第三十五章 二つの道
建武二年の秋、鎌倉から届く知らせは、日に日に穏やかさを失っていった。都から届いた報告の中に、宗久の消息を知らせる書状があった。傷を悪くして近郊の寺に潜んでいたところを、兼重の配下が見つけたという。正成は美月を呼び、彼が語ったことを伝えた。
「屋敷の外に、追手の仲間がおるのを見たそうじゃ。寝所まで知られたと思い、裏口から逃げた。わしらに知らせれば使いを出した者まで捕らえられると脅され、誰にも相談できなんだという」
宗久が足利の者に渡すなと念を押したのは、追手が尊氏の名を使って人を集めていると知っていたからだった。盗まれた書状は、その仲間の一人が争いの企てを恐れ、正成へ託したものだったのである。
東寺で捕らえた男は手当ての後に意識を取り戻し、金を受け取って宗久を追い、清吉に屋敷の内情を聞いたことを認めた。その供述を手掛かりに家臣たちが寺の借り部屋を調べると、盗まれた書状と、人集めのために書かれた文面が見つかった。書状にあった取りまとめ役の名は、所領を失った播磨の武士のものだった。尊氏の後ろ盾があると称していたが、その命を受けた証しはなく、仲間もすでに散り始めていた。
「尊氏殿の名を使えば、不満を持つ者が集まると思うたのであろう。だが、この一件だけで、あの方ご自身の考えまで決めつけることはできぬ」
正成は回収された書状を畳み、宗久を療養させた後、安全な道で播磨へ送るよう命じた。捕らえた者たちは京の役人へ引き渡され、清吉は母のいる寺で、薬代を得るための仕事を始めているという。
報告には清吉の短い伝言も添えられていた。「月の使い」とは、井戸端で美月に見つけてもらうため、彼女の名から取った言葉だった。大きな争いに通じる暗号ではなく、追い詰められた少年の呼びかけだったのだ。美月は手帳のその言葉の脇に、母子の無事を書き添えた。
北条時行が起こした中先代の乱を鎮めた足利尊氏は、そのまま鎌倉にとどまっていた。朝廷の許しを待たずに東国へ兵を進めたことだけでも、都では少なからぬ疑念を招いていたが、さらに尊氏のもとには、戦功に報いるための恩賞を求める武士たちが次々と集まっていた。かつて鎌倉幕府を倒すためにともに戦った者たちが、今度は新しい世のあり方をめぐって対立し始めていたのである。
鎌倉の足利邸では、尊氏が広げられた東国の絵図を見つめていた。その傍らには弟の直義が控え、周囲には諸国から集まった武士たちが顔をそろえていた。
「兄上、いつまでも朝廷の沙汰を待っていては、我らに従った者たちの信頼を失います」
直義の言葉に、尊氏は顔を上げた。
「帝の御意向を軽んじるつもりはない。しかし、今ここで我らが退けば、鎌倉を取り戻すために命を懸けた者たちは、何を頼りに生きればよいのか」
「それこそが、今お決めにならねばならぬことです」
直義は絵図の上に手を置いた。
「武士たちは、兄上を頼っております。朝廷の裁きを待つだけでは、彼らの所領も暮らしも守れませぬ。新しい武家の政を築くには、今こそ兄上が立たねばなりません」
尊氏はすぐには答えなかった。後醍醐天皇が目指すのは、天皇を中心とする新しい政治であった。鎌倉幕府の支配を終わらせ、朝廷の権威を取り戻すという志そのものに、尊氏も異を唱えていたわけではない。だが、戦場で命を懸けてきた武士たちには、武士たちなりの望みがある。恩賞を求め、所領を守り、一族を養おうとする者たちを束ねるには、朝廷の命令に従うだけでは足りないと感じていた。そのとき、部屋の隅に控えていた武士が口を開いた。
「楠木殿からの書状については、いかがなさいますか」
尊氏の視線が、机の端に置かれた一通の書状へ向いた。河内で起きた所領争いについて、正成が事の経緯を知らせてきたものだった。村人を救うために兵を動かしたことを隠さず、争いに関わった双方の言い分を確かめ、公正な裁きを求める内容である。尊氏は、その書状を一度ならず読み返していた。
「正成殿らしい」
短くそう言うと、尊氏は書状を伏せた。
「正成殿は、今も道理を重んじておられるのでしょう。しかし、道理だけで武士の世を治めることはできませぬ」
直義が言った。
「分かっておる」
「では、返書は」
尊氏はしばらく沈黙した。正成とは、同じ敵を相手に戦った。赤坂や千早で幕府の大軍を苦しめたあの男がいなければ、鎌倉幕府の滅亡はさらに遠のいていたかもしれない。武勇だけでなく、人として信じる道を曲げないところにも、尊氏は敬意を抱いていた。しかし、その正成が守ろうとするものと、自分が守らねばならないものは、もはや同じではなかった。
「返事は出さぬ」
尊氏の言葉に、部屋の空気が変わった。
「正成殿に、これ以上言葉を重ねても仕方あるまい。わしは、わしを頼って集まった武士たちを見捨てることはできぬ」
直義は深く頭を下げた。尊氏は立ち上がり、庭の向こうに広がる空を見た。かつてともに幕府を倒した武士たちが、今度は自分の前に立ちはだかるかもしれない。そのことを知らぬほど、尊氏は世の動きに疎くなかった。
「直義。諸将を集めよ。もはや、鎌倉にとどまって待つだけでは済まぬ」
その声には、迷いを断ち切ろうとする響きがあった。足利尊氏は、武士たちを率いて自らの道を進むことを決めたのである。やがて、その動きは京にも伝わった。後醍醐天皇の御前には、東国からの報告を携えた公卿たちが集まっていた。鎌倉での尊氏の振る舞い、朝廷の許しを得ない恩賞の処置、武士たちの結集。報告が重なるにつれ、もはや一時の行き違いでは済まされないことが明らかになっていった。
「尊氏は、朕の命に背くつもりか」
帝の声に、居並ぶ者たちは頭を垂れた。
「恐れながら、東国の武士たちは足利殿のもとに集まり、朝廷の御沙汰を待たずに動いております。このままでは、再び武家が政を握ることにもなりかねませぬ」
後醍醐天皇は、厳しい表情でその言葉を聞いていた。長い年月をかけて鎌倉幕府を倒し、ようやく取り戻した親政である。その政を再び武家に奪われることだけは、断じて認めるわけにはいかなかった。
「新田義貞を召せ」
御前に緊張が走った。
「尊氏が朝廷に背き、兵を集めるというのであれば、これを討たねばならぬ。義貞に東国への出陣を命ずる」
こうして朝廷は、足利尊氏を討つために兵を動かすことを決めた。かつて鎌倉幕府を滅ぼした武士たちが、今度は互いに敵として戦場へ向かう。建武の新政を支えていた結びつきは、ついに大きく裂け始めたのである。正成は、村の救援と所領争いの調べを続けながら、河内にとどまっていた。都の家臣とは使者を往復させ、朝廷の動きも確かめていたが、返書を待つ間に季節は深まっていった。討伐の知らせが届いたのは、冷たい風が山々を渡る頃だった。
正成は使者からの報告を聞き終えると、すぐに正季を呼んだ。弟が書院に入ると、机の上には東国の地図が広げられていた。
「兄上、尊氏殿がついに……」
「うむ。帝は義貞殿に討伐を命じられた」
正季は唇を引き結んだ。
「では、もはや戦は避けられませぬな」
「そうであろう」
正成は地図の上に目を落とした。美月とともに訪れた現代で、『太平記』や数々の歴史書を読んだときのことが、鮮やかによみがえった。中先代の乱、尊氏の離反、箱根・竹ノ下の戦い。そして、都をめぐる幾度もの攻防の果てに待つ湊川の戦い。そこには、自分の最期までもが記されていた。だが、正成が今見つめているのは、自分の死だけではなかった。これから戦場へ向かう者たちの顔が、次々と思い浮かんでいたのである。
「兄上」
正季の声に、正成は顔を上げた。
「何をお考えですか」
「これから先、どれほど多くの命が失われるのかと思うてな」
「戦になれば、犠牲は避けられませぬ」
「分かっておる。だが、避けられぬからといって、減らすことまで諦めてよいわけではあるまい」
正季は兄を見つめた。
「兄上は、まだ尊氏殿と話し合う道をお探しなのですか」
正成は首を横に振った。
「もはや、言葉だけで止められる時は過ぎた。尊氏殿は、自らの道を選ばれたのだ。わしもまた、選ばねばならぬ」
「帝にお仕えする道を、でございますな」
「それは初めから変わらぬ」
正成は静かに答えた。
「わしが恐れておるのは、帝への忠義を尽くすことではない。忠義の名のもとに、守るべき人々の暮らしまで失われてゆくことだ」
正季は何も言わなかった。兄が朝廷への忠義を曲げることはない。それは誰よりもよく知っている。しかし、その忠義が兄をどこへ導くのかを思うと、胸の奥に言い知れぬ不安が生じた。
その日の夕刻、正成は兵たちを集めた。屋敷の庭には、長く仕えてきた者も、まだ若い者もいた。村人を救い出した夜に傷を負った兵も、手当てを終えて列の端に立っていた。正成は一人ひとりの顔を見渡してから、口を開いた。
「東国にて、足利尊氏殿が朝廷と袂を分かたれた。帝は新田義貞殿に討伐を命じられた。これより世は、再び大きく動くであろう」
庭にざわめきが広がった。
「我らもまた、いつ出陣の命を受けるか分からぬ。だが、皆に伝えておきたいことがある」
正成は一度言葉を切った。
「我らが刀を取るのは、己の富を増やすためでも、他人の土地を奪うためでもない。帝への忠義を尽くし、この国に生きる人々を守るためだ。そのことを、決して忘れるな」
兵たちは深く頭を下げた。正成は正季へ目を向けた。弟は兄の視線を受け止め、力強くうなずいた。戦支度が始まった。武具を改め、馬を確かめ、兵糧を数える者たちの声が屋敷に響いた。長く続いていた静かな日々が、音を立てて終わろうとしていた。美月は、その様子を廊下から見つめていた。彼女には、これから起こる戦いの名が分かっていた。どこで誰が勝ち、誰が敗れ、どのような道をたどって湊川へ至るのかも、歴史書を通して知っている。
しかし、目の前で武具を整えている者たちは、書物に記された名前ではない。笑い、怒り、家族を思い、明日を生きようとしている人間だった。正成が廊下へ上がってくると、美月は温かい茶を差し出した。
「いよいよ、始まるのですね」
「うむ」
「正成様は、これから何が起こるのか、ご存じなのですよね」
「書物に記されたことは覚えておる。だが、それを知っているからといって、何もせずに待つつもりはない」
正成は茶碗を受け取り、しばらく庭を眺めていた。
「美月。わしは現代で、七百年後の日本を見た。あの世にも争いはあったが、人々はそれぞれの暮らしを営み、子供たちは笑っておった。わしらが生きるこの時代にも、いつかそのような世が来るのだと思えば、今ここで諦めるわけにはいかぬ」
「でも、正成様のお命は……」
美月はそこで言葉を止めた。正成は彼女の方へ向き直った。
「わしは、自ら死を望んで戦うのではない。生きて、果たすべき務めを果たしたい。正行にも、正季にも、生きていてほしい。そなたとともに未来を見た今、その思いは以前より強くなっておる」
美月の目に涙が浮かんだ。
「それなら、どうか約束してください。歴史に書かれているからといって、ご自分の命を諦めないでください」
正成は茶碗を置き、静かにうなずいた。
「約束しよう」
その言葉を聞いても、美月の不安が消えたわけではなかった。それでも、歴史の結末を知る二人が、争いの深まる今も、別の未来へつながる道を探し続けている。そのことだけは、確かだった。夜が更ける頃、東国から新たな知らせが届いた。尊氏の軍勢が動き始めたという。新田義貞の率いる朝廷軍も、すでに東へ向かっていた。やがて両軍は、箱根の山々を挟んで激突することになる。正成はその知らせを聞き、ゆっくりと立ち上がった。
「正季、支度を急がせよ。戦は、もう始まっておる」
弟は力強く応じた。庭には冷たい風が吹き、雲の切れ間から月が姿を現していた。かつて同じ志を抱いて戦った二人の武将は、ついに異なる道を選んだ。そして、その決断が日本を再び大きな戦乱へと導こうとしていた。
ジンさん、第三十五章「二つの道」は、保存されている正式確定稿から全文を変更せずに再掲しました。『小説家になろう』への投稿に使えます。




