第四十八章 帝への進言
京の空には、朝から重苦しい雲が垂れ込めていた。足利尊氏が九州で勢力を立て直し、大軍を率いて東上しているとの報せは、朝廷に大きな動揺をもたらしていた。朝廷方は新田義貞を中心に迎撃の態勢を整えていたが、戦況は決して楽観できるものではなかった。河内から京へ向かう道中、楠木正成は馬上で幾度となく西の空を見つめていた。その傍らには弟の正季が従い、少し離れたところを美月が進んでいる。美月は祖父の遺した地図を懐に収め、これから起こる出来事を思い返していた。
史実では、正成は後醍醐天皇に対し、都を一時離れて比叡山へ移り、足利軍を京へ引き入れたうえで補給路を断つ策を進言したと伝えられている。しかし、その策は受け入れられず、正成は兵庫へ出陣することになった。そして、湊川で命を落とす。美月はその結末を知っていた。それでも、正成が自らの考えを曲げずに帝へ進言しようとしていることを、止めるつもりはなかった。
「正成様」
美月が声をかけると、正成は馬の歩みを緩めた。
「どうした、美月殿」
「もし、帝が正成様の策をお認めにならなかったら……それでも、湊川へ向かわれるのですか」
正成はすぐには答えず、しばらく街道の先を見つめたのち、静かに口を開いた。
「帝にお仕えする身である以上、勅命を軽んじることはできぬ。されど、戦の道理を申し上げることも、臣下の務めじゃ。まずは、わしの考えを余すところなくお伝えする」
「でも、勝ち目のない戦だと分かっていても……」
「美月殿。戦は、勝てるときにのみ戦うものではない。されど、負けるために戦うものでもない」
正成は美月を見つめ、その言葉を確かめるように続けた。
「たとえ帝がわしの策をお認めにならずとも、兵を生きて帰す道は最後まで探す。そなたと交わした約束を、忘れたわけではない」
その言葉に美月は静かに頷いた。正季も兄の横顔を見つめていたが、やがて口を開いた。
「兄上。わしも、いかなるご決断であろうとお支えいたします。ただ一つ、お願いがございます」
「何じゃ」
「ご自身の命を、あまり軽くお考えにならぬことです」
正成は少し驚いたように弟を見た。
「そなたに、そのようなことを言われるとはな」
「兄上がいつも、わしにおっしゃることです」
二人は顔を見合わせ、わずかに笑った。美月はそのやり取りを見つめながら、胸の奥に温かなものを感じていたが、その穏やかな時間の先には、避けて通れない戦いが待っていることも忘れてはいなかった。
京へ入った正成は、ほどなく朝廷への参内を許された。御所には戦況を伝える使者が絶え間なく訪れ、公卿たちの表情にも焦りが色濃く浮かんでいた。足利勢の勢いを前に、京を守るべきか、敵を別の地へ誘い込むべきか、意見は分かれていた。正成は後醍醐天皇の御前に進み、深く頭を下げた。
「恐れながら、申し上げたき儀がございます」
天皇は正成を見つめた。
「申してみよ」
「足利尊氏の軍勢は、西国の諸将を従え、日に日に勢いを増しております。これを兵庫の地にて正面から迎え撃つことは、朝廷方にとって甚だ不利にございます」
御前に控えていた公卿たちの間に小さなどよめきが起こったが、正成は構わず言葉を続けた。
「されば、帝には一時、比叡山へお移りいただきたく存じます。敵が京へ入ったのち、我らはその補給と退路を断ち、山野において戦を重ねますれば、いかに大軍といえども、長く勢いを保つことはかないませぬ」
天皇はしばらく黙って聞いていたが、やがて静かに問いかけた。
「都を捨てよと申すか」
「捨てるのではございませぬ。取り戻すために、一時退くのでございます」
正成の声は静かだったが、その言葉には揺るぎない確信があった。
「都は、建物や土地のみをもって成り立つものではございませぬ。帝がおわし、朝廷を支える者たちが生きておれば、再び取り戻すことができます。されど、ここで兵を失い、諸将を失えば、取り返しのつかぬこととなりましょう」
公卿の一人が進み出て、険しい表情を浮かべた。
「正成。その策では、敵に都を明け渡すことになる。朝廷の威信はいかがする」
正成は深く頭を下げた。
「威信を守るために国を失うことこそ、避けねばなりませぬ」
その言葉に御前の空気が張りつめ、別の公卿が声を強めた。
「そなたは、帝の御威光をもってしても足利勢を退けられぬと申すのか」
「帝の御威光を疑うものではございませぬ。されど、戦場においては兵の数、地の利、糧道、そして将の判断が勝敗を分けます。願いのみで敵の大軍を退けることはできませぬ」
正成は決して声を荒らげず、ただ自らが正しいと信じることを、最後まで言い尽くそうとしていた。やがて天皇が口を開いた。
「正成。そなたの忠義は、朕もよく知っておる」
「ありがたき幸せにございます」
「されど、都を離れることは容易ではない。足利勢を迎え撃ち、これを退けるほかあるまい」
正成はしばらく沈黙したのち、深く頭を下げた。
「……承りました」
その声には悔しさも怒りも表れていなかった。ただ、自らの進言が受け入れられなかったという現実を、静かに受け止めていた。
御所を辞した正成を、正季と美月が待っていた。正成の表情を見た瞬間、美月は結果を悟った。
「正成様……」
「策は、聞き入れられなんだ」
正成がそれだけを告げると、正季は唇を結んだ。
「では、兵庫へ出陣することになるのですな」
「うむ。新田義貞殿と力を合わせ、足利勢を迎え撃つことになろう」
美月は胸の奥が締めつけられるような思いだった。歴史が、また一つ、知っている結末へ近づいた。しかし、正成は二人を見渡すと、静かに言った。
「されど、まだ戦は始まっておらぬ。勝敗が決したわけでもない」
正季が顔を上げると、正成は続けた。
「わしは帝に、最善と考える策を申し上げた。受け入れられなかった以上、今度は与えられた戦場で、できる限りのことをするまでじゃ」
美月は正成の目を見つめた。そこには、かつて歴史書で読んだ、死を覚悟して出陣する忠臣の姿だけがあるのではなかった。未来を知り、それでも生きる道を探そうとする、一人の人間の決意があった。
「正成様。私も、湊川へ参ります」
正季が驚いたように振り返った。
「美月殿、戦場は危険です」
「分かっています。でも、祖父の地図に残された月影の印を確かめなければなりません。あの場所に時空を越える道があるのなら、それが皆さんを救う手掛かりになるかもしれないんです」
正成はしばらく考えていたが、やがて静かに口を開いた。
「そなたの願いは分かる。されど、戦場のただ中へ入ることは許せぬ」
「では、戦場から離れた場所で調べます。正季様に護衛をお願いできれば……」
正季は兄を見た。正成は静かに頷いた。
「よかろう。ただし、危険が迫れば、迷わず退くのじゃ。約束できるか」
「はい。約束します」
美月は深く頭を下げた。
その夜、正成たちは京の宿所で軍議を開いた。兵庫へ向かう道、敵の進軍速度、新田義貞の軍勢との連携、そして退路の確保。正成は地図を広げ、一つ一つを慎重に確かめていった。軍議が終わり、家臣たちが退出したあとも、正季だけは兄の傍らに残っていた。
「兄上。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何じゃ」
「もし、湊川で我らが敗れることになったなら……兄上は、どのようになさいますか」
正成は弟を見つめた。
「兵を退かせる。そのために、今から道を調べておる」
「敵に囲まれ、退くこともかなわぬときは」
正成は答えるまでに少し間を置いた。
「そのときも、最後まで生きる道を探す。そなたにも、そうしてほしい」
正季は静かに頷いた。
「承知しました」
しかし、その胸の内には、兄にも美月にも明かしていない決意があった。兄が退くために誰かが敵を引きつけねばならぬなら、自分がその役を引き受ける。正季はその思いを日に日に強くしていた。幼い頃から、いつも自分の前を歩いていた兄。学問にも武芸にも優れ、民の苦しみに心を寄せ、己の損得よりも義を重んじる人だった。その兄が、未来の世では忠臣として語り継がれていることを、正季は自分の目で確かめた。だが、正季にとって正成は、歴史に名を残す武将である前に、たった一人の兄だった。
「兄上」
「うむ」
「どうか、生きてくだされ」
正成は弟を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「そなたもじゃ、正季」
その言葉に、正季は深く頭を下げた。
翌朝、美月は一人、宿所の庭に立っていた。夜明けの空には薄い月が残り、冷たい風が庭木の枝を揺らしていた。美月は懐から祖父の古文書を書き写した手帳を取り出し、そこに記された一節を改めて読み返した。
『月影、水に宿る時、隔てし世の道ひらかれん。血を継ぐ者、その声を聞くべし。』
満月の夜には、言葉を唱えずとも時空の扉が開く。しかし、欠けた月であっても、水面にその姿が映り、この言葉を唱えれば道が開く。祖父の遺した記録を読み解き、美月はその仕組みを知ったのだった。それでも、まだ分からないことがある。時空を越える道は、どの水面にも開くのだろうか。それとも、特別な場所だけに現れるのだろうか。祖父が湊川の地図に残した月影の印には、何か別の意味があるのではないだろうか。美月は手帳を閉じ、朝の光に照らされた庭を見つめた。
正成と正季を救うためには、その答えを見つけなければならない。歴史に記された悲劇を、ただ繰り返させるわけにはいかないのだ。やがて宿所の門の向こうから馬の足音が聞こえ、兵たちの声が朝の静けさを破った。美月はその声を聞きながら、静かに決意を固めた。正成と正季を生きて帰すために、自分にできることはすべてやろう。たとえ歴史の流れに逆らうことになったとしても、二人が再び家族と笑い合える未来を諦めたくはなかった。
しかし、歴史を変えるということが、どれほど大きな代償を伴うのか。その本当の意味を、美月はまだ知らなかった。




