第四十三章 未来から来た子孫
資料を確かめた美月は、その夜、淵に映る月へ古文書の一節を唱え、河内へ戻った。正成に地図と注釈を見せて説明を終える頃には、兵を集めた陣屋にも夜の静けさが広がっていた。遠くでは兵たちが焚き火を囲み、来るべき出陣に備えて道具を整えている。時折聞こえる馬のいななきと鎧の触れ合う音が、迫り来る戦の気配をいっそう濃くしていた。美月は陣屋の外に立ち、夜空を見上げていた。雲の切れ間から姿を現した月は、まるで何百年もの時を隔てた二つの世界を、同じ光で照らしているようだった。
美月の胸には、祖父が遺した地図と、観心寺で見つけた手掛かりのことが浮かんでいた。あの地図が示していたのは、単なる古い道筋ではない。正成を湊川の戦いから救い出すために使えるかもしれない、もう一つの道だった。しかし、どれほど周到に策を練っても、正成自身が生き延びることを望まなければ意味がない。美月はそのことを誰よりもよく理解していた。
「美月殿」
背後から声がした。振り返ると、そこには楠木正季が立っていた。兄の正成によく似た面差しを持ちながら、その眼差しには武人としての鋭さと、どこか人を包み込むような温かさがあった。
「このような夜更けに、一人で何を考えておられる」
「正季様……。少し、月を見ていました」
正季は美月の隣に立ち、同じように空を見上げた。
「不思議なものですな。戦が迫っておろうと、月は何事もなかったように輝いておる」
「そうですね。六百年以上先の未来でも、きっと同じ月が輝いています」
何気なく口にした言葉に、正季が顔を向けた。
「六百年以上先……?」
美月は思わず口を閉ざした。だが、もう隠し続けることはできないと思った。正季は正成の弟であり、兄と生死を共にする覚悟を決めている人物だった。そして何より、美月とも同じ血脈につながる、一族の大切な人だった。この人には、真実を伝えなければならない。
「正季様。今からお話しすることは、信じていただけないかもしれません。それでも、どうか最後まで聞いてください」
美月の真剣な表情に、正季は静かに頷いた。
「申してみよ」
美月は一度深く息を吸った。
「私は、この時代の人間ではありません」
正季は何も言わなかった。
「私が生まれたのは、今からおよそ六百九十年後の日本です。そこでは、馬ではなく鉄でできた車が道を走り、人は空を飛び、遠く離れた人とも瞬時に話すことができます」
正季は眉を寄せたが、笑うことも、話を遮ることもしなかった。
「そして私は、楠木正成様の血を引く子孫なのです」
その言葉に、正季の表情が変わった。
「兄上の……子孫と申すか」
「はい。正成様のご子孫の血は、私の生きる時代まで受け継がれています。私の祖父は生涯をかけて楠木一族の歴史を調べていました。私は祖父が遺した資料を通して、正成様のことを知ったのです」
正季は美月をじっと見つめた。
「それほど遠い未来から、なぜこの乱世へ参られた」
「最初は、私にも分かりませんでした。けれど、今は分かります。私は正成様を救うために、この時代へ来たのだと思っています」
「兄上を救う……?」
美月は頷いた。しかし、その目には悲しみが浮かんでいた。
「正季様。これからお話しすることは、あまりにも残酷な未来です」
正季はしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「構わぬ。兄上に関わることならば、聞かねばなるまい」
美月は月明かりの下で、歴史が伝える湊川の戦いの結末を語り始めた。
「建武三年、五月二十五日。正成様は兵庫の湊川で、足利尊氏の軍勢と戦うことになります」
「尊氏と……」
「はい。朝廷に背いた尊氏は、九州で勢力を立て直し、大軍を率いて東へ進んできます。正成様は、京でこれを迎え撃つのではなく、いったん帝に都を離れていただき、敵の補給が伸びたところを討つ策を進言します。しかし、その策は受け入れられません」
正季の顔が険しくなった。
「兄上ならば、確かにそのような策を考えられよう」
「それでも正成様は、帝の命令に従って兵庫へ向かわれます。勝ち目が薄いと分かっていながら……」
美月の声が震えた。
「そして湊川で、足利の大軍と激しく戦われます。楠木軍は勇敢に戦いますが、やがて兵を失い、最後にはわずかな人数となって退きます」
正季は黙って聞いていた。
「正成様は、近くの民家に入られます。そこで……正季様、あなたと最期の言葉を交わされるのです」
正季の眼差しが鋭くなった。
「わしも、そこにおるのか」
「はい。正季様は最後まで正成様と共に戦われます。そして、お二人は互いに差し違えて命を絶たれると伝えられています」
風が止んだように感じられた。正季はしばらく美月を見つめていたが、やがてゆっくりと目を閉じた。
「そうか……兄上と、わしが」
その声に恐れはなかった。むしろ、兄と最期まで共にあったことを知り、安堵しているようにさえ見えた。
「正季様……」
「美月殿。そなたには残酷な話であろう。されど、わしにとっては、決して恥ずべき最期ではない」
正季は静かに続けた。
「兄上は幼き頃より、己の利のために刀を抜くような方ではなかった。帝への忠義も、この国を思う心も、決して偽りではない。わしはその兄上と共に戦い、共に果てるのであれば、武士として悔いはない」
美月は唇を噛んだ。その言葉こそ、正成と正季が歴史に名を残した理由なのだろう。しかし、美月にはどうしても受け入れられなかった。
「私は……嫌です」
正季が美月を見た。
「正成様にも、正季様にも死んでほしくありません。忠義を尽くすことと、命を捨てることが、どうして同じでなければならないのですか」
美月の目から涙がこぼれた。
「正成様が生きておられれば、まだ帝をお守りする道があるかもしれません。正季様が生きておられれば、兄弟で力を合わせて、もう一度戦うことだってできます。死んでしまったら、何もできないではありませんか」
正季は答えなかった。美月は涙を拭い、正季をまっすぐ見つめた。
「私の時代では、正成様は忠義の武将として語り継がれています。でも私は、歴史に名を残すために生きてほしいのではありません。正成様にも、一人の人間として生きてほしいのです」
正季の胸に、その言葉が深く沈んだ。兄は常に人々のために戦ってきた。河内の山々を駆け、知略を尽くし、幾度となく不利な戦を覆してきた。しかし、兄自身の幸せを願う者が、これほど切実な思いを口にしたことがあっただろうか。
「美月殿」
正季は静かに尋ねた。
「そなたの知る未来では、兄上の子らはどうなる」
美月は涙を拭い、答えた。
「正行様は、父上の遺志を継いで戦われます。そして、湊川からおよそ十二年後、四條畷の戦いで命を落とされます」
正季の表情が凍りついた。
「正行が……」
「はい。正行様は弟の正時様と共に戦い、最期を迎えられたと伝えられています。楠木一族は、その後も長く南朝を支え続けます」
正季は拳を握り締めた。兄だけではない。兄の子らまでが、同じ道を歩むというのか。
「正行は、まだ若い……」
その声には、先ほどまでの武人としての覚悟とは違う、叔父としての悲しみが滲んでいた。美月は静かに言った。
「だからこそ、私は歴史を変えたいのです。正成様を救い、正行様の未来も変えたい。もちろん、簡単なことではありません。けれど、何もせずに見送ることだけは、どうしてもできないのです」
正季は長い間、月を見上げていた。やがて口を開いた。
「美月殿。そなたの言葉を、すべて理解できたわけではない。六百年以上先の世から来たという話も、今なお夢のようじゃ。されど、そなたが兄上を救いたいと願う心に、偽りがないことだけは分かる」
美月は顔を上げた。
「正季様……」
「わしも、兄上には生きていていただきたい。兄上が生きておられれば、楠木の家も、この国も、まだ道を見いだせるやもしれぬ」
正季は美月に向き直った。
「ただし、一つだけ覚えておいてほしい。兄上は己一人が助かるために、兵や民を見捨てるような方ではない。兄上を救うのであれば、兄上の志まで失わせてはならぬ」
美月は強く頷いた。
「分かっています。だからこそ、正季様のお力が必要なのです」
「わしの力が?」
「はい。正成様は、ご自分が生き残ることよりも、帝への忠義や兵たちの命を優先されるでしょう。でも、正季様の言葉なら、きっと耳を傾けてくださいます」
正季はしばらく考え込んだ。
「兄上を説き伏せるのは、容易なことではないぞ」
「それでも、諦めません」
美月の揺るぎない眼差しを見て、正季はかすかに笑った。
「なるほど。六百年以上先の子孫というのも、あながち嘘ではないのかもしれぬ。その頑固さは、兄上によく似ておる」
美月も思わず微笑んだ。そのとき、陣屋の方から兵が正季を呼ぶ声が聞こえた。正季は一度振り返ったが、すぐに美月へ視線を戻した。
「美月殿。今宵の話は、わしの胸に収めておこう。兄上には、まだ何も申さぬ」
「ありがとうございます」
「されど、時が来れば、わしも共に動こう。兄上を救う道が本当にあるのなら、この正季、命を懸けて力を貸す」
美月は深く頭を下げた。正季が陣屋へ戻っていくのを見送りながら、美月は胸の奥に小さな希望が灯るのを感じていた。歴史に記された湊川の結末は、まだ変わっていない。正成は戦場へ向かい、正季もまた兄と運命を共にするはずだった。だが、今夜、一つだけ確かに変わったことがある。正季は、自分たち兄弟の最期を知った。そして、その運命を変えようとする美月の願いを受け入れたのだ。美月は懐にしまった祖父の地図を取り出した。月明かりの下で、古い道筋を指先でたどる。
湊川の川筋、戦場の北へ延びる細道、そして「月影」と添えられた赤い印。
そのどこかに、まだ誰も知らない可能性が残されているはずだった。
「おじいちゃん……。私、必ず見つけるから」
美月は小さく呟いた。
「正成様も、正季様も、そして正行様も。誰一人、歴史の犠牲にはさせない」
雲が流れ、月が再び姿を現した。六百九十年の時を隔てても変わらぬ月の光が、決意を新たにした美月を静かに照らしていた。湊川の戦いまで、残された時間は決して多くなかった。けれど、美月はもう一人ではなかった。歴史の結末を知る未来の子孫と、兄の命を救おうとする弟。二人の小さな約束が、やがて大きな歴史の流れを変えることになるのかもしれなかった。




