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第三十六章 箱根・竹ノ下の戦い

 建武二年十一月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞は、足利尊氏を討つため、軍勢を率いて京を発った。かつて鎌倉幕府を滅ぼした義貞が、今度はともに幕府打倒を成し遂げた尊氏と戦う。わずか二年余りの間に、武士たちを取り巻く情勢は大きく変わっていた。朝廷の政治に不満を抱く者、足利のもとに新しい武家の政を望む者、後醍醐天皇への忠義を貫こうとする者。それぞれの思惑が交錯する中、東海道には再び軍勢の足音が響き始めた。


 義貞の率いる朝廷軍は、東へ進みながら各地の足利勢と戦った。三河で敵を退け、駿河へ入ると、手越河原で足利直義の軍勢と激突した。直義は尊氏の弟であり、兄に代わって軍事と政務を支えてきた武将である。鎌倉を守り、東国の武士たちを束ねる役割を担っていたが、この戦いでは新田軍の勢いを抑えることができなかった。十二月五日、手越河原で直義軍は敗れた。


 義貞は敗走する敵を追い、伊豆へと軍を進めた。鎌倉への道は、もはや遠くない。朝廷軍の将兵たちの間には、尊氏を討つことも決して不可能ではないという空気が広がっていた。しかし、義貞自身は容易に勝利を確信しなかった。


「足利の兵は、まだ尽きておらぬ」


 諸将を集めた席で、義貞はそう告げた。


「直義を退けたとはいえ、尊氏は鎌倉におる。あの男が自ら兵を率いて出てくれば、戦の様相は変わろう」


 弟の脇屋義助は、その言葉にうなずいた。


「兄上、箱根の山道は狭く、兵を動かすにも難儀いたします。敵が地の利を得れば、こちらの兵が多くとも油断はできませぬ」


「うむ。進むべき道を誤れば、勝ってきた戦も一度に失う」


 義貞は地図を見つめた。箱根と足柄の山々は、東国へ向かう軍勢にとって避けて通れぬ要地である。そこを押さえれば鎌倉への道が開けるが、敵に先を占められれば、進軍する側が不利になる。義貞は諸将に警戒を命じ、軍勢を整えた。


 一方、鎌倉では直義敗北の報が尊氏に届いていた。尊氏は報告を聞き終えると、すぐに軍議を開いた。居並ぶ武士たちの顔には緊張が浮かんでいたが、尊氏は声を荒らげることなく、東海道の地図を広げた。


「新田殿は、手越河原で直義を破ったか」


「はい。このままでは箱根を越え、鎌倉へ迫るものと存じます」


 尊氏はしばらく考えた。新田義貞の武勇を知らぬわけではなかった。鎌倉幕府を滅ぼしたとき、義貞がどれほどの働きをしたかは、誰もが認めるところである。朝廷軍の先頭に立つ義貞を退けなければ、足利に従う武士たちの結束も揺らぎかねなかった。


「わしが出よう」


 その一言に、諸将は一斉に顔を上げた。


「直義には箱根を守らせる。わしは竹ノ下へ向かう。新田の軍勢を二つの道に分け、山中で迎え撃つ」


 尊氏はすでに決断していた。朝廷との対立を避けるために鎌倉へとどまっていた時は過ぎた。義貞の軍勢を破り、足利に従う武士たちの力を示さねばならない。尊氏の出陣が決まると、鎌倉の町は慌ただしくなった。馬が引き出され、兵糧が運ばれ、各地から集まった武士たちが隊列を整えた。足利の旗が冬の風にはためき、軍勢は箱根・足柄の山々へ向かって進み始めた。十二月、両軍は箱根と竹ノ下を挟んで対峙した。


 新田義貞は箱根方面に向かい、尊良親王を奉じる脇屋義助らの軍勢は竹ノ下方面へ進んだ。これに対し、足利直義は箱根の要害を守り、尊氏は竹ノ下へ兵を進めた。冬の山々には冷たい風が吹き、兵たちの吐く息が白く浮かんだ。木々の間には霜が残り、狭い道を進む馬の蹄が凍った土を踏みしめていた。やがて、竹ノ下方面で戦いが始まった。


 両軍の先陣がぶつかると、山あいには鬨の声が響き渡った。槍を構えた兵たちが押し寄せ、弓兵は高所から矢を放った。狭い道では大軍を一度に動かすことができず、前へ出た者が倒れても、後ろの兵は容易に退くことができなかった。脇屋義助の軍勢も激しく応戦した。義助は兵を励まし、敵の進撃を食い止めようとしたが、戦場では思わぬ事態が起こった。朝廷軍に加わっていた大友貞載らが、足利方へ寝返ったのである。


 味方と信じていた軍勢が突然敵に回ったことで、竹ノ下方面の陣は大きく乱れた。前方では尊氏の軍勢が攻め寄せ、側面からは寝返った兵たちが迫る。どこを守り、どこへ退くべきか、将兵たちは判断を迫られた。


「陣を崩すな!親王様をお守りせよ!」


 義助の声が響いた。しかし、いったん生じた混乱は容易に収まらなかった。敵味方が入り乱れる中、朝廷軍の兵たちは次第に押し戻され、ついに竹ノ下方面の軍勢は敗れた。その知らせは、箱根で直義軍と対峙していた義貞のもとにも届いた。


「竹ノ下の味方が敗れました!」


 伝令の声に、義貞は振り向いた。


「何だと」


「大友らが足利方へ寝返り、義助様の軍勢は退いております。このままでは、尊氏の兵がこちらの背後へ回る恐れがございます」


 義貞は険しい表情で山道を見た。箱根の正面には直義軍がいる。竹ノ下の味方が崩れれば、尊氏の軍勢が別の道から迫ることになる。敵を押し破って鎌倉へ進むつもりであった朝廷軍は、逆に退路を脅かされる立場となっていた。


「全軍を退かせよ」


 義貞は命じた。


「ここで兵を失えば、都を守る者がいなくなる。退きながら陣を立て直す」


 勝利を重ねて東へ進んできた朝廷軍は、ここに至って西への退却を余儀なくされた。しかし、足利軍の追撃は激しかった。山道を下り、平地へ出ても、義貞の軍勢には休む間がなかった。退却の途中にも戦いが続き、兵たちは疲れ果て、隊列は次第に乱れていった。昨日まで同じ陣にいた者の姿が見えず、傷を負った仲間を支えながら歩く兵もいた。義貞はその光景を見つめながら、敗北の重さを噛みしめていた。


 鎌倉幕府を滅ぼしたとき、自分は多くの武士を率いて進んだ。その力を、今度は朝廷を守るために用いようとした。だが、武士たちの心は一つではなく、戦の勝敗は勇猛さだけで決まるものでもなかった。義貞は馬上から振り返った。遠くに見える山々の向こうには、足利尊氏の軍勢がいた。


「尊氏……」


 その名を口にした義貞の表情には、怒りよりも深い悔しさがにじんでいた。かつて同じ敵を討った者が、今は朝廷に刃を向けている。そして、自分はその進撃を止められなかった。義貞は手綱を握り直した。


「都へ戻る。まだ戦は終わっておらぬ」


 その命令に従い、朝廷軍は西へと退いていった。箱根・竹ノ下で勝利を収めた尊氏は、直義と合流すると、諸将を集めた。


「新田の軍勢は退きました」


 報告を聞いた尊氏は、しばらく地図を見つめていた。鎌倉を守るという当初の目的は果たされた。しかし、朝廷が再び討伐軍を送ってくる可能性は残っている。ここで東国へ引き返しても、後醍醐天皇との対立が解けるわけではなかった。


「京へ向かう」


 尊氏の言葉に、直義が顔を上げた。


「兄上、よろしいのですか」


「ここまで来た以上、鎌倉に戻って待つことはできぬ。朝廷が我らを討とうとするならば、京へ進み、我らの立場を明らかにするほかあるまい」


 直義は深くうなずいた。足利軍は西へ向かって進撃を始めた。各地の武士たちはその動きを見て、朝廷に従うか、足利に味方するかの選択を迫られることになった。戦は、もはや東国だけのものではなくなっていた。河内の正成のもとにも、箱根・竹ノ下での敗北と、尊氏の西上を知らせる報告が届いた。正成は使者の言葉を聞き終えると、机の上に広げていた地図へ目を落とした。東海道を西へ進む足利軍の道筋は、やがて京へとつながっている。


「義貞殿が敗れたか」


 正季が言った。


「うむ。尊氏殿は、この勝利をもって西へ進まれるであろう」


「では、都が戦場となりますな」


 正成はうなずいた。美月とともに現代で読んだ歴史書には、これから京をめぐって幾度も戦いが起こることが記されていた。足利尊氏は一度は都へ入り、やがて朝廷方に敗れて西国へ退く。そして再び勢力を盛り返し、東へ向かって進軍する。その先に待つのが、湊川の戦いだった。正成は、そこまでの道筋を知っていた。だが、知っているからといって、今起こっている戦を止められるわけではない。


「正季、兵の支度はどうだ」


「いつでも動けます」


「ならば、朝廷からの命に備えよ。尊氏殿が京へ進まれる以上、我らも戦場へ向かわねばなるまい」


 正季は兄の顔を見つめた。


「兄上は、これからの戦をどうご覧になりますか」


 正成はすぐには答えなかった。やがて、地図の上に置いていた手を静かに引いた。


「勝たねばならぬ戦がある。しかし、勝つことだけを考えていては、守るべきものを見失う」


 それだけを言うと、正成は立ち上がった。屋敷の外では、兵たちが馬を引き出し、武具を運び始めていた。遠くの山々には冬の雲がかかり、風は一段と冷たさを増していた。やがて朝廷から正式な命が届けば、正成もまた京へ向かうことになる。箱根・竹ノ下の敗北によって、足利尊氏の進撃を阻むものは少なくなった。朝廷は都を守るため、新たな軍勢を集めねばならない。戦乱の舞台は、東国から京の都へ移ろうとしていた。


 そして、その戦いの中で楠木正成もまた、歴史に刻まれた運命へと近づいていくのである。

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