↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
47/56

第四十七章 戦雲、河内に迫る

 河内の山々に朝霧が立ち込めていた。夜明けとともに目を覚ました美月は、陣屋の外へ出て、東の空を見上げた。昨夜、正成と正季の兄弟とともに現代から戻ってきたことが、まだ夢のように思える。しかし、陣のあちこちから聞こえてくる兵たちの声や、馬のいななき、炊事の煙が運ぶ匂いは、ここが六百年以上も昔の河内であることを確かに伝えていた。

 正成の陣には、早朝から各地の使者が出入りしていた。足利尊氏の軍勢が西国から勢力を盛り返し、京を目指して進軍しているという知らせが、次々に届いていたのである。美月はその動きを見つめながら、祖父が遺した地図を胸元から取り出した。

 湊川。

 その事実が、美月に希望を与える一方で、胸の奥に重い不安を残していた。

「美月殿」

 振り返ると、正季が歩いてきた。すでに甲冑を身につけ、腰には太刀を帯びている。

「兄上が、お呼びです。京より新たな知らせが届きました」

 美月は地図をたたみ、正季の後に続いた。陣屋の中では、正成が数人の家臣と地図を囲んでいた。美月が入ると、正成は静かに顔を上げた。

「美月殿。足利勢が備中を越え、東へ進んでおるとの知らせじゃ。海からも軍勢が迫ってくるという」

 正成は地図の上に指を置いた。

「敵は陸路と海路に分かれ、兵庫の地で合流しようとしておる。これを迎え撃つには、相応の備えが要る」

 美月は地図に描かれた瀬戸内海と山陽道を見つめた。歴史上、尊氏は九州で勢力を立て直したのち、軍勢を率いて東上した。そして新田義貞ら朝廷方の軍勢と戦いながら、兵庫へ迫っていく。その先に待つのが、湊川の戦いだった。

「正成様。京では、どのような方針になっているのですか」

「まだ定まっておらぬ。されど、わしには考えがある」

 正成は家臣たちを見渡した。

「敵の大軍を狭き地で迎え撃つだけでは、勝ち目は薄い。帝には、京を一時離れ、比叡山に拠っていただくのがよい。わしらは敵を京へ引き入れ、その補給と退路を断つ」

 美月は思わず顔を上げた。それは、正成が実際に朝廷へ進言したと伝えられる策だった。

「しかし、帝がその策をお認めになるかどうか……」

 正季が低い声で言った。正成は頷いた。

「難しかろうな。都を捨てることは、朝廷にとって容易に受け入れられるものではない」

「それでも、申し上げるのですね」

 美月が尋ねると、正成は迷うことなく答えた。

「無論じゃ。勝てぬと知りながら兵を死地へ送ることこそ、忠義に背く。帝をお守りするためなら、耳に痛いことも申し上げねばならぬ」

 美月は、その言葉を胸に刻んだ。正成は自分の命を惜しんでいるのではない。帝を守り、国を守り、兵たちを生きて帰すために、最善の道を探しているのだ。だからこそ、この人を死なせてはならない。美月は改めて、そう思った。

 その日の午後、京からさらに詳しい知らせが届いた。北畠親房が朝廷の情勢を案じ、各地の武将たちの動向を探っているという。また、その子である北畠顕家は、奥州において勢力をまとめ、朝廷を支えるために戦っていた。正季は使者の報告を聞き、感心したように頷いた。

「北畠顕家殿か。若くして奥州の軍勢を率い、あれほどの働きをなさるとは、まことに見事な武将ですな」

 正成も深く頷いた。

「うむ。顕家殿は武勇だけの人ではない。兵を率いる才も、戦の流れを読む目も備えておられる。親房卿もまた、朝廷を支える柱の一人じゃ」

 美月は二人の言葉を聞きながら、北畠顕家の生涯を思い出していた。若くして奥州の軍勢を率い、驚くべき速さで各地を転戦した武将。後醍醐天皇への忠義を貫きながら、二十一歳という若さで命を落とした人物である。正成だけではない。この時代には、信じるもののために戦い、若くして命を散らした人々が数え切れないほどいる。そのすべてを救うことなど、できないのかもしれない。それでも、目の前にいる人々の運命を、ただ歴史書に書かれたとおりに終わらせたくはなかった。

「美月殿、何か気になることでもあるのか」

 正成に尋ねられ、美月は少し迷ったあとで答えた。

「北畠顕家様のことを、現代の歴史書で読んだことがあります。とても優れた武将だったと」

「そうであろう」

「はい。だからこそ……できることなら、あの方にも長く生きていただきたいと思ってしまうんです」

 正成は美月を見つめ、静かに口を開いた。

「そなたは、多くの者の行く末を知っておる。ゆえに、わしらには見えぬ悲しみまで背負ってしまうのじゃな」

 美月は答えられなかった。

「されど、美月殿。一人ですべてを背負うことはない。わしらには、わしらの務めがある。そなたが未来を知っておるからといって、すべての命の行方を変えねばならぬわけではないのじゃ」

 その言葉は、美月の心に静かに染み込んだ。正成自身、まもなく死地へ向かうことになる。それでも彼は、他人の命を救えないことを美月の責任にはしなかった。

「ありがとうございます、正成様」

 美月が頭を下げると、正成は穏やかに微笑んだ。

「礼には及ばぬ。そなたがわしらのために尽くしてくれておることは、よく分かっておる」

 夕刻、正成は正季と美月を伴い、陣の外れにある高台へ登った。眼下には河内の田畑が広がり、その向こうには幾重にも山々が連なっている。夕日を受けた雲が赤く染まり、風が草の穂を揺らしていた。正成はしばらく黙って景色を眺めていたが、やがて正季に向き直った。

「正季。もし湊川で戦うことになれば、わしらは厳しい戦を強いられる」

「承知しております」

「そのとき、何より大切なのは兵を生きて帰すことじゃ。勝ち目のない戦に、最後まで付き合わせてはならぬ」

 正季は兄を見つめた。

「兄上は、以前とは少しお考えが変わられましたな」

「そうかもしれぬ」

 正成は遠くの山並みに目を向けた。

「未来の世を見て、思うたのじゃ。わしらが守ろうとしておるものは、帝お一人の御身だけではない。この国で生きる人々の暮らしも、子や孫へ続く命も、同じように大切なのだとな」

 美月は二人の横顔を見つめていた。正季が静かに口を開いた。

「兄上。わしは、どのような戦になろうとも、お側を離れませぬ」

「正季」

「幼き頃から、兄上と共に歩んでまいりました。これからも、その思いは変わりませぬ」

 正成は弟の肩に手を置いた。

「わしも同じじゃ。されど、もしわしとそなたのどちらかが生き残れる道があるなら、迷わず生きよ」

 正季はすぐには答えなかった。夕日が二人の甲冑を赤く照らしていた。

「……そのお言葉、兄上にもお返しいたします」

 やがて正季がそう言うと、正成は小さく笑った。

「相変わらず、頑固な弟じゃ」

「兄上ほどではございませぬ」

 二人は顔を見合わせ、静かに笑った。その光景を見つめながら、美月は胸の奥にかすかな痛みを覚えた。歴史書に記された湊川の最期。兄弟が互いに刺し違え、命を絶ったと伝えられる悲劇。しかし、今、目の前にいる二人は、生きることを選ぼうとしている。美月はその決意を、必ず守りたいと思った。

 夜になり、正季は一人、陣の外れに立っていた。遠くの篝火を見つめるその背中には、昼間の穏やかな表情とは異なる緊張が漂っていた。正季は兄の言葉を何度も思い返していた。もし、どちらかが生き残れる道があるなら、迷わず生きよ。正成はそう言った。だが、正季には一つだけ、どうしても譲れない思いがあった。兄は、この国に必要な人だ。帝への忠義を貫き、兵を慈しみ、民の暮らしを守ろうとする人。その命を、歴史に記されたとおりに失わせてはならない。正季は腰の太刀にそっと手を添えた。

 もし、兄を生かすために自分が残らねばならぬときが来たなら――。そこまで考え、正季は静かに目を閉じた。そのとき、背後から声がした。

「正季様」

 振り返ると、美月が立っていた。

「まだお休みにならないのですか」

「少し、風に当たっておりました」

 美月は正季の隣に立ち、夜空を見上げた。雲の切れ間に、欠けた月が浮かんでいる。

「正季様。私、お二人には必ず生きていただきたいんです」

 正季は美月の横顔を見つめた。

「そのお気持ちは、よく分かっております」

「だから、どんなことがあっても、諦めないでください」

 正季はすぐには答えなかった。やがて、静かに頷いた。

「美月殿。わしも、できることなら兄上と共に生きて帰りたい。それが、偽らざる願いです」

 その言葉に、美月は少しだけ安堵した。しかし、正季の胸の内にあるもう一つの決意までは、知ることができなかった。正季は再び夜空を見上げた。月は雲に隠れ、あたりには深い闇が広がっていった。やがて来る戦いが、兄弟の運命をどのように変えるのか。その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。