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第三十七章 京をめぐる攻防

 建武三年正月、足利尊氏の軍勢は東海道を西へ進み、京へと迫っていた。箱根・竹ノ下で新田義貞の軍勢を破った勢いは衰えず、道中では足利方に加わる武士たちも増えていた。かつて鎌倉幕府を倒すために結集した武士たちは、今や朝廷を守る者と尊氏に従う者に分かれ、互いに刀を交えようとしていた。


 都では、後醍醐天皇のもとに各地から戦況が伝えられていた。東国から退いた新田義貞は軍勢を立て直し、朝廷に従う諸将も京の守りを固めていたが、足利軍の勢いを前に、都の人々の不安は日ごとに強まっていた。市では食糧を買い求める者が増え、街道には家財を背負って避難する家族の姿も見られた。河内にいた楠木正成にも、出陣の命が届いた。


 正成は弟の正季とともに兵を整え、京へ向かう支度を始めた。すでに戦の行方を歴史書で知っている正成にとって、尊氏の西上は予期していた出来事だった。しかし、実際に武具を身につけ、兵たちの顔を見渡すと、書物に記された戦いと、今ここにいる人々の命の重さは、決して同じものではなかった。


「兄上、出立の支度が整いました」


 正季が声をかけた。


「うむ。皆に伝えよ。京へ入るまでは無用な争いを避け、道中の村々から勝手に物を奪うことは許さぬ」


「承知いたしました」


 正季はすぐに兵たちへ命を伝えた。正成は庭に並ぶ者たちを見渡し、出立を告げた。兵の中には、赤坂や千早でともに戦った者もいた。彼らは再び正成のもとに集まり、朝廷を守るために戦場へ向かおうとしていた。美月は屋敷の門まで見送りに出た。


「正成様」


 呼びかけると、正成は足を止めた。


「必ず戻ってきてください」


 正成は静かにうなずいた。


「戻るつもりだ。そなたも無理をせず、ここで待っていてくれ」


 美月はそれ以上、何も言わなかった。正成がこれから向かう戦場について、彼女も歴史書で知っていた。今はまだ湊川ではない。だが、京をめぐる戦いが繰り返されるたびに、その日が近づいてくることも分かっていた。正成は馬に乗り、正季とともに兵を率いて出立した。やがて足利軍は京へ迫り、朝廷方との戦闘が始まった。都の周辺では幾度も軍勢がぶつかり、戦況は目まぐるしく変わった。尊氏は一時、京を制圧したものの、朝廷方もただ退いたわけではなかった。


 比叡山に退いた後醍醐天皇のもとには、なお多くの武士たちが集まっていた。新田義貞も兵を立て直し、さらに陸奥からは北畠顕家が軍勢を率いて西へ向かっていた。顕家は若くして陸奥守として東国の統治を担い、父の北畠親房とともに後醍醐天皇を支えてきた武将である。奥州から長い道のりを進んできたその軍勢は、足利軍にとって新たな脅威となった。京の北方に陣を置いた正成は、諸将から届く報告をもとに敵の動きを確かめていた。


「北畠殿の軍勢が近づいております」


 正季が伝えると、正成は地図に目を落とした。


「顕家殿が来られるか。ならば、今こそ力を合わせる時だ」


「足利勢は都の各所に兵を置いております。正面から攻めれば、こちらにも大きな損害が出ましょう」


「うむ。敵を一か所に集めず、退く道を断つことも考えねばならぬ」


 正成は諸将と相談し、朝廷方の軍勢が互いに連携できるよう、使者を走らせた。新田義貞、北畠顕家、楠木正成。それぞれ異なる戦場で戦ってきた武将たちが、尊氏を都から退けるために動き始めた。正月末、京の周辺で大きな戦いが起こった。朝廷方は各方面から足利軍に迫り、尊氏の軍勢は次第に押し戻されていった。市街地へ近づくにつれ、兵たちの動きは制限され、狭い道では騎馬の勢いを十分に生かすこともできなかった。屋根の上から矢が飛び、通りには盾を構えた兵が並んだ。


 正季は兵を率いて敵の一隊を押し返し、正成は全体の動きを見ながら、味方が突出しすぎないよう指示を出した。


「追いすぎるな。敵が退いた道に伏兵がいるやもしれぬ」


 正成の命が伝わると、先へ進もうとしていた兵たちは足を止めた。勝利を急ぐあまり隊列を崩せば、わずかな反撃で大きな損害を受ける。正成はそのことをよく知っていた。戦いは激しさを増し、足利軍はついに京を維持することが難しくなった。尊氏は諸将を集め、退却を決断した。


「このまま都にとどまれば、兵を失うばかりだ」


 直義は悔しさをにじませながらも、兄の判断に従った。


「西へ退き、軍勢を立て直しましょう」


「うむ。戦はここで終わりではない」


 足利軍は京を離れ、西へ向かって退き始めた。朝廷方の陣には、尊氏が退いたとの知らせが届いた。兵たちの間には歓声が上がり、長く緊張の続いていた都にも、わずかな安堵が広がった。しかし、正成はその知らせを聞いても、容易には喜ばなかった。


「兄上、足利勢は退きました」


 正季が報告した。


「うむ。だが、尊氏殿はこれで諦めるお方ではない」


「追撃いたしますか」


「朝廷の御命令に従う。ただし、退く敵を追う時ほど、味方の損害にも気を配らねばならぬ」


 正成は地図の西方を見た。尊氏がこのまま西へ退けば、やがて九州へ渡る。そして再び大軍を率いて東へ進むことになる。歴史書に記されていたその流れが、今まさに現実となろうとしていた。正成は未来を知っていた。しかし、知っている未来をそのまま受け入れるつもりはなかった。彼が守ろうとしているのは、歴史の記述ではない。後醍醐天皇への忠義であり、ともに戦う兵たちの命であり、戦乱の中で暮らす人々の明日だった。正季が兄の横に立った。


「兄上、次はどこへ向かいますか」


「西だ。尊氏殿の動きを見極めねばならぬ」


 正成はそう答えると、諸将へ次の備えを命じた。都をめぐる最初の大きな攻防は、朝廷方の勝利に終わった。しかし、足利尊氏の力が失われたわけではない。西国にはなお多くの武士がおり、尊氏が再び兵を集めれば、戦乱はさらに大きく広がることになる。そして、その先には、正成がすでに知っている湊川の戦いが待っていた。

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