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第四十四章 兄を生かすために


 夜明け前の陣屋には、まだ冷たい空気が漂っていた。山の向こうがわずかに白み始め、木々の葉を揺らす風が、夜の静けさを少しずつほどいていく。兵たちはすでに起き出し、馬に飼葉を与える者、弓の弦を確かめる者、鎧の緒を締め直す者が、それぞれの務めに取りかかっていた。正季は一睡もできずにいた。昨夜、美月から聞かされた話が、何度も頭の中によみがえっていたのである。六百年以上先の世から来たという女。兄の血を引く子孫。そして、これから起こるという湊川の戦いの結末。

 兄と自分が、最後には互いに差し違えて命を絶つ。そのこと自体に、正季はさほど驚かなかった。武士として生きる以上、戦場で命を落とす覚悟はとうにできている。まして、幼い頃から慕い続けてきた兄と最期を共にするのであれば、それも一つの本望であろう。だが、美月が語った正行の未来だけは、どうしても胸から離れなかった。まだ若い甥が、十二年後に四條畷で命を落とすという。しかも、弟の正時までが共に討たれるというのである。

 正季は幼い正行の姿を思い出した。父の背を追い、木刀を握って懸命に稽古を重ねていた少年。転んでも泣き言を言わず、泥だらけの顔で立ち上がる姿には、すでに正成の面影があった。あの子まで、同じ道を歩むのか。正季は膝の上に置いた拳を静かに握り締めた。

「兄上……」

 呟いた声は、誰にも聞こえなかった。そのとき、陣屋の外から足音が近づいてきた。

「正季様。正成様がお呼びでございます」

 正季は顔を上げた。

「承知した。すぐに参る」

 立ち上がり、身なりを整えながら、正季は一つだけ心に決めた。兄は自らの最期を知ってなお、務めを果たそうとしている。正季はその志を損なわずに生き延びるための策を、言葉にして示したかった。

 正成の陣屋では、すでに数人の武将が集まり、地図を囲んでいた。正成はその中央に座り、河内から摂津へ続く道筋を指し示していた。険しい山々と谷を利用した戦いでは、これまで幾度も大軍を退けてきた。しかし、これから相手にしようとしている足利尊氏の軍勢は、それまでの敵とは事情が異なっていた。

「尊氏は九州で勢力を立て直し、西国の武士たちを味方につけておる。海路と陸路の双方から進むとなれば、正面から迎え撃つだけでは苦しかろう」

 正成の言葉に、武将たちは神妙な面持ちで頷いた。

「では、いかがいたします」

 一人が尋ねると、正成は地図の上に置いた指をゆっくりと動かした。

「戦は兵の数だけで決まるものではない。敵がどこから進み、どこで兵糧を得て、どのように軍を動かすか。それを見極めれば、道はある」

 正季は兄の横顔を見つめた。そこには、死を望む者の姿などなかった。最後の最後まで勝つための道を探し、帝を守り、兵を無駄に失わせまいとする一人の武将がいるだけだった。それなのに、なぜ兄は湊川で命を落とさねばならないのか。軍議が終わり、武将たちが退出すると、正季はその場に残った。

「兄上。少し、お話がございます」

 正成は地図から顔を上げた。

「どうした、正季。何やら思い詰めた顔をしておるな」

「兄上には、これからの戦をどのようにお考えか、改めて伺いたいのです」

 正成はしばらく弟を見つめた。

「勝つために戦う。それ以外に何がある」

「もし、帝の御命令によって、勝ち目の乏しい戦場へ向かわねばならなくなったならば、いかがなさいます」

 正成の目がわずかに細くなった。

「妙なことを尋ねる」

「どうか、お答えください」

 正成は弟の真剣な眼差しを受け止め、静かに言った。

「帝の御命令には従う。されど、勝ち目が乏しいからといって、初めから負けるつもりで戦うことはない。わしには、兵を率いる者としての責めがある」

「では、退くこともお考えになりますか」

「退くことで次の勝機が生まれるならば、退く。千早での戦も、ただ意地を張って敵とぶつかっておったなら、とうに滅んでおったであろう」

 正季は胸の奥に、わずかな希望を感じた。

「兄上。ならば、どうか一つだけお約束ください」

「何をじゃ」

「どのような戦になろうとも、生きて戻る道を最後までお捨てにならぬことです」

 正成は意外そうに弟を見た。

「正季。そなたらしくもないことを申すな」

「そうかもしれませぬ。しかし、兄上には正行たちがおります。久子殿も、河内の民も、兄上の帰りを待っております」

 正成はしばらく黙っていた。

「正行か……」

 その声には、父親としての温かさが滲んでいた。

「まだまだ教えてやらねばならぬことが多い。あれは気性がまっすぐすぎるゆえ、時として己を顧みぬところがある」

 正季は思わず顔を伏せた。十二年後、正行が四條畷で命を落とすという美月の言葉が、胸を刺したのである。

「兄上。その正行のためにも、どうか……」

 正成は弟の肩に手を置いた。

「案ずるな、正季。わしとて、命を粗末にするつもりはない」

 その言葉を聞いた瞬間、正季は初めて、兄を救えるかもしれないと思った。しかし、正成は続けた。

「ただし、わし一人が生き延びるために、兵を見捨てることはできぬ。帝をお守りする務めを忘れることもな」

「承知しております」

 正季は深く頭を下げた。兄の心を変えるのではない。兄の心を守ったまま、生きる道を見つけなければならないのだ。

 その日の午後、美月は陣屋から少し離れた林の中で、祖父の地図を広げていた。木漏れ日が古い紙の上に落ち、細く描かれた山道や川筋を浮かび上がらせている。現代の地図とは違い、距離も方角も必ずしも正確ではなかったが、祖父が書き込んだ文字や印には、何かを伝えようとする強い意志が感じられた。美月は、湊川周辺を示した部分に目を落とした。正成が最後に退いたと伝えられる場所。その周囲に広がる道や集落。そして、祖父が赤い墨で記していた細い線。

「この道……」

 美月は指先で線をたどった。大きな街道から外れ、山裾へ続いている。兵を大勢動かすには向かないが、少人数ならば通れるかもしれない。ただし、古い地図に描かれた道が、実際に使えるとは限らない。まして、六百年以上前の地形と現代の地形が、すべて同じであるはずもなかった。

「確かめないと……」

 そのとき、背後から声がした。

「美月殿」

 振り返ると、正季が立っていた。

「正季様」

「兄上と話してまいった」

 美月は地図を畳みかけた手を止めた。

「正成様と、これからの戦についてお話しできましたか」

「うむ。兄上はご自身の最期を知っておられる。それでも、兵を守り、帝への務めを果たす道を探しておられる。その覚悟を、改めて確かめることができた」

 正季は美月の隣に腰を下ろした。

「兄上は、決して死を望んでおられるわけではない。勝つ道があるならば戦い、生きて次につなげる道があるならば、それも選ばれる。だが、兵を見捨てて一人逃れることだけは、決してなさらぬ」

 美月は静かに頷いた。

「私も、そう思います」

「ならば、兄上だけを逃がす策では足りぬ。少なくとも、最後まで兄上に従う者たちが、無駄に命を落とさずに済む道を考えねばならぬ」

 美月は地図を広げ直した。

「それで、正季様に見ていただきたいものがあります」

 正季は身を乗り出した。美月は湊川の周辺を指し示し、祖父が残した赤い線について説明した。

「ここです。大きな道から外れて、山の方へ続いています。祖父は、退路として検討した道だと書き添えていました。ただ、当時通れたかどうかは分からないとも記しています」

 正季はしばらく地図を見つめた。

「この辺りならば、わしにも多少の覚えがある。されど、これほど細い道は知らぬ」

「通れる可能性はありますか」

「分からぬ。道が残っておるとしても、雨で崩れておるやもしれぬし、敵が先に押さえることもあろう」

 美月は唇を結んだ。正季は地図から目を離さずに続けた。

「だが、調べる価値はある。兵を出して確かめさせよう。ただし、敵の目を引かぬよう、少人数でな」

「ありがとうございます」

 正季は顔を上げた。

「美月殿。もう一つ、聞いておきたいことがある」

「何でしょう」

「そなたは、兄上を未来へお連れすることができると申したな」

 美月は頷いた。

「はい。私と一緒に未来へ行かれました。ですから、もう一度お連れすることはできるはずです。ただ、戦のさなかに、どうすれば安全に時を越えられるのか。それを確かめなければなりません」

 正季は静かに考え込んだ。

「六百年以上先の世か……。兄上はすでに、その景色をご覧になったのじゃな」

「はい。正成様は街並みも、人々の暮らしもご覧になりました。『太平記』も歴史書も読まれ、ご自身とご家族の運命を知っておられます」

「では、その世で兄上は、何をなさるのであろうな」

 美月はすぐには答えられなかった。現代の観心寺で、正成が筆や武の稽古を教える暮らしを思い描いたことはあった。けれど、戦場から救い出されたあと、家族と時代を隔てて暮らす正成が、どのような日々を望むのかまでは分からなかった。戦うことを生涯の務めとしてきた武将が、刀を持って戦う必要のない時代へ行く。そこで正成は、本当に幸せになれるのだろうか。

「分かりません……」

 美月は正直に答えた。

「でも、正成様があちらで思い描かれた暮らしを、もう少し一緒に考えたいんです。命が助かったあとの日々も、正成様ご自身に選んでいただけるように」

 正季は美月を見つめた。

「そなたの世では、戦はなくなったのか。兄上が穏やかな町をご覧になったと、今、そなたは申したが」

 その問いに、美月の表情が曇った。

「残念ながら、世界から戦争はなくなっていません。日本も、長い歴史の中で大きな戦争を経験しました。たくさんの人が亡くなりました」

「そうか……」

「でも、今の日本では、少なくとも私たちが暮らす毎日の中で、戦に出ることを命じられるようなことはありません。子どもたちは学校で学び、大人たちは仕事をして、家族と一緒に暮らしています」

 正季はゆっくりと息を吐いた。

「それは、よい世じゃな」

「はい。もちろん、問題がないわけではありません。でも、正成様が守ろうとされた人々の暮らしは、長い年月を経て、確かに受け継がれています」

 正季は遠くの山並みを見つめた。

「兄上がご覧になった景色を、わしも一度、この目で見てみたいものじゃ」

 美月は頷いた。

「正季様にも、いつかお見せできたらと思います」

 しばらく二人の間に沈黙が流れた。やがて正季は、何かを決意したように立ち上がった。

「美月殿。まずは、この道を調べよう。そして、兄上が戦場で孤立せぬよう、退くための手立ても考える。そなたは、その間に時を越える方法を確かめてほしい」

「はい」

「ただし、退路を確かめたなら、その策は兄上にお話しせねばならぬ」

 美月は顔を上げた。

「正季様……」

「兄上の命を救うためとはいえ、兄上の知らぬところで、その生き方を勝手に決めるわけにはいかぬ。最後に道を選ぶのは、兄上ご自身じゃ」

 美月はその言葉を胸に刻んだ。正成を救いたいという願いが強くなるほど、正成自身の意思を忘れてしまいそうになる。けれど、それでは本当の意味で救ったことにはならない。

「分かりました。道が確かめられたら、正成様ご自身に相談します」

 正季は静かに頷いた。

「そのときは、わしも傍らにおろう」

 夕暮れが近づく頃、正成は陣屋の外に出て、兵たちの様子を見回っていた。若い兵が弓の手入れに苦労していると、足を止めて声をかけ、年老いた兵が重い荷を運んでいれば、近くの者に手伝うよう命じた。武将たちは正成を恐れるよりも、深く信頼していた。美月は少し離れた場所から、その姿を見つめていた。歴史の書物に記された楠木正成は、忠義を貫いた名将として語られている。だが、目の前にいる正成は、それだけではなかった。

 兵の顔を覚え、その家族を気遣い、若者の失敗を頭ごなしに叱ることもない。自分が率いる一人一人の命を、かけがえのないものとして見ている。この人が、湊川で死ぬ。そのとき、正成がこちらに気づいた。

「美月殿」

 美月は慌てて頭を下げた。

「正成様」

「そのようなところで、何をしておられる」

「兵の皆さんを見ていました」

 正成は穏やかに笑った。

「皆、よく働いてくれておる。わし一人では、何一つ成し遂げられぬ」

 美月はその言葉を聞きながら、思い切って尋ねた。

「正成様は、戦が終わったら、何をなさりたいですか」

 正成は少し驚いたように美月を見た。

「戦が終わったら、か」

「はい。戦のことではなく、正成様ご自身がしたいことです」

 正成はしばらく考えていたが、やがて遠くの山を見つめた。

「家族のもとへ帰りたいものじゃな」

「ご家族のもとへ……」

「久子や子らと、静かに飯を食いたい。正行の稽古も見てやらねばならぬし、村の田畑のことも気にかかる。戦が続けば、民は安心して種をまくこともできぬからな」

 正成は少し照れたように笑った。

「名のある武将の望みとしては、あまりにささやかであろうか」

 美月は首を横に振った。

「いいえ。とても素敵な望みだと思います」

 声が震えそうになり、美月は顔を伏せた。正成は不思議そうに尋ねた。

「どうなされた」

「何でもありません。ただ……その願いが、必ず叶ってほしいと思ったんです」

 正成は美月の表情を見つめた。

「美月殿。そなたは時折、未来の書物を読んだあの日と同じ顔をなさる」

 美月の心臓が大きく鳴った。

「それは……」

「無理に話さずともよい。されど、苦しいことがあるなら、一人で抱え込むものではないぞ」

 その優しさに、美月は胸がいっぱいになった。この人は、自分が湊川で死ぬことをすでに知っている。それでも美月の不安を気遣い、兵たちの暮らしを案じている。ならば、ただ逃げてほしいと願うだけでは足りない。正成が守ろうとしているものを共に守りながら、歴史に記された最期を変える道を示さなければならなかった。

「正成様」

「うむ」

「正季様と、湊川から退く道を調べています。まだ確かなことは言えませんが、手掛かりが見つかったら、聞いていただけますか」

 正成は美月をまっすぐに見つめ、静かに頷いた。

「無論じゃ。わしも生きる道を探すと決めておる。そなたらの知恵を、ぜひ聞かせてほしい」

 美月は深く頭を下げた。正成が兵たちのもとへ戻っていくと、美月はしばらくその背中を見つめていた。夕日が鎧を赤く染め、山の向こうへゆっくりと沈んでいく。あの背中を、歴史の中へ消してはならない。美月は懐の地図に手を当てた。正季が味方になってくれた。湊川から退く道を調べることも決まった。しかし、時を越える方法も、正成を説得する言葉も、まだ見つかってはいない。それでも、一つだけ確かなことがあった。正成は、死ぬために生きてきたのではない。

 守るべきものがあるからこそ、戦い続けてきたのだ。ならば、その人が生きて帰ることを願うのは、決して忠義を否定することではないはずだった。美月は夕空を見上げた。

「おじいちゃん。私、少しずつだけど、道が見えてきたよ」

 風が吹き抜け、木々の葉が静かに揺れた。その向こうで、正季が数人の兵を呼び寄せ、何かを命じている姿が見えた。祖父の地図に記された道を確かめるため、密かに人を出そうとしているのだろう。歴史に残る湊川の戦いは、まだ始まっていない。しかし、その結末を変えるための戦いは、すでに始まっていた。美月は静かに目を閉じ、心の中で誓った。正成を生かす。正季も、正行も、守れる命は必ず守る。そして、いつの日か、正成が河内の家族と再び食卓を囲み、穏やかに笑う姿を見届けるのだと。

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