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第四十五章 月影の道

 河内の山々に初夏の風が渡っていた。青葉の間から差し込む光は明るかったが、正成の陣には、日を追うごとに重い緊張が満ちていた。九州で勢力を立て直した足利尊氏が、西国の武士を従えて東上している。街道を行き交う使者の数も増え、戦が近いことを誰もが感じていた。美月は陣屋の一隅で祖父の地図を広げた。湊川の北側から山裾へ延びる道の先に、赤い丸印がある。そして今、正季もまた、美月から歴史の結末を聞いている。

 未来を知らない者に真実を告げる段階は、もう過ぎていた。三人が考えなければならないのは、知っている結末をどう変えるかということだった。

「美月殿」

 顔を上げると、正季が戸口に立っていた。配下の者に道を調べさせていたはずだったが、その表情は険しい。

「例の道について、報せが届いた」

 正季は美月の向かいに座り、別の地図を広げた。祖父の地図とは描き方が異なるものの、湊川から山裾へ続く道筋には重なる部分があった。

「地元の者に確かめさせたところ、この辺りには細い山道があるという。ただし、馬を連れて進めるとは限らぬ。敵に追われてから探しても間に合わぬであろう」

「それでも、道はあるんですね」

「ある。されど、兄上だけがそこへ逃れればよいという話ではない」

 正季は指先を地図から離した。

「兄上は、兵を見捨てて生き延びることを望まれぬ。わしも同じじゃ。戦に敗れたとき、少しでも多くの者を退かせる道として使えねば意味がない」

 美月は頷いた。正成の心を変えるのではなく、その志を守ったまま生きる道をつくる。それは簡単なことではなかったが、正季が味方でいてくれることが何より心強かった。

「正季様。もう一つ、気になっているものがあります」

 美月は祖父の地図にある赤い印を示した。

「ここに『月影』と読める文字があるんです。道の終わりとも、途中とも取れる場所で……」

 正季は身を寄せた。

「月影か。そなたが時を越えるときにも、その名を口にしておったな」

「はい。水面に映る月が、私をこの時代へ導いてくれました。祖父の古文書を読み直して、満月なら言葉を唱えなくても、欠けた月なら一節を唱えれば道が開くと気づいたんです。でも、祖父がなぜこの場所に同じ言葉を記したのかは分かりません」

 正季はしばらく考え、静かに言った。

「兄上にも見ていただこう。観心寺で学ばれた頃の話と、何かつながるやもしれぬ」

 その日のうちに、館の古い箱を調べていた家臣が、小さな木片を届けてきた。正成は磨り減った縁を指でなぞり、幼い頃に老僧から受け取ったものだと確かめた。美月が古文書の図と並べると、三日月の下に刻まれた細い線の向きまで一致していた。

 裏には、光を水へ導くための浅い溝が描かれていた。意味までは読み取れなかったが、美月は表裏を写し、祖父の資料にある図と照らし合わせるために手帳へ挟んだ。老僧がどこでこれを得たのかは分からない。それでも、ただ不思議な言葉だったものが、今は調べられる手掛かりになっていた。

 夕刻、京から使者が到着した。尊氏の軍勢が東へ進み、朝廷方も迎撃の備えを急いでいるという。軍議を終えた正成は、正季と美月を陣屋へ招いた。灯明の下には摂津の地図が広げられていた。正成は二人を迎えると、まず美月の顔を見た。

「美月殿。そなたが未来で見せてくれた書物のことを、近頃よく思い出す」

 美月は息を詰めた。

「湊川のことですか」

「うむ。わしと正季が、そこで最期を迎えるという記しじゃ。あのときは、まだ先の出来事と思うておった。されど、尊氏が東上しておる今、その日が近づいているのを感じる」

 正季は兄の横顔を見つめた。

「兄上。わしも美月殿から聞きました。兄上と共に果てることも、正行と正時の行く末も」

 正成は頷いた。弟が真実を知ったことを、驚きはしなかった。

「そなたに知らせるべきか、迷うておった。知れば、戦に臨む心が乱れるやもしれぬと思うたのじゃ」

「兄上。わしは、あの結末を知ったからこそ、生きる道を探したくなりました」

 正季の言葉に、正成は目を上げた。

「これまでは、兄上と共に死ぬことも武士の本望と思うておりました。されど、正行たちまで同じ道をたどると聞いて、考えが変わったのです。兄上を失えば、守れるはずのものまで失うことになるのではないか、と」

 正成は長く黙っていた。やがて、地図の上に手を置いた。

「わしも、死ぬために戦うつもりはない。主上への忠義も、兵を守る責めも、生きてこそ果たせることがある。ただし、己一人が助かるために人を見捨てる道は選べぬ」

「承知しております。だからこそ、退路を調べております」

 正季が二枚の地図を並べると、正成は身を乗り出した。細い山道をたどり、祖父が赤い墨で記した丸印に目を留める。

「月影……」

 正成の声がわずかに変わった。

「正成様、ご存じなのですか」

「確かなことは申せぬ。じゃが、幼い頃、観心寺で学んでおった折、老僧から月影にまつわる話を聞いた覚えがある」

 美月の胸が高鳴った。あの老僧は、いつの日か遠い世から月の名を持つ者が現れると告げ、幼い正成に木片と横笛を託したという。祖父の遺した手掛かりと、正成が語った不思議な言い伝えが、再び結びつこうとしていた。

「そのお話を、もう少し詳しく聞かせてください」

 正成は記憶をたどるように目を伏せた。

「老僧は、月の光が照らすものは道ばかりではない、と申しておった。あの頃のわしには、その意味が分からなんだ」

 正季は二人の話を聞きながら、何かを考え込んでいた。やがて、美月へ向き直った。

「美月殿。一つ、頼みがある」

「何でしょう」

「わしも、そなたの世を見てみたい」

 美月は驚いて正季を見た。

「未来へ、ですか」

「うむ。兄上はすでに、そなたと共に未来へ行き、書物も読まれた。わしは兄上とそなたの話を信じておる。されど、この目で見たわけではない。わしらの死後に続く世を知れば、何を守るべきか、今より深く考えられる気がするのじゃ」

 正季は正成にも視線を向けた。

「兄上。もし許されるなら、兄上ももう一度ご一緒いただけませぬか。二人で未来の世を見て、戻ってから、これからの道を考えたいのです」

 正成は弟の思いがけない願いに、しばらく言葉を失った。

「正季……そなたまで、時を越えたいと申すか」

「はい。ほんの一日でも構いませぬ。兄上がご覧になったものを、わしも見ておきたいのです」

 美月は祖父の地図を見つめた。月影の力で正成と現代へ渡ったことはある。しかし、正季を加えて三人で渡れるのか、望むときに戻れるのか、まだ確かめたことはなかった。

「必ず行けるとは、今は約束できません。でも、方法を探します。お二人が一緒に未来を見られるなら、私もそうしてほしいです」

 正成は静かに頷いた。

「戦が迫っておる。無理はできぬが、道が開けるなら、わしも確かめたい。正季に、あの世の人々の暮らしを見せてやりたいものじゃ」

 その言葉に、正季は初めて柔らかな笑みを浮かべた。美月は二人を見つめた。歴史には、湊川で共に命を絶った兄弟として記されている。しかし、目の前の二人は、まだ生きている。これからの道を自分たちで選ぶことができる。

 兄弟そろって、生きて帰ってほしい。

 その願いは、美月の胸の中で、以前よりもはっきりした形を取り始めていた。正成は再び地図の赤い印に目を落とした。

「まずは、この月影の意味を確かめよう。観心寺に残されたものがあるなら、そこに手掛かりがあるやもしれぬ」

 美月は頷いた。祖父が遺した地図、老僧の言葉、そして時を越える月影の光。ばらばらだったものが、一つの道を指し示しているように思えた。陣屋の外では夜風が木々を揺らし、雲の切れ間から月が顔をのぞかせていた。迫り来る戦の足音は止まらない。それでも、三人の前には、歴史書に記されていない道が確かに生まれようとしていた。

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