第三十四章 書状の行方
夜の騒ぎが収まったあとも、屋敷には人の声が絶えなかった。寺から運ばれた者たちには寝所があてがわれ、負傷した者には手当てが続けられていた。正成は書院へ戻る前に廊下を一巡し、まだ眠れずにいる村人に声をかけた。今朝、息子と再会した老女は、その傍らでようやく目を閉じていた。書院では兼重が紙を揃えて待っていた。村へ入った時刻、相手方との応酬、寺の裏から人々を逃がした経緯、双方の負傷者の数。正成は記録を一つずつ確かめ、書き落としがあれば尋ねた。
「こちらの兵が刃を振るったことも、隠してはならぬ」
「承知しております。ただ、向こうが先に弓を放ったことは、はっきり記しておきます」
「それも事実だ。だが、どちらが先であったかだけを争えば、寺へ逃げた者たちのことが置き去りになる」
兼重は筆を止め、正成を見た。正成は傷の残る手を開き、ゆっくり握り直した。
「尊氏殿には、村の者が何を失ったかを知っていただきたい。所領の裁きは、そのうえでなされるべきだ」
やがて正季が戻ってきた。焼けた家の数と、まだ行方の知れぬ者がいることを伝えると、兄はしばらく黙って聞いていた。救い出した人々の顔が浮かんだのだろう。正成は紙の端に新たな名を書き加えるよう兼重に命じ、村へ食糧と人手を送る手配をした。
「兄上。相手方は、足利殿の名を出しております。こちらの書状が届く前に、先方の訴えが通るやもしれませぬ」
「それゆえ急ぐ。だが、急いで偽りを書いてはならぬ」
正季は頷いたものの、表情は晴れなかった。正成には、その理由が分かっていた。尊氏自身がどのような返事を寄越すかだけではない。尊氏のもとに集まる武士たちが、皆同じ道理に従うとは限らないのだ。美月が茶を運んできたのは、二人の話が途切れた頃だった。正季は礼を言って席を外し、書院には正成と美月だけが残った。正成は茶碗に手を伸ばしたが、すぐには飲まず、机に置いた書状を見つめていた。
「現代で見た書物には、この先、足利殿と朝廷の間に起こる争いが記されておった」
美月は黙って頷いた。正成はすでに『太平記』も歴史書も読み、湊川の戦いで自分が命を落とすと伝えられていること、さらに年月を経て正行が四條畷で戦うことまで知っている。今さら未来の戦を知らせる必要はなかった。
「書かれていたことを、わしは忘れておらぬ。だが、目の前の人を見捨てれば、書物に記された未来より先に、わし自身の道を失う」
「分かっています。だから、昨夜も止められませんでした」
「そなたは、わしを案じてくれておるのだな」
「正成様だけではありません。正季様も、正行様も。皆さんが生きている今を知ってしまったら、歴史の一行として割り切ることなんてできません」
正成は初めて茶を口にした。温かさが喉を通っても、胸の内の重さは消えなかった。自分が知った未来を弟や息子にどこまで話すべきか、その答えはまだ見つからない。ただ、未来を知ったことで今日の判断を誤ることだけは避けたかった。
「美月。歴史に記された道が一つであっても、人が今日なすべきことまで、書物が決めてくれるわけではあるまい」
美月は正成の横顔を見た。そこには未来を知らぬ者の無邪気さはなかった。知ってなお、今ここで苦しむ者を見捨てまいとする覚悟があった。書状を整え終えた頃には、朝の光が庭いっぱいに広がっていた。使者がそれを携えて出立すると、正成は門まで見送り、その姿が道の曲がり角に消えるまで立っていた。返事がいつ届くかは分からない。届いたとしても、望む答えが得られるとは限らなかった。背後から足音がした。振り向くと、正季が立っていた。
「兄上、村へ向かう者たちの支度が整いました」
「うむ。わしも行こう」
「昨夜からお休みになっておらぬでしょう。今日は私にお任せください」
正成は弟の顔を見て、しばらく考えた末に頷いた。
「では頼む。焼けた家の跡を見て、足りぬものを確かめてきてくれ」
「承知いたしました」
正季が去ると、正成は門を離れ、屋敷の奥へ歩き始めた。まだすべきことは山ほどある。それでも、昨夜助けた人々が今日を生き延びられるようにすることが、今の自分にできる最初の務めだった。尊氏からの返書は、まだ届かなかった。
ジンさん、第三十四章は以上だよ。次は**第三十五章「二つの道」**を出せるよ。




