第四十六章 兄弟、未来へ
夜明け前の河内は、まだ深い静寂に包まれていた。山々の稜線が薄紫色に浮かび上がり、遠くの村から鶏の声が聞こえてくる。足利尊氏の軍勢が東上しているとの報せが届いて以来、楠木正成の陣では夜を徹して軍議が続き、兵たちも出陣に備えていた。
その朝、正季が兄の部屋を訪ねると、正成はすでに摂津の地図を広げていた。昨夜、三人で話した未来への旅を実行するため、留守の間に済ませておくことを書き出している。正季も傍らに座り、斥候から戻る知らせを誰が受け取るか、急報があったときにどう動くかを確かめた。
「長くは離れられぬ。今夜渡り、明日の夜には戻るつもりで支度をしよう」
「承知しました。わしの持ち場も、引き継いでおきます」
正季は地図の端を押さえながら、まだ見ぬ町のことを思った。兄はすでにそこを歩き、自分たちの名が記された書物を読んでいる。美月の話を疑う気持ちはなかったが、聞いただけの未来と、自分の目で見る未来が同じものになるのか、分からなかった。
「兄上がご覧になったものを、わしも確かめてまいります」
正成は弟の顔を見て、静かにうなずいた。
「幼子が、親に手を引かれて道を歩いておった。兵の来る気配をうかがうこともなくな。わしは、あの姿が忘れられぬ」
そこへ美月が呼ばれてきた。二人の間に広げられた地図を見て、彼女も向かいへ座った。正成が留守の手配を説明すると、美月は手帳を開き、今夜、水面に月が映る頃に試したいと伝えた。ただし、三人で渡ったことはなく、二つの時代で同じだけ時間が進むとも限らない。前の旅では二日ずつだったが、今回もそうなると約束はできなかった。
「道が開いても、何か違うと感じたら、その場で止めます。渡ったあとは調べることを絞って、次に月が映る夜には戻りましょう」
正成はうなずき、机の紙へ指を置いた。
「こちらには、戻るのが遅れた場合の指図も残しておく。急報があれば、わしらを待つばかりであっては困るからのう」
留守を預かる兼重には、以前、水辺で見た光が遠い世へ通じていることを、正成からすでに打ち明けていた。兼重は理解し尽くせたわけではなかったが、今回は淵の場所も、戻らない場合の動きも知らされている。正成は彼を呼び、書き留めた指図を一つずつ確かめた。正季も自分の持ち場へ戻り、美月は三人分の支度を整えるため席を立った。
その夜、三人は人目を避け、山の中腹にある小さな淵へ向かった。木々に囲まれた水面は静かで、雲の切れ間から現れた欠けた月を、銀色の輪郭までくっきりと映していた。美月は水際に膝をつき、二人にもそばへ来るよう促した。
「正季様。あの水面をご覧ください。月影とは、空から差す光だけではなく、水に映る月の姿のことなんです」
正季は淵をのぞき込んだ。
「満月ではないようじゃが、これでも道が開くのか」
「祖父の古文書を調べて、ようやく分かったことがあります。満月なら言葉を唱えずとも道は開く。でも、月が欠けている夜は、月影が水に宿るところで古文書の一節を唱えなければならないんです。ただ、三人一緒に渡れるかどうかは、まだ分かりません」
正成は静かに水面を見つめた。
「以前、そなたと時を越えたときも、月は水に宿っておったな」
美月はうなずき、二人に手を差し出した。正成が右手を、正季が左手を取る。三人が淵に映った月を見つめる中、美月は祖父の古文書の一節を、はっきりと声に出した。
「月影、水に宿る時、隔てし世の道ひらかれん。血を継ぐ者、その声を聞くべし」
美月が未来の祖父の家を思い描くと、水面の銀色が風もないのに揺れ始めた。
「兄上、月が……」
正季の声に、正成は美月の手を握り直し、彼女を挟んで立つ弟へ声をかけた。
「案ずるな。手を離すでないぞ」
水の奥に、見覚えのある書斎の窓と、現代の町の灯りが浮かんだ。水面の月の輪郭がゆっくりと広がり、やがて三人の足元から淡い光が立ち上った。美月は二人の手を離さず、その光に身を委ねた。淵の水音が遠ざかり、山の闇が白くほどけていった。
現代の淵に着いた三人は、夜道を通って祖父の家へ向かった。美月が玄関の鍵を開け、二人を書斎へ案内した。正季の目の前には、見たこともない部屋が広がっていた。
壁には絵が掛けられ、天井には小さな灯りがともっている。障子も行灯もないのに、室内は昼間のように明るかった。
「ここは……」
正季が周囲を見回すと、美月が微笑んだ。
「私の祖父の家です。ここが、私の生きている時代です」
正成は懐かしそうに室内を眺めた。
「変わらぬのう。あのとき、わしが初めて未来の書物を読んだ場所じゃ」
正季は兄の言葉を聞きながら、恐る恐る窓へ近づいた。そして、外の景色を見た瞬間、声を失った。道には見知らぬ形の乗り物が走り、遠くには高い建物が並んでいる。夜だというのに、街には数え切れないほどの灯りがともっていた。
「兄上……あれは、何ですか」
「自動車というものじゃ。馬も牛も使わずに走る」
「馬も使わずに……」
一台の自動車が窓の向こうを通り過ぎた。正季は思わず身を引いたが、正成は笑った。
「わしも最初は、同じように驚いた」
「まことに、兄上が見てこられた世なのですな」
正季はもう一度窓の外を見た。
「これほどの灯りがありながら、町に兵の姿が見えませぬ」
その言葉に、美月は胸を突かれた。現代の日本では、夜の街に武装した兵が立っていないことなど、当たり前の光景だった。しかし、戦乱の世を生きる正季にとっては、それこそが何より不思議なことなのだ。
「はい。この時代の日本では、戦場になることを恐れずに暮らしている人が大勢います」
正季は長い間、窓の外を見つめていた。
「そうか……」
その声は、かすかに震えていた。
「このような世が、本当に来るのか」
正成は弟の隣に立った。
「来たのじゃ、正季」
二人はしばらく言葉を交わさなかった。やがて正季が、ぽつりとつぶやいた。
「兄上。わしらが守りたいと願うてきたものは、間違っておりませなんだな」
正成は静かに頷いた。
「うむ。されど、この世がわしらの戦だけで築かれたわけではない。幾百年もの間、多くの者が苦しみ、命を懸け、少しずつ守り継いできたものじゃろう」
正季はその言葉を胸に刻むように、深く頷いた。
翌朝、美月は二人を図書館へ案内した。出かける前に、美月が用意した現代の衣服に着替えてもらった。正季は初めて袖を通す洋服を不思議そうに眺め、正成は以前の経験を思い出して、その様子を楽しそうに見守っていた。道を歩きながら、正季は何度も立ち止まった。学校へ向かう子どもたち、買い物袋を手にした人々、道端で笑い合う若者たち。誰もが自分の暮らしを営み、目の前を通る二人が六百年以上前の武将だとは夢にも思っていない。
正季は、横断歩道で母親に手を引かれた幼い子どもを見つめていた。
「兄上。あの子らは、城が攻められることも、父が戦へ出て帰らぬことも、恐れずに育つのでしょうな」
「少なくとも、わしらの時代よりは、そのような世に近づいておるのじゃろう」
正成の答えを聞き、正季はゆっくりと息を吐いた。図書館に入ると、正季は再び驚いた。広い室内には幾千もの書物が整然と並び、誰もが自由に本を手に取っている。子どもから年配の者まで、思い思いの場所で静かに文字を追っていた。
「これほどの書が……」
正季は棚を見上げた。
「これを、誰でも読むことができるのですか」
「はい。ここにある本は、決まりを守れば誰でも利用できます」
「なんと……」
美月は郷土史や南北朝時代の史料を扱う棚へ二人を案内した。まず取り出したのは、『太平記』だった。正成はその本を見て、静かに頷いた。
「正季。これが、わしが以前読んだ書じゃ」
正季は両手で本を受け取り、表紙に記された文字を見つめた。
「太平記……」
頁をめくると、そこには後醍醐天皇、足利尊氏、そして楠木正成の名があった。美月は正季が読み進めるのを助けながら、軍記物語としての『太平記』と、史料によって確かめられる歴史には違いがあることも説明した。やがて、正季の指が一つの箇所で止まった。湊川の戦い。そこには、兄弟が最期まで戦い、共に命を絶ったという物語が記されていた。正季は黙って文字を追っていた。兄の名があり、自分の名がある。まだ起きていない戦が、すでに終わった出来事として書き残されている。
「兄上……」
正季は顔を上げた。
「わしらは、本当にここで死んだことになっております」
正成は静かに頷いた。
「わしも、初めて読んだときには言葉を失った」
正季は再び頁を見つめた。
「これほど後の世まで、わしらの最期が語り継がれるとは……」
美月は二人の表情を見守りながら、別の歴史書を取り出した。
「こちらには、当時の戦の経過や、その後の歴史について書かれています」
正季は、兄と並んで書物を読み進めた。湊川での敗北。正成の死後も続く戦乱。そして十二年後、四條畷で正行と正時が命を落としたこと。その記述に至ったとき、正季の手が止まった。




