第四十一章 西国からの風
春の陽光が河内の山々を照らし始めた頃、都には束の間の静けさが戻っていた。足利尊氏が西国へ退いてからというもの、朝廷に仕える公家たちの間には戦勝を喜ぶ声が広がっていたが、楠木正成の胸には、容易には拭い去れない不安が残っていた。尊氏は、まだ敗れ去ったわけではない。正成は報告を聞きながら、現代で読んだ戦いの経過と、斥候の知らせを照らし合わせていた。
未来を知っているからといって、目の前の戦を避けられるわけではない。むしろ、何が起こるかを知っているからこそ、正成は一つひとつの知らせを以前にも増して慎重に受け止めていた。その朝、正成のもとへ西国からの急使が到着した。
「申し上げます。足利尊氏、九州において勢いを取り戻しつつあるとのこと。少弐氏をはじめ、これに従う武士たちが集まり始めております」
家臣の報告を聞き、正成は静かにうなずいた。
「やはり、そうなったか」
その言葉に、居並ぶ家臣たちは顔を見合わせた。
「殿は、この動きを予想しておられたのですか」
「尊氏ほどの男が、一度の敗北で天下を諦めるとは思えぬ。あの男には、武家を束ねる力がある。西国の武士たちも、朝廷に従うことだけが己の所領を守る道とは考えておるまい」
正成は地図の上に視線を落とした。かつて鎌倉幕府を倒すため、ともに戦った足利高氏。後醍醐天皇から尊氏の名を賜ったその男は、今や朝廷に刃を向ける立場となっていた。正成は尊氏の武将としての力量を認めていた。だからこそ、その野心と、武士たちの利害をまとめ上げる手腕を恐れていたのである。
「尊氏は、ただ兵を集めておるのではない。戦に勝った後、何を与えるかを武士たちに示しておるのじゃ。所領を守りたい者、新たな恩賞を求める者、朝廷の政に不満を抱く者……その思いをひとつにまとめれば、軍勢は瞬く間に膨れ上がる」
家臣の一人が険しい表情で尋ねた。
「では、我らも兵を集め、早々に迎え撃つべきではございませぬか」
「兵を集めることは必要じゃ。されど、兵の数だけで勝敗が決まるものではない」
正成はしばらく地図を見つめていたが、やがて顔を上げた。
「まずは敵の動きを確かめよ。どの道を通り、いかなる武将が従っておるのか。海から来るのか、陸から来るのか。それを見誤れば、どれほど勇敢に戦おうとも兵を失うだけじゃ」
家臣たちは深く頭を下げ、それぞれの持ち場へ散っていった。一人になった正成は、地図の兵庫の辺りへ指を置いたまま動かなかった。すべてを知りながら、その流れを変えられぬのか。正成は静かに息を吐いた。そのとき、廊下から足音が聞こえた。
「正成様、少しよろしいでしょうか」
美月だった。
「美月殿か。入るがよい」
美月は部屋へ入ると、正成の前に広げられた地図に目を向けた。
「西国から知らせが届いたんですね」
「うむ。尊氏が九州で兵を集めておる」
美月の表情が曇った。
「歴史に書かれていた通りですね」
「今のところはな」
正成は地図を畳みながら、穏やかに答えた。
「されど、美月殿。書物に記されたことが、これからも必ずその通りになるとは限らぬ。そなたがこの世へ来たことで、すでに変わり始めておるものもあろう」
美月は正成を見つめた。
「正成様は、歴史を変えられると思っていらっしゃるんですか」
「分からぬ。だが、何もせずに定めを待つつもりはない」
正成は少し間を置き、続けた。
「わしは帝に忠義を尽くす。その心は変わらぬ。されど、忠義を尽くすことと、むざむざ命を捨てることが同じであるとは思わぬようになった」
正成は自らの最期を知ったときから、忠義を守ることと生き延びることを、どう両立させればよいのか考え続けてきた。今はその願いを、実際に使える退路や備えへ変えようとしている。その変化が、美月には何よりもうれしかった。
「私も、必ず方法を見つけます」
「うむ。ともに考えよう」
正成はそう言って微笑んだ。美月はその笑顔を見つめながら、ふと懐に目を向けた。そこには、先日贈った横笛が大切に納められていた。
「正成様、あの笛、持っていてくださるんですね」
「無論じゃ。そなたが心を込めて作ってくれたものゆえな」
正成は笛を取り出し、しばらく手の中で眺めた。
「不思議なものじゃ。この笛を手にすると、観心寺で出会った老僧のことを思い出す」
美月は静かにうなずいた。
「老僧が渡してくれた笛も、三日月の印が刻まれていたんですよね」
「そうじゃ。木片にも、笛にも、同じような印があった」
正成は横笛の端に刻まれた三日月を見つめた。
「そなたが刻んだ印も、よく似ておる」
「私の名前に月が入っているから、何となく刻んだんです」
美月はそう答えたが、心の奥に小さな疑問が残った。なぜ、自分はあの形を選んだのだろう。老僧の話を聞いていたからなのか。それとも、もっと別の理由があるのだろうか。考えても答えは出なかった。正成は笛を懐へ戻し、再び地図を広げた。
「美月殿。そなたに、ひとつ頼みがある」
「何でしょう」
「尊氏が東上するまで、まだ幾ばくかの時があろう。その間に、そなたの世で湊川の地形を調べてほしい。山と海、川の流れ、兵が通れる道……わしが知っておる土地と、どれほど違うのか確かめたい」
美月は少し驚いた。
「現代の地図を、ですか」
「うむ。時を経て地形が変わっておることは承知しておる。されど、山の位置や川の流れには、昔の姿をとどめておるものもあろう。古い絵図と照らし合わせれば、何か見えてくるやもしれぬ」
美月は大きくうなずいた。
「分かりました。現代に戻ったら、古い地図も探してみます。祖父の資料の中にも、何か残っているかもしれません」
「頼んだぞ」
正成は静かに答えた。
その日の夕暮れ、美月は再び現代へ戻る支度を整えた。庭先では正成が、家臣たちに兵糧の備えや街道の警戒について指示を出していた。その姿は、これから訪れる戦いを恐れることなく、ただ自らの責務を果たそうとする武将そのものだった。美月はしばらくその背中を見つめていた。この人は、歴史の中で忠臣として語り継がれてきた。
けれども、美月が知っている正成は、ただ忠義のために命を捨てる人ではなかった。家族を愛し、家臣を思いやり、敵の命さえ軽んじず、戦わずに済む道があるならば最後まで探そうとする、一人の人間だった。だからこそ、生きてほしい。美月は胸の中で、何度もそう願った。やがて正成が振り返り、美月に声をかけた。
「気をつけて行くのじゃぞ」
「はい。必ず戻ってきます」
「待っておる」
その短い言葉に、美月は微笑んだ。月が山の端から昇り始めた頃、美月は庭を離れ、山道の脇にある小さな淵へ向かった。静かな水面には、夜空に昇った満月がくっきりと映っていた。美月がその月影を見つめ、現代へ帰ることを願うと、銀色の輪郭がゆっくりと広がった。足元に淡い光が立ち上がり、風が衣を揺らす。次の瞬間、美月の姿は水面からあふれる月影の中へと消えていた。正成はしばらくその場所を見つめていたが、やがて懐から横笛を取り出した。月明かりの下で、静かに息を吹き込む。
澄んだ音色が、河内の夜空へと広がっていった。それは戦いの勝利を願う調べではなかった。遠い未来から現れた一人の娘が、再び無事に戻ってくることを願う、穏やかな祈りのような音だった。そして、その音色を聞く者のない山の向こうでは、やがて天下を揺るがすことになる新たな戦の風が、静かに吹き始めていた。




