第四十九章 湊川への道
京を発つ朝、東の空には淡い光が広がっていた。夜明け前から兵たちは出陣の支度に追われ、馬のいななきや甲冑の触れ合う音が、宿所の静けさを破っていた。庭先では家臣たちが兵糧や武具を確かめ、門の外には河内から従ってきた兵たちが整然と列をつくっている。美月は出立の準備を終えた正成の姿を見つめながら、祖父が遺した地図をもう一度確かめていた。そこには兵庫の海岸線と湊川の流れが細かく描かれ、山側へ続く古い道の先に、小さな朱色の印が残されている。
その印の傍らには、祖父の筆跡で二文字が記されていた。
『月影』
美月はその文字を指先でなぞった。満月であれば、月が水面に映るだけで時空を越えられる。しかし、欠けた月でも古文書の言葉を唱えれば道が開く。その仕組みを知った今、美月には祖父がなぜ湊川の近くに月影の印を残したのか、どうしても確かめなければならない理由があった。
「美月殿、支度は整いましたか」
声をかけたのは正季だった。朝の光を受けた甲冑には細かな傷が残り、腰の太刀も長年使い込まれたものだったが、その姿には歴戦の武将らしい落ち着きがあった。
「はい。ただ、少し気になることがあって……」
美月が地図を広げると、正季はその傍らに膝をついた。
「この印です。祖父は、湊川から山側へ入った場所に『月影』と書き残しています。おそらく、水のある場所だと思うのですが」
正季は地図をしばらく見つめ、指先で山の稜線をたどった。
「このあたりには、谷筋を通る古い道が幾つもございます。土地の者でなければ知らぬ細道もありましょう。ただ、兵を率いて通れる道かどうかは、実際に確かめねば分かりませぬ」
「兵の皆さんが退く道は、別にも確保しなければなりませんね。そのうえで、最後まで残って退路を守る正成様と正季様にも、戻れる道を用意したいんです」
正季は美月の顔を見た。その瞳には強い願いが宿っていたが、同時に、彼女がどれほどの不安を抱えているかも伝わってきた。
「分かりました。兵庫へ着いたなら、まずはわしが地形を調べましょう。美月殿は、決して一人で危険な場所へ入らぬように」
「はい。約束します」
正季は穏やかに頷いたが、美月が地図をたたむのを見届けたあとも、しばらくその場を離れなかった。
「美月殿。一つ、お願いがございます」
「何でしょうか」
「もし戦が始まり、兄上が退くべきときが来たなら、どうか迷わずお連れくだされ」
美月は思わず正季を見つめた。
「正季様も一緒です。お二人とも、必ず」
「無論、そのつもりです」
正季はそう答えたものの、その声にはわずかな間があった。美月は気づかなかったが、彼の胸の内では、兄を守るために自分が何をすべきかという思いが、すでに一つの決意へと変わりつつあった。
兵庫へ向かう道は、思いのほか静かだった。街道沿いの村々では、農民たちが田畑の手入れを続けていたが、軍勢が近づくと仕事の手を止め、不安そうに道の端へ退いた。幼い子を抱いた母親や、杖をついた老人の姿も見えた。戦が近づくたびに、こうした人々の暮らしが脅かされるのだと、美月は改めて感じていた。正成は村を通るたびに兵の列を整え、田畑を踏み荒らさぬよう厳しく命じた。水を求める兵がいれば代価を払わせ、食糧を勝手に持ち去ろうとする者には、その場で注意を与えた。
「戦に勝つためなら何をしてもよいというものではない。わしらが守るべき民を苦しめて、何のための忠義じゃ」
正成の言葉に、兵たちは深く頭を下げた。その様子を見ていた美月は、現代の歴史書に記された楠木正成の人物像が、目の前の姿と重なっていくのを感じていた。戦に強いだけではない。民を思い、兵の命を重んじ、己の損得よりも義を選ぶ。その生き方こそが、六百年以上もの時を越えて語り継がれてきた理由なのだろう。昼過ぎ、一行は街道沿いの小さな寺で休息を取った。境内には古い井戸があり、その周囲には旅人たちが腰を下ろしていた。美月が井戸の水で手を洗っていると、正成が近づいてきた。
「美月殿。疲れてはおらぬか」
「大丈夫です。正成様こそ、少しはお休みになってください」
正成は小さく笑い、井戸の傍らに腰を下ろした。
「わしは戦場を幾度も駆けてきた身じゃ。この程度の道のりで疲れてはおられぬ」
美月も少し離れた石に腰を下ろした。境内を吹き抜ける風には、初夏の草木の匂いが混じっていた。
「正成様。現代へ行かれたとき、ご自分の名前が今も残っていることを知って、どう思われましたか」
正成は意外な問いに少し驚いたようだったが、やがて穏やかに答えた。
「不思議な心持ちであった。わしはただ、その時々に正しいと思う道を選んできただけじゃ。それが後の世にまで語られるとは、考えたこともなかった」
「でも、正成様は今でも多くの人に尊敬されています」
「ありがたいことじゃ。されど、美月殿。わしの名が残ることよりも、わしが守ろうとしたものが残っておることの方が、よほど嬉しい」
「守ろうとしたもの……ですか」
「人が人を思う心じゃ。親が子を慈しみ、子が親を敬い、困っておる者があれば手を差し伸べる。そうした心が失われぬ限り、国は何度でも立ち上がれる」
美月は静かに頷いた。
「現代でも、そういう心は大切にされています。でも、忘れられてしまうこともあります」
「人の世とは、そのようなものかもしれぬ。されど、忘れたなら、また思い出せばよい」
正成は境内で遊んでいる子どもたちに目を向けた。小さな男の子が転ぶと、少し年上の少女が駆け寄り、その手を取って立たせていた。
「ほれ、あの子らを見よ。誰に教えられずとも、困った者に手を差し伸べておる。人の心には、もともとそのような優しさがあるのじゃ」
美月は二人の子どもを見つめ、胸の奥が温かくなるのを感じた。この人を、どうしても生かしたい。その思いは、旅を続けるほど強くなっていった。
数日後、一行は兵庫の地に入った。海から吹きつける風には潮の匂いが混じり、遠くには船の帆が幾つも見えた。街道には朝廷方の兵が行き交い、村々では戦に備えて家財をまとめる人々の姿もあった。新田義貞の軍勢が西から退きながら防備を整えているとの知らせを受け、正成はただちに使者を送り、合流の時機と陣の位置を確かめさせた。
その日の夕刻、正成たちは湊川に近い高台へ登った。眼下には川筋が広がり、その先には海が見えた。河口に近い平地は広く、大軍が押し寄せれば激しい戦場になることが容易に想像できた。一方、山側には幾つもの谷が入り込み、木々に覆われた斜面の奥には、遠くからでは見分けのつかない細道が続いている。正成は地形を見渡しながら、静かに口を開いた。
「ここで戦うなら、敵の数をまともに受け止めてはならぬ。地の利を生かし、兵を動かすほかない」
正季も頷いた。
「山側には退路を確保できそうです。ただ、敵に先回りされぬよう、道を幾つも調べておく必要がございます」
美月は二人の会話を聞きながら、祖父の地図を広げた。現代の地図とは海岸線も川筋も異なっている。それでも、山の形と谷の位置を照らし合わせていくうちに、朱色の印が付けられた場所のおおよその見当がついた。
「正季様。この谷です」
美月が指さすと、正季は身をかがめて地図をのぞき込んだ。
「ここから山へ入るのか」
「はい。祖父の地図では、この奥に月影の印があります。もし水のある場所なら、時空を越える道が開くかもしれません」
正季は谷の奥へ目を向けた。
「明日の朝、わしが数人の者を連れて調べてまいりましょう。美月殿も同行されるなら、戦の備えが整う前に済ませねばなりませぬ」
「お願いします」
正成は二人の話を聞きながら、しばらく考えていた。
「正季。谷を調べるのはよいが、敵の斥候が入り込んでおるやもしれぬ。決して深追いするな」
「承知しております」
「それと、美月殿」
「はい」
「月影の道が見つかったとしても、それだけに頼ってはならぬ。昼の戦から退いたあと、月の出まで身を隠す場所も要る。雲に隠れることも、水辺へ近づけぬこともあろう。兵が山を越えて戻れる道と、負傷した者を運ぶ手立ても、必ず確かめておくのじゃ」
美月は正成の慎重さに改めて感心した。
「はい。私も、そう思います」
正成は頷き、再び海の方へ目を向けた。夕日が水平線に近づき、海面が赤く染まり始めていた。その美しさとは裏腹に、遠くの海上には足利方のものと思われる船影が増えつつあった。
夜になり、陣には緊張が漂い始めた。各地から届く知らせによれば、足利勢の先鋒はすでに兵庫へ迫り、新田義貞の軍勢も戦いに備えて陣を整えているという。正成は家臣たちを集め、夜遅くまで軍議を続けた。その頃、美月は陣屋の片隅で祖父の地図を見つめていた。湊川の戦いは、もう目前に迫っている。歴史書では、楠木正成と正季が奮戦の末に討ち死にしたと記されている。しかし、美月が知るその結末を、二人もすでに知っていた。だからこそ、今度は違う道を選べるはずだった。
美月は地図の月影の印に指を置いた。祖父は、なぜこの場所を知っていたのだろう。そして、なぜ自分にこの地図を残したのだろう。その答えを探していると、陣屋の入口から正季が姿を現した。
「美月殿。まだ起きておられましたか」
「はい。どうしても、この印が気になってしまって」
正季は美月の向かいに腰を下ろし、地図を見つめた。
「明日、必ず確かめましょう。もし道が見つかれば、兄上をお守りする手立てが一つ増えます」
「正季様も、必ず一緒に帰ってくださいね」
美月がそう言うと、正季は少しだけ目を伏せた。
「……無論です」
しかし、その返事をしたあと、正季はしばらく黙っていた。やがて顔を上げ、静かに言った。
「美月殿。兄上は、わしにとって何より大切な方です。幼き頃から、兄上の背を追って生きてまいりました。あの方が正しいと信じる道を歩まれるなら、わしもその道を共に歩みたいと思っております」
「はい」
「されど、今は一つだけ、兄上とは違う願いがあるのです」
美月は正季を見つめた。
「違う願い……ですか」
正季はすぐには答えず、陣屋の外へ目を向けた。夜風が幕を揺らし、遠くで見張りの兵が交代する声が聞こえていた。
「兄上には、生きていただきたい。たとえ、この戦で何が起ころうとも」
「正季様。それは、私も同じです。でも、正成様だけではありません。正季様にも、生きていただかなければ困ります」
正季は美月の真剣な表情を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「ありがたいお言葉です」
「約束してください。お二人とも、必ず生きて帰ると」
正季はしばらく美月を見つめていたが、やがて深く頷いた。
「……できる限りのことをいたしましょう」
美月はその言葉を信じたいと思った。だが、正季が心の奥で何を決意しているのか、まだ知ることはできなかった。陣屋の外では、夜空に欠けた月が浮かんでいた。その光は雲の間から静かに地上を照らし、湊川へ続く道の先にも淡い銀色の光を落としていた。明日、月影の印が示す場所を確かめる。それが、兄弟の運命を変える最初の一歩になるかもしれない。美月は地図を丁寧にたたみ、胸元へしまった。
そして、遠くから聞こえてくる波の音に耳を澄ませながら、二人を必ず救うのだと、もう一度心に誓った。




