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第四十章 三日月の横笛

 河内の山々には、春の訪れを告げる柔らかな風が吹き始めていた。足利尊氏が西国へ退いたとはいえ、戦乱が終わったわけではない。都から届く知らせは日ごとに慌ただしさを増し、正成もまた、来るべき戦いに備えて家臣たちとの評議を重ねていた。木片を納めた箱も探していたが、館の古い品々は戦のたびに移され、まだ所在を確かめられずにいた。正成は探す手を止めぬよう頼んでから、再び評議へ向かった。美月はそんな正成の姿を見つめるたび、胸の奥に言いようのない不安を覚えていた。

正成はすでに、自分が湊川で迎える運命を知っている。美月とともに訪れた現代で、『太平記』をはじめとする書物を読み、自らの最期だけでなく、弟の正季や息子たちがたどる歴史まで知った。それでもなお、正成は己の信じる忠義を捨てようとはしなかった。美月には、その覚悟が痛いほど分かっていた。だからこそ、歴史を変えるための方法を探す一方で、正成が戦のことを忘れ、心を休められる時間を少しでも作ってあげたいと思うようになっていた。

その思いを強くしたのは、観心寺で出会ったという老僧の話だった。少年の正成に木片と横笛を渡し、いつの日か遠い世から月の名を持つ者が現れると告げた、不思議な老僧。正成はその横笛を折に触れて吹いていたという。

「そういえば、正成様は笛を吹かれるんだった……」

美月はひとりつぶやいた。現代で暮らしていた頃、祖父の家には古い竹細工の道具が残されていた。祖父は歴史を調べるだけでなく、手先も器用な人で、竹を使った小物を作ることもあった。美月も幼い頃、その傍らで竹を削ったり、磨いたりしたことがある。もっとも、横笛を作った経験はなかった。それでも、現代なら材料も道具も手に入り、作り方を調べることもできる。美月はふと、ひとつの考えを思いついた。正成様に、私の作った横笛を贈ろう。

老僧から授かった笛は、すでに長い年月を経ている。もし今も大切にしているのなら、新しい笛を贈れば喜んでもらえるかもしれない。何より、自分の手で作ったものなら、言葉では伝えきれない思いを込められる気がした。

その日の夜、美月は水辺で古文書の一節を口にし、月影が開くのを待って現代へ戻った。満月を過ぎた夜にも帰れたことはあるが、どこまで月が欠けてもよいのか、まだ分からない。だから、道が開いたときと同じことを繰り返していた。久しぶりに足を踏み入れた祖父の家は、以前と変わらず静まり返っていた。古い書棚には歴史書が並び、机の上には祖父が使っていた筆や硯が置かれている。美月は部屋を見回しながら、祖父が生きていた頃のことを思い出した。

「おじいちゃん、少しだけ道具を借りるね」

誰もいない部屋にそう声をかけ、美月は物置から竹細工の道具箱を取り出した。

翌日、美月は竹材を手に入れ、横笛の作り方を調べ始めた。竹の種類や太さ、指孔の位置によって音が変わることを知り、想像していた以上に難しい作業だと分かった。それでも、途中で諦める気にはなれなかった。竹を切り、内部を整え、少しずつ穴を開けていく。最初に作ったものは、息を吹き込んでもまともな音が出なかった。二本目も、音程が不安定だった。美月は失敗した竹を机の端に並べ、何度も作り直した。正成は、どんな音色を好むのだろう。

勇ましい戦の調べよりも、月の美しい晩に静かに吹ける、優しい音色の方が似合う気がした。幾日か試行錯誤を重ね、ようやく澄んだ音の出る一本が完成した。美月は窓辺に立ち、恐る恐る息を吹き込んだ。細く柔らかな音が、静かな部屋に響いた。

「……できた」

思わず笑みがこぼれた。まだ熟練の職人が作る笛には遠く及ばないだろう。それでも、美月にとっては何より大切な一本だった。最後に、美月は笛の端に小さな三日月の印を刻んだ。祖父から教わった、物を作った者が自分の印を残すという習わしを思い出したのである。月は、美月自身の名にも通じていた。細い刃先で慎重に刻んだ三日月は、左右がわずかに不揃いになった。美月は削り直そうとしたが、ふと思い直した。

「これでいい。私が作った証しなんだから」

そうつぶやき、指先で刻印をなぞった。やがて笛を柔らかな布で包むと、美月は月の出を待って水辺へ向かった。水に映る光へ古文書の一節を唱え、再び月影の向こうへ渡った。河内へ戻った頃には、正成は家臣たちとの評議を終え、庭先でひとり月を眺めていた。

「正成様」

声をかけると、正成は振り返った。

「美月殿。戻ったか」

「はい。今日は、正成様にお渡ししたいものがあるんです」

「わしに?」

美月は少し照れながら、布包みを差し出した。

「上手にできたかどうか分かりませんけど、私が作りました」

正成は包みを受け取り、丁寧に布を開いた。中から現れた横笛を見て、目を細める。

「これは……笛か」

「はい。以前、観心寺の老僧から横笛をいただいたというお話を聞いたでしょう。それで、私も作ってみたくなったんです」

正成は笛を手に取り、竹の表面を静かに眺めた。

「そなたが、これを作ったのか」

「何度も失敗しました。音が出るようになるまで、結構大変だったんですよ」

美月が笑うと、正成も穏やかに笑った。

「それは、かたじけない。戦の道具ならば幾度となく手にしてきたが、このような贈り物を受けるとは思わなんだ」

正成は笛を唇に当て、静かに息を吹き込んだ。柔らかな音色が庭に広がった。美月は思わず目を見開いた。自分が吹いたときとはまるで違う。正成の奏でる音は深く、どこか懐かしさを帯びていた。

「すごい……。同じ笛なのに、こんなに違うんですね」

「いや、よい笛じゃ。音に温かみがある」

正成はもう一度、短い旋律を奏でた。その音は夜風に乗り、庭の木々を抜けて、山の方へと消えていった。美月は胸が熱くなるのを感じた。この人が、これからどれほど厳しい運命に立ち向かうことになるとしても、せめて今この瞬間だけは、穏やかでいてほしい。そんな願いが、笛の音に重なっていた。

「美月殿」

演奏を終えた正成が、静かに言った。

「この笛、大切にいたそう」

「はい。そうしていただけたら、うれしいです」

正成は笛を布に包み直し、懐へ納めた。

「戦場へ赴くときも、持ってゆこう」

美月は一瞬、言葉を失った。

「戦場にまで、ですか」

「うむ。そなたが心を込めて作ってくれたものじゃ。わしにとっては、何よりの守りとなろう」

その言葉に、美月の胸が締めつけられた。守り。正成は何気なくそう言ったのかもしれない。しかし、美月にとってその言葉は、どうしても湊川の戦いと結びついてしまう。必ず守りたい。

笛だけではない。この人の命そのものを。

美月はそう心に誓った。しばらくして、正成はふと思い出したように言った。

「そうじゃ。そなたに、あの老僧から授かった笛の話を、もう少ししておこう」

美月は顔を上げた。

「はい。ぜひ聞かせてください」

正成は遠い記憶をたどるように、ゆっくりと語り始めた。

「わしが幼き頃、老僧から授かった笛は、すでに古びておった。竹は深い飴色に変わり、ところどころに細かな傷があった。されど、その音色は不思議なほど澄んでおった」

「今も、その笛は残っているんですか」

「いや、今は手元にない。観心寺を離れたのち、長く大切にしておったが、あるときから見当たらなくなった。どこかへ置き忘れたのか、戦の折に失うたのか、定かではない」

美月は少し残念そうにうなずいた。

「そうだったんですね」

「うむ。されど、あの笛の音は今でも覚えておる。月夜になると、時折思い出すのじゃ」

正成はそう言って、美月の作った笛をもう一度取り出した。

「不思議なものじゃな。そなたの笛を吹いておると、幼き日のあの音色がよみがえるような気がする」

美月は静かに微笑んだ。

「それなら、作ってよかったです」

正成は笛を見つめ、穏やかにうなずいた。

「大切にいたそう。今度こそ、失わぬようにな」

正成が幼い頃に授かった古い笛は、今はもう手元にない。けれども、今夜、新しい笛が正成の手に渡った。月は、二人の頭上で静かに輝いていた。その光の下で、正成は新しい横笛を唇に当て、もう一度、穏やかな旋律を奏でた。美月はその音を聞きながら、ただひとつの願いを胸に抱いていた。どうか、この人が生きて、いつまでもこの笛を吹き続けられますように。

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