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第三十九章 観心寺に眠る記憶

 正成は美月から渡された古文書の紙片を、月明かりの下で何度も読み返していた。屋敷の庭には夜の静けさが満ち、時折吹き抜ける風が木々の葉を揺らしている。美月はその横顔を見つめながら、少年時代の観心寺で何があったのか、正成が口を開くのを待っていた。


「正成様。そのお坊様は、どのような方だったのですか」


 正成は紙片から目を離し、遠い記憶をたどるように庭の奥へ視線を向けた。


「名は覚えておらぬ。わしがまだ幼かった頃、観心寺で学問を教わっていたときのことじゃ。ある晩、寺の奥で月を眺めておると、見知らぬ老僧が声をかけてきた」


「見知らぬ方だったんですか」


「うむ。寺に仕える僧たちとは、どこか様子が違っておった。身なりは質素であったが、その眼差しだけは今でも忘れられぬ」


 正成はしばらく沈黙したあと、静かに語り始めた。


 その夜、少年だった正成は、寺で教わった兵法の書を読み終え、ひとり境内へ出ていた。山の向こうには大きな月が昇り、堂の屋根を淡い光が照らしていた。昼間に師から問われた言葉が、いつまでも胸に残っていたのである。人は何のために命を懸けるのか。幼い正成には、まだ答えが見つからなかった。


「そなたは、何を悩んでおる」


 突然声をかけられ、少年は振り返った。そこには白髪の老僧が立っていた。


「人は、なぜ戦うのでしょうか」


 少年が尋ねると、老僧はすぐには答えず、月を見上げた。


「そなたは、何のためなら命を捨てられると思う」


「父や母、家族を守るためなら」


「では、家族を守るために、ほかの者の命を奪うことになれば、どうする」


 少年は答えに詰まった。老僧はその様子を見つめ、穏やかに言った。


「正しき道とは、己が正しいと信じるだけでは見えてこぬものじゃ。守ろうとする者の命も、敵として向かい合う者の命も、同じ重さを持っておる」


 少年は眉を寄せた。


「それでは、戦ってはならぬということですか」


「そうではない。戦わねば守れぬものもあろう。されど、刀を取る前に、ほかに道がないかを考えることじゃ」


 その言葉は、少年の心に深く残った。老僧はやがて懐から小さな木片を取り出した。表面には、三日月のような印が刻まれていた。


「この印を覚えておくがよい。いつの日か、そなたが己の命を捨てるほかないと思うとき、遠き世より月の名を持つ者が現れるやもしれぬ」


「遠き世より?」


 少年には意味が分からなかった。


「その者が現れたならば、よく話を聞くのじゃ。そなたひとりの命と思うておるものが、実は多くの者の未来につながっておることを知るであろう」


 老僧は木片を少年の手に握らせると、もうひとつ、懐から細長い布包みを取り出した。包みの中には、一本の横笛が収められていた。長い年月を経たものらしく、竹の表面は深い飴色に変わり、ところどころに細かな傷が残っている。しかし、丁寧に手入れされてきたのだろう。その古びた姿には、不思議な温かみがあった。


「これも、そなたに授けよう」


 少年は両手で横笛を受け取った。


「これは……」


「長い旅をともにしてきた笛じゃ。月の美しい晩には、これを吹いてみるがよい。言葉にならぬ思いも、笛の音ならば風に託せることがある」


 少年が笛を月明かりにかざすと、指孔の近くに小さな三日月の印が刻まれているのが見えた。それは先ほど渡された木片の印と、よく似ていた。


「この笛にも、同じ印がございます」


「うむ。大切にするがよい」


 老僧はそれ以上説明せず、ただ懐かしむような眼差しで笛を見つめていた。


「ただし、忘れるでない。命を救うことと、運命から逃れることは同じではない。生き延びた者には、生き延びた者の務めが生まれる」


 少年がもう一度顔を上げたとき、老僧は堂の向こうへ歩き始めていた。追いかけようとしたが、その姿は月明かりの届かぬ回廊の奥へ消えてしまった。


 翌朝、正成は寺の僧たちに老僧のことを尋ねた。しかし、誰もそのような人物を知らなかった。それ以来、正成はその夜の出来事を胸の奥にしまっていたのである。


「……その木片は、今もお持ちなのですか」


 美月が尋ねると、正成はゆっくりとうなずいた。


「長く忘れておったが、捨てた覚えはない。観心寺を離れるとき、大切なものを納めた箱に入れたはずじゃ」


「横笛も、その箱に?」


「いや、笛は別じゃ。あの老僧から授かったものゆえ、折に触れて吹いておった。戦が続くようになってからは、手に取ることも少なくなったがな」


 正成は懐かしそうに目を細めた。


「不思議なことに、あの笛を吹くと、幼き日に観心寺で眺めた月を思い出すのじゃ」


「そうなんですね……」


 美月は、月夜にひとり笛を吹く少年の正成を思い浮かべた。そして、ふと考えた。正成様には、戦いのことを忘れて心を休められる時間が、どれほどあるのだろう。いつか自分も、正成のために何かを作って贈りたい。そう思ったが、このときはまだ、何を贈ればよいのかまでは考えていなかった。


「その箱は、どこに?」


「河内の館に残してあると思うが、確かめねば分からぬ」


 美月は胸が高鳴るのを感じた。祖父の古文書に隠されていた言葉と、正成が少年時代に受け取った木片。もし、その二つが結びついているのなら、単なる偶然とは思えなかった。しかし、ひとつ疑問があった。


「正成様。そのお坊様は、どうして私のような人間が現れることを知っていたのでしょう」


 正成は首を横に振った。


「それは、わしにも分からぬ。あの頃は、ただ不思議なことを申す御坊だと思うておった。されど今、そなたが目の前におる」


 正成は紙片を見つめたまま、しばらく黙っていた。


「美月殿。わしがそなたの世で見た書物のことを、覚えておるか」


「はい。もちろんです」


「そこには、わしが湊川で討ち死にすると記されておった。弟の正季とともに、最期を迎えるとな」


 美月はうなずいた。正成を現代へ連れてきたとき、彼は『太平記』をはじめとする書物に目を通し、自分と一族がたどる運命を知った。そのときの正成の沈黙を、美月は今も忘れていなかった。


「初めて読んだときは、わしとて驚いた。まだ起きてもおらぬ戦の結末が、何百年も先の書物に記されておるのじゃからな。されど、それ以上に胸に残ったのは、わしの死のあとも戦が続き、息子たちまでその渦中に身を置くということじゃった」


 正成は静かに息を吐いた。


「自らの死を知ることよりも、残される者たちの行く末を知ることの方が、よほど堪えた」


 美月は何も言えなかった。正成が現代で歴史を知ったとき、何を思ったのか。これまで深く尋ねることができなかったのは、答えを聞くのが怖かったからかもしれない。


「正成様……それでも、湊川へ行かれるおつもりですか」


 正成はすぐには答えなかった。


「まだ、そのときが来たわけではない。戦の行方も、これからどう変わるか分からぬ。されど、もし主上の御命により出陣せねばならぬとなれば、わしは武士としての務めを果たすであろう」


「でも、そこで命を落とすと分かっているんですよ」


 美月の声が思わず強くなった。


「分かっているからこそ、別の道を探さねばならぬと思うておる」


 正成の答えは、美月の予想とは違っていた。


「わしは、死ぬことを忠義とは思うておらぬ。生きて主君を支え、民を守れるのであれば、それに越したことはない。されど、己の命を守るためだけに、果たすべき務めを捨てることもできぬ」


 正成は美月へ向き直った。


「そなたが何を案じておるか、わしにも分かる。わしとて、正行や正時、正儀の成長を見届けたい。妻とともに、穏やかな日々を送りたいと思うこともある。だが、わしひとりの願いだけで、世の流れを決めるわけにはいかぬ」


 その言葉を聞いた美月は、胸が締めつけられる思いだった。歴史書の中では忠臣として語られる正成も、目の前では家族を愛し、未来を案じるひとりの父親だった。


「正成様。私は、あなたに忠義を捨ててほしいわけではありません」


 美月は古文書の紙片を握りしめた。


「あなたが大切にしているものを、私も大切にしたいんです。でも、だからといって、あなたが死ぬしかないなんて思いたくありません。歴史にそう書かれているからといって、その通りにしなければならない理由なんてないはずです」


 正成は黙って耳を傾けていた。


「現代で見つけたこの古文書も、観心寺のお坊様の言葉も、まだ何を意味しているのか分かりません。でも、私たちが二つの時代を行き来できることと、何か関係があるように思うんです」


「月影の力か」


「はい。正成様を一度、現代へお連れすることができたんです。だったら、その力には、まだ私たちが知らない可能性があるんじゃないでしょうか」


 正成は庭の水面へ目を向けた。月は静かに揺れていた。


「確かに、あのときは夢でも見ておるようじゃった。そなたの世の町並みも、書物も、わしには想像もつかぬものばかりであった」


 正成はかすかに笑ったが、やがて真剣な表情に戻った。


「されど、美月殿。そなたの力がいつでも思い通りになるとは限るまい。まして戦場で、幾千もの兵が入り乱れる中となれば、何が起こるか分からぬ」


「分かっています。だから、今から調べたいんです」


 美月は一歩、正成に近づいた。


「月影が現れる条件も、どこまで人を連れて行けるのかも、まだ十分には分かっていません。観心寺の木片に何か秘密があるのなら、それも確かめたい。何もしないまま、その日を迎えるのだけは嫌なんです」


 正成は美月の顔を見つめた。その眼差しには、以前のような戸惑いだけではなく、強い決意が宿っていた。


「美月殿。そなたは、わしのためにそこまでしてくれるのか」


「正成様だけではありません」


 美月は静かに答えた。


「正季様も、正行様も、正時様も……皆さんがこれから迎える運命を、私は知っています。だからこそ、何かできることがあるなら、諦めたくないんです」


 正成は目を閉じた。正季とともに湊川で命を落とし、その後も息子たちが戦場へ向かう。現代の書物に記されていた一族の歴史が、再び胸によみがえった。


「……そうか」


 長い沈黙のあと、正成はゆっくりとうなずいた。


「ならば、まずは木片を探そう。あの老僧の言葉が、今になってこれほどの意味を持つとは思わなんだ」


 美月の顔が明るくなった。


「はい。私も現代で観心寺について、もっと調べてみます」


「わしも、幼き日の記憶をたどってみよう。あの老僧が現れた場所も、木片を納めた箱も、確かめねばならぬ」


 生きる道を探すために、今、何を確かめればよいのかが一つ定まった。ただ運命を恐れるのではない。歴史の結末を知りながら、その先に別の道がないかを探す。そのために、美月は現代で調べ、正成は過去に残された手がかりを追うことになったのである。そのとき、屋敷の外から慌ただしい足音が近づいてきた。


「正成様!急ぎ、お耳に入れたきことがございます!」


 家臣の声だった。正成が立ち上がると、息を切らした武士が庭先に現れ、膝をついた。


「西国へ退いた足利尊氏が、なお再起を図っているとの知らせにございます。各地の武士たちにも動きが見られます」


 正成の表情が引き締まった。


「やはり、そうか」


 美月はその横顔を見つめた。尊氏はやがて九州で勢力を立て直し、再び東へ向かう。その先に待つ戦いを、二人はすでに知っていた。


「美月殿。どうやら、時は我らを待ってはくれぬようじゃ」


「はい。でも、まだ時間はあります」


 美月はそう答えたものの、胸の奥には焦りがあった。どれほど歴史を知っていても、未来を変える方法が分からなければ意味がない。しかも、月影の力には未知の部分が多く、正成を救おうとして自分まで過去に取り残される可能性もあった。それでも、今は立ち止まっている場合ではなかった。正成は家臣に翌朝の評議を命じると、再び美月へ向き直った。


「木片のことは、わしに任せよ。そなたはそなたの世で、調べられることを調べてくれぬか」


「分かりました。必ず、何か見つけてきます」


 正成は静かにうなずいた。


「美月殿。そなたと探し続けてきた道が、わしの幼い日の記憶にもつながっておるとはな。まだ確かめねばならぬことが、いくつもありそうじゃ」


 美月は驚いて正成を見つめた。


「ただし、ひとつだけ約束してほしい。わしの命を救うために、そなた自身の命を粗末にしてはならぬ」


 その言葉に、美月はすぐには答えられなかった。正成を救うことばかり考えていたが、正成もまた、自分の身を案じてくれているのだと気づいたからである。


「……はい。お約束します」


 美月が答えると、正成はようやく穏やかな笑みを浮かべた。庭の水面には、二人を結びつけた月が静かに映っていた。その光の下で、美月は改めて思った。歴史に記された正成の最期を、ただ知っているだけでは終わらせない。観心寺の老僧が残した木片に、どのような秘密が隠されているのか。それが本当に運命を変える鍵になるのかは、まだ分からない。


 正成も、自らの記憶をたどって手掛かりを探そうとしている。美月だけが未来の書物を調べるのではなく、二つの時代に残るものを持ち寄れる。そのことが、彼女の焦りを少し和らげていた。そして、遠く西国では尊氏が再起の機会をうかがい、歴史の歯車は再び動き始めていた。

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