。

「何か分かりましたか」

 美月は地図を広げ、岩壁の形と淵の位置を確かめた。祖父が描いた地図には、まさにこの場所と思われる岩の形が記され、その傍らに朱色の印が残されていた。

「間違いありません。祖父が『月影』と書き残したのは、この淵です」

 正季は静かな水面を見つめた。

「ここが、時を越える道……」

「まだ分かりません。でも、月が映る場所であることは確かです」

 美月は淵の縁にしゃがみ込み、水面をのぞき込んだ。澄んだ水には岩壁と木々が映り、わずかな風が吹くたびにその姿が揺れていた。祖父は、なぜこの場所を知っていたのだろう。どうして、湊川の戦いに関わる地図に、時空を越える手掛かりを残したのだろう。美月が考え込んでいると、正季が岩壁の一角を指さした。

「美月殿。あれをご覧ください」

 岩の表面に、何かが刻まれていた。苔を払い落とすと、そこには月をかたどったような浅い彫り跡が現れた。その下には、長い年月の風雨で摩耗した文字らしきものも残っている。美月は思わず息をのんだ。

「これ……祖父の古文書に描かれていた印と同じです」

 正季も身をかがめ、岩に刻まれた印を確かめた。

「では、この場所は偶然見つけられたものではないのですな」

「はい。きっと、昔から何かを知っていた人がいたんだと思います」

 美月は指先で刻印の輪郭をたどった。それは単なる道しるべではなく、二つの時代を結ぶ場所を示す証なのかもしれない。しかし、月影の力が本当にこの淵でも働くかどうかは、夜にならなければ確かめられなかった。

 正季は兵たちに周囲を調べさせ、谷の奥へ続く道を確かめた。淵の背後には岩の裂け目があり、その先には人が一人ずつ通れるほどの細い道が続いていた。道は山の斜面を回り込み、やがて別の谷へ抜けられるようになっているらしい。

「これなら、敵に追われたとしても、少人数であれば身を隠して進めましょう」

 正季はそう言いながら、地面の様子を確かめた。

「ただし、馬は通れませぬ。負傷した者を運ぶにも難儀するでしょう」

 美月はその言葉に胸を締めつけられた。正成と正季が無傷でこの場所へ来られるとは限らない。戦の中で負傷し、歩くことさえできなくなる可能性もある。

「もし、けがをした人がいたら……」

 美月がつぶやくと、正季は振り返った。

「担いででも運ぶほかありますまい。ただ、敵に追われておれば、時間との勝負になります」

 正季はしばらく考え、兵の一人に命じた。

「この道をさらに調べ、山の向こうへ抜けられるか確かめよ。敵に見つからぬよう、十分に気をつけるのじゃ」

 兵が出発すると、正季は美月の傍らに戻った。

「美月殿。この淵のことは、兄上にお伝えいたしましょう。ただし、場所を知る者はできるだけ少ない方がよい」

「はい。私もそう思います」

 正季は頷いたが、その表情にはどこか思いつめたものがあった。美月はその変化に気づきながらも、深く尋ねることはできなかった。

 陣へ戻った二人は、正成に谷で見つけたものを報告した。正成は地図を広げ、正季が説明する道筋を一つ一つ確かめていった。

「なるほど。山側へ抜ける細道があり、その途中に淵があるのじゃな」

「はい。祖父の地図に記された印とも一致しています」

 美月が答えると、正成はしばらく考え込んだ。

「時を越える道がそこにあるなら、確かに大きな助けとなろう。されど、月が出ておらねば使えぬ道でもある」

「それでも、今夜なら確かめられると思います」

 美月は手帳を開いた。

「今夜は満月ではありません。でも、水面に月が映れば、古文書の言葉を唱えることで道が開くはずです」

 正成は美月の手帳に目を落とした。

「河内で渡ったときと同じように、ここでも開くかを確かめるのじゃな」

「はい。三人で渡れることは確かめられました。あとは、この淵でも同じように道が開くかどうかです」

 正成はゆっくりと頷いた。

「ならば、確かめる価値はある。ただし、敵の動きも気になる。夜になっても戦の備えを怠ることはできぬ」

「私と正季様で、もう一度行ってきます」

 美月がそう言うと、正成は首を横に振った。

「いや、わしも参ろう。もしその場所が、わしらの命を左右することになるなら、自らの目で確かめておきたい」

 正季は兄を見つめた。

「兄上、陣を離れるのは危険では」

「長くは留まらぬ。それに、そなた一人に任せきりにするわけにもいくまい」

 正季はそれ以上反対せず、静かに頷いた。

 その夜、三人は月の出を待ってから、少数の護衛を伴い、再び谷へ向かった。空には雲が流れ、その切れ間から欠けた月が姿を現していた。昼間とは違い、谷は深い闇に包まれていたが、正季が先頭に立ち、足元を確かめながら進んだ。やがて淵へ着くと、正成は護衛の兵たちを少し離れた場所に待機させた。美月は水辺に立ち、夜空を見上げた。雲が月を覆っていたが、しばらくすると風に流され、淡い光が淵の水面へ落ちた。揺れる水の中に、欠けた月が映った。

「正成様、正季様。お二人とも、こちらへ」

 二人が美月の傍らに立つと、彼女は手帳を取り出し、古文書の一節を静かに唱えた。

「月影、水に宿る時、隔てし世の道ひらかれん。血を継ぐ者、その声を聞くべし」

 その瞬間、水面に映った月の輪郭が、かすかに揺らいだ。風は吹いていない。それなのに、淵の中央から小さな波紋が広がり、淡い銀色の光が水の底から浮かび上がってきた。美月は息をのんだ。

「……やっぱり」

 正成も正季も、言葉を失って水面を見つめていた。やがて光は淵の上に薄い霧のように立ち上り、三人の足元へと静かに広がってきた。それは、これまで美月が時空を越えるときに見てきた光と、確かに同じものだった。

「この場所でも、道が開くのですね」

 正季が低い声で言った。美月は頷いた。

「はい。ここからでも、未来へ行けるはずです」

 正成はしばらく光を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。

「ならば、いざというときの道は見つかった。今は、戻ろう」

 三人は手を離し、光の中へ踏み込むことなく淵から離れた。やがて水面の波紋は静まり、銀色の光も少しずつ薄れていった。美月は最後にもう一度、淵を振り返った。祖父が遺した月影の印。その意味が、ようやく明らかになったのだ。

 しかし、美月はまだ知らなかった。

 この小さな谷が、やがて正成と正季の運命を大きく分ける場所になることを。

 そして、歴史に記された死が、必ずしもすべての真実を語っているわけではないということを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。