第三十八章 月影に隠された約束
西へ退く足利勢の動きを見届けたのち、正成は兵を立て直すため河内へ戻っていた。尊氏がさらに西へ向かったという知らせも、使者を通じて届いていた。都では勝利を喜ぶ声が上がっていたが、楠木正成の心は少しも晴れなかった。尊氏という男が、このまま敗北を受け入れるはずがないことを、誰よりもよく知っていたからである。
その夜、正成は屋敷の縁側に腰を下ろし、雲間から現れた月を見上げていた。庭には冷たい風が吹き、木々の枝がかすかに揺れている。戦が一段落したとはいえ、兵の傷は癒えず、失われた命が戻ることもない。正成は戦場で倒れた者たちの顔を思い浮かべながら、これから先に待ち受けるものを考えていた。
「父上、まだお休みになられぬのですか」
声をかけたのは正行だった。正成は息子を振り返り、静かに笑みを浮かべた。
「少し考え事をしておった。正行、そなたはこの戦が終わったと思うか」
「足利勢は敗れて西へ退きました。しばらくは戦も収まるのではございませぬか」
「そうであればよいがな」
正成は再び月を見上げた。
「尊氏殿は、必ず戻ってくるであろう。あの者には人を従わせる力がある。敗れてなお、命を預けようとする武士が少なくないのじゃ」
正行は父の横顔を見つめた。その言葉には敵将への警戒だけでなく、かつて同じ時代を切り開こうとした者への複雑な思いがにじんでいた。
「父上は、尊氏を憎んでおられるのですか」
思いがけない問いに、正成はしばらく沈黙した。
「憎むだけで済む相手ならば、どれほど楽であろうな」
正行には、その言葉の意味がすぐには分からなかった。正成はそれ以上語らず、息子に休むよう促したが、ひとりになってからも月を見つめ続けていた。同じ屋敷の一室で、美月も月を見上げていた。父子の声はもう聞こえず、庭を渡る風の音だけが届いていた。美月は、正成の表情が以前とは違っていることに気づいていた。戦のたびに命を懸け、それでも決して弱音を吐かない正成が、時折、何かを諦めたような眼差しを見せる。その理由を、美月は知っていた。湊川の戦い。
歴史に記されたその結末が、少しずつ近づいている。美月は何度も考えていた。未来を知る自分が、このまま何もせずにいてよいのだろうか。正成を救いたいという思いは日ごとに強くなっていたが、歴史を変えることへの恐れも消えなかった。しかし、その夜、美月の心を動かしたのは恐怖ではなかった。正成の息子たちの顔が浮かんだのである。父を慕い、父の背中を追いかけている少年たち。その未来に何が待っているのかを知りながら、ただ見守ることなどできるのだろうか。
「……やっぱり、何かあるはず」
美月は小さくつぶやいた。これまで月影を通して二つの時代を行き来してきた。現代の品を持ち込み、正成を未来へ連れてきたことさえある。それなのに、自分は肝心なところで歴史の結末を恐れ、立ち止まっていたのではないか。美月は決意した。もう一度、現代へ戻ろう。そして、祖父が残した古文書を最初から調べ直そう。何かを見落としているかもしれない。
正成に行き先を告げ、美月は山道の脇の水辺へ向かった。古文書の一節を口にして待つうちに、月の光が水面に長く伸びた。美月はその光の中へ足を踏み入れた。次の瞬間、冷たい夜風の匂いが変わった。見慣れた現代の景色が目の前に広がっていた。美月は帰宅すると、祖父の残した古文書を取り出した。何度も読み返してきた系譜や記録だったが、今夜はこれまでとは違う思いで一枚ずつ確かめていった。
正成の名、正季の名、そして一族に連なる人々の記録。紙は古び、ところどころ文字が薄れている。祖父が生前、この古文書をどれほど大切にしていたのかを思うと、美月は自然と手つきが慎重になった。やがて、一冊の古い帳面の裏表紙に指が止まった。ほかの部分よりも、わずかに厚い。
「……何だろう」
光に透かしてみると、二枚の紙が貼り合わされているようだった。美月は紙を傷めないよう注意しながら端を確かめた。すると、経年によって浮き上がった隙間から、折り畳まれた薄い紙片が見えた。胸の鼓動が速くなった。取り出した紙片には、古い筆文字が並んでいた。すべてをすぐに読むことはできなかったが、ひとつの寺の名だけは、はっきりと分かった。
「観心寺……?」
河内長野にある、楠木正成ゆかりの寺だった。美月は息をのんだ。紙片には、寺の名に続いて、奇妙な言葉が記されていた。
『月の影、二つの世を照らすとき、失われし道は再び開かれん』
その文字を読んだ瞬間、美月の背筋に冷たいものが走った。月の影。二つの世。偶然にしては、あまりにも自分の体験に似ていた。さらに下には、もう一行あった。
『その証は、幼き日に学びし堂の記憶にあり』
「幼き日に学びし堂……」
美月は考え込んだ。正成は幼い頃、観心寺で学問や修行に励んだと伝えられている。もし、この一文がその時代の何かを指しているとしたら、寺に手がかりが残されている可能性がある。
翌朝、美月は河内長野へ向かった。観心寺の山門をくぐると、境内には静かな空気が満ちていた。長い年月を経た木々が参道を覆い、足元には落ち葉が重なっている。七百年近い時を隔てながら、正成もまた、この地を歩いたのだと思うと、美月は不思議な感慨を覚えた。しかし、今日は歴史を偲ぶために来たのではない。何かを見つけるために来たのだ。美月は寺の由緒や案内を確かめ、境内を歩きながら古文書の言葉を繰り返した。
『幼き日に学びし堂の記憶』
それが特定の建物を指すのか、それとも正成だけが知っていた出来事なのか、今の美月には判断できなかった。古文書の紙片も、いつ誰が書いたものなのか分からない。そもそも、そこに記された言葉が自分の力と関係しているという確証さえなかった。それでも、美月には引き返す気になれなかった。境内の一角で足を止め、正成の菩提を弔うこの寺が、後世までその名を伝えてきたことに思いを巡らせた。正成が生きていた時代には、まだ誰も湊川での最期を知らなかった。だが、自分は知っている。
その違いが、胸を締めつけた。
「正成様……」
思わず口にした名前が、静かな境内に消えた。そのとき、美月はあることに気づいた。古文書の言葉は、必ずしも寺のどこかに物が隠されていることを意味しているとは限らない。むしろ、正成が少年時代に経験した出来事そのものが、秘密を解く鍵なのではないか。だとすれば、尋ねる相手はひとりしかいない。美月は古文書を胸に抱き、空を見上げた。今夜、月が出れば、もう一度あの時代へ戻れるかもしれない。そして正成に尋ねよう。
少年時代の観心寺で、何か不思議な出来事がなかったか。月の光に関わる記憶が残っていないか。ただ、美月にはひとつだけ恐れていることがあった。もし、この古文書が本当に正成の運命を変える手がかりだったとして、その道を開くことが、別の誰かの命を奪う結果につながったらどうなるのか。歴史を変えるということは、ただひとりを救うことでは済まないのかもしれない。それでも、何もせずに正成の死を待つことだけはできなかった。
その夜、月が昇るのを待ち続けた美月は、ようやく雲の切れ間から光が差し込んだとき、古文書の紙片を握りしめた。水面に月影が揺れ始める。美月は古文書の一節を唱え、光の輪が広がるのを待って歩み寄った。やがて景色が変わり、懐かしい河内の夜が戻ってきた。屋敷の庭には、正成がいた。
「美月殿」
その声を聞いた瞬間、美月は胸が熱くなった。正成は彼女の様子がいつもと違うことに気づいたらしく、静かに問いかけた。
「いかがなされた。そのように息を切らして」
美月はすぐには答えられなかった。目の前にいるこの人が、やがて湊川で命を落とす。そう考えただけで、握りしめた紙片が震えた。
「正成様。どうしても、お聞きしたいことがあるんです」
「何でござろう」
「幼い頃、観心寺で修行されていましたよね」
正成の表情がわずかに変わった。
「いかにも。観心寺には、幼き頃より深い縁がある。それが何か」
美月は紙片を差し出した。
「これを見てください。祖父が残した古文書の中から見つけたものです」
正成は受け取ると、月明かりの下で文字を確かめた。しばらくして、その指が止まった。
「……これは」
正成の声が低くなった。美月は息をのんだ。
「何か、ご存じなんですか」
正成はすぐには答えなかった。何度も紙片に目を走らせ、やがて遠い記憶をたどるように目を閉じた。
「この言葉……確かに、聞き覚えがある」
「どこでですか」
「観心寺じゃ。まだわしが幼かった頃、ある僧から聞かされた言葉に似ておる」
美月の胸が大きく高鳴った。
「その方は、何とおっしゃったんですか」
正成は月を見上げた。
「人には、天より授かる命がある。されど、その命の終わりが、必ずしも人の知る終わりとは限らぬ……と」
美月は言葉を失った。正成は静かに続けた。
「当時は、その意味など分からなんだ。ただ、その僧は最後に、妙なことを申された」
「妙なこと?」
「いつの日か、遠き世より月の名を持つ者が現れたならば、その者の言葉に耳を傾けよ、と」
美月の手から、紙片が滑り落ちそうになった。月の名を持つ者。美月。正成もまた、そのことに気づいたらしかった。二人はしばらく、互いの顔を見つめた。夜風が庭を渡り、水面の月影を揺らした。
「美月殿」
正成はゆっくりと言った。
「そなたがわしの前に現れたのは、果たして偶然なのであろうか」
美月には答えられなかった。けれども、ひとつだけ確かなことがあった。祖父の古文書に隠されていた言葉と、正成の少年時代の記憶が、七百年近い時を超えて結びついたのである。それが何を意味するのか、まだ誰にも分からない。ただ、美月は、探し続けてきた道の手掛かりが、正成の幼い日の記憶にも残されているのかもしれないと思った。そして、その道を探し出すのは、ほかの誰でもない。自分なのだ。




