第三十三章 夜の坂道
村へ近づくにつれて、湿った夜気に焦げた匂いが混じり始めた。正成は道の曲がり角で馬を止め、先へ出していた者が戻るのを待った。畑の向こうでは屋根の一部がまだ燃え、火の明かりを背にした人影が、寺へ続く道を行き来している。家々から逃げ出した者の姿はなく、ときおり犬の鳴き声だけが聞こえた。
戻ってきた兵の話では、寺の門は閉じられ、その前に十人ほどが集まっていた。ほかの者は村に散っているらしい。正成は近くの納屋の陰へ兵を寄せ、道から見える人数を抑えたうえで、正季からの知らせを待った。すぐに押し寄せれば敵は寺へ逃げ込もうとするかもしれず、門の内側にいる人々を巻き込まずに済むとは限らなかった。
やがて畑の脇から、一人が身を低くして駆けてきた。正季は東の坂を上がり、寺の裏へ着いたという。板塀の傷んだ所を外せば人を出せるが、坂の途中には足を取られやすい急な折れ曲がりがあり、歩けぬ者を運ぶには時間がかかる。正成はそこへ縄を渡して足場を支えるよう伝え、案内の兵に数人をつけて戻した。
「こちらへ目を向けさせる。裏の者は、合図を待たずに出せ」
正成は馬を下り、盾を持つ者を前へ出した。道幅が狭く、横に広がれるのはわずかな人数だったが、寺と畑の間には低い土塀が続いている。その陰へ弓を持つ兵を伏せ、自分は道の中央を進んだ。門前にいた者が気づき、火を掲げた。誰何する声に、正成は名を告げて足を止めた。
「寺の者を引き取る。道を空けよ」
相手の列にざわめきが起こり、胴を着けた男が前へ出た。正成の後ろへ目を走らせ、見えている兵の数を確かめている。その脇にいた若い者が弓を持ち上げかけたが、男は腕を伸ばして押しとどめた。
「楠木殿が兵をお連れとは、聞いておりませぬ。この土地のことに、そこまでお立ち入りになるおつもりか」
「土地の裁きは今ここではせぬ。村へ手を出さぬという返書は、受け取っておる」
「あれを書いた者は、ここで身内を殺された者の気持ちを知らぬのです」
男の声が強くなると、背後の者たちも口々に何かを叫んだ。正成は聞き取れる言葉を拾いながら、門の上へ目をやった。内側から様子をうかがう顔が見えたが、こちらへ出てこようとする者はいない。まだ、正季が裏から人々を動かしている最中だった。
「ならば、その訴えを持って来るがよい。寺へ逃げた者を斬って、そなたの身内が戻るわけではあるまい」
「先に斬ったのは向こうですぞ。あちらだけをお守りになれば、我らは足利殿に申し立てるほかありませぬ」
「申し立てるなら、今夜ここで何をしたかも伝えよ」
正成は門前へもう一歩進んだ。男が後退り、その背後で弓の弦が鳴った。盾に矢が突き立つ鈍い音がして、正成の脇にいた兵が肩をすくめた。こちらの弓兵も身を起こしかけたが、正成は手を上げて止め、射た者に弓を伏せるよう命じた。返事の代わりに、村の奥から人を呼ぶ声が上がった。火を掲げた者が走ってくる。正成は盾の列を狭め、畑へ回り込まれぬよう端の兵に目を配った。相手が門から離れて道へ集まり始めたことで、寺の裏には動く余地ができていた。
その頃、正季は外した板塀の前で、幼い子を一人ずつ受け取っていた。暗がりから差し出される手は冷え、泣く力もなく母親の首へしがみつく子もいる。先へ行く者に前の人の衣を離さぬよう言い聞かせ、坂の折れ曲がりには兵を立たせた。縄を握った人々は、足元を探りながら少しずつ下りていった。
歩ける者を送り出したあとも、本堂には負傷者と年寄りが残っていた。戸板へ寝かせた男を四人で運び出すと、その奥に、荷物を抱いた老女が座っているのが見えた。声をかけても顔を上げず、隣の女が耳元で何度も呼んでいた。正季は、兄から伝えられた名を口にして老女の前へ膝をついた。老女はようやくこちらを見たものの、差し出された手にはつかまらなかった。
「息子が、迎えにまいりますので」
正季は老女の目を見ながら、傷を負った息子が屋敷で待っていること、その者に頼まれて迎えに来たことを、ゆっくり伝えた。何度か言い直すうちに老女の指が荷物から離れ、今度は正季の袖をつかんだ。
「もう一人は」
問いかけられた正季は、一瞬、口を閉ざした。門の外で怒号が響き、板を打つような音が重なった。老女はその音に気づかず、返事を待っていた。
「まず、待っている息子御のところへ参りましょう」
正季は背を向け、兵に手を添えさせて老女を背負った。肩へ回された腕は細く、力がなかった。荷物を別の者へ渡し、残っている人がいないか本堂と庫裏を確かめさせてから、裏へ向かった。
門前では、正成の兵が押し寄せる相手を盾で受けていた。斬り込んできた一人を槍の柄で押し戻すと、隣から別の刃が伸びた。正成は太刀で受け流して相手の腕を打ち、その体が崩れた隙に、こちらの兵を半歩退かせた。道の奥へ踏み込まず、寺から離れる方向へ少しずつ相手を引いていたが、盾を支える一人が膝をついた。
正成はその襟をつかんで後ろへ引き、空いた所へ別の者を入れた。負傷した兵は脚を押さえて立とうとしたが、正成が肩を押し戻すと、ようやく仲間に体を預けた。土塀の陰へ運ばれる姿を確かめたところへ、東から使いが駆けてきた。
「寺の者は、すべて外へ出ました。坂を下りております」
「こちらも退く。道の端へ寄れ」
正成の命に、盾の列がゆっくり下がった。相手の一人が、寺の裏へ目を向けて叫んだ。畑の向こうには、戸板を担ぐ者たちの影が見えていた。数人が道を外れてそちらへ走ろうとしたため、正成は土塀の陰にいた弓兵を立たせた。
「弓を向けよ」
追おうとした者たちが足を止めた。正成はその間に負傷者を先へ運ばせ、自らは盾の端に残った。逃げる人々と敵の間から離れず、一人が退けば一人が支えるように列を動かしていった。坂の口まで来ると、老女を背負った正季が兵に囲まれて下りてくるのが見えた。泥に足を取られながらも、正季は背の人を揺らさぬよう踏みとどまり、待っていた者へ老女を預けてから兄のもとへ戻った。
「ここは私が受けます。兄上は、先の者を」
正成は弟の息が整っていないのを見て、肩へ手を置いた。
「ともに退くぞ。もう、寺に残る者はおらぬのだな」
「本堂も、庫裏も確かめました」
正成はうなずき、馬を引いて待っていた兵へ合図した。歩けない者を乗せ、子供を抱いた母親をその脇へつかせる。寺へ至る道には、なお火を持った者たちが立っていたが、こちらが弓を構えたまま距離を取ると、追ってはこなかった。
村を離れても、正成はすぐには足を緩めなかった。分かれ道に見張りを残し、負傷者を担ぐ者を交代させ、ようやく空が白み始めた頃、屋敷へ先触れを走らせた。田の向こうから薄い光が差すと、兵の袖や頬に付いた血がはっきり見えた。正成の太刀にも血が残っていたが、拭う布を出しかけたところで戸板の一つが傾き、そのまま手を添えに行った。
美月は門の外で一行を迎えた。先触れが伝えた人数をもとに寝かせる場所を空けてあったが、実際に運び込まれる人々を見ると、用意した部屋が急に狭く思えた。湯を運ぶ者を呼び、子供たちを火のそばへ案内していると、廊下の奥からあの男の声がした。老女は息子の姿を見つけ、支えていた兵の腕から手を離した。男も傷ついた腕をかばいながら近づき、母の肩を抱いた。老女は息子の顔を両手で確かめるように触れ、そのあと門へ目を向けた。男は母の問いを聞く前に顔を伏せ、抱いた肩を離さなかった。
美月は二人のそばへ腰を下ろしかけたが、別の部屋から布を求める声がして立ち上がった。正成は門の内側に立ち、運び込まれる最後の戸板まで見届けていた。近づいて手の傷に気づくと、彼はまだ自分で動かせると言い、美月が持っていた布を戸板の兵へ回させた。
そこへ兼重が、夜のうちに相手方へ出した使いを伴ってきた。正成はすぐに顔を向けたが、使いは喜ばしい返事を持ち帰った様子ではなかった。返書を出した当主は襲撃を命じていないと繰り返しながら、楠木が兵を入れて自分の配下を傷つけた以上、足利家へ事の次第を訴えると言っているという。
「村へ火をかけた者の処分は」
「調べると申すばかりでございました」
兼重が言葉を選ぶ間に、正成は寺から運んできた者たちの方を見た。母を抱いていた男は、まだ同じ場所に座っている。正成は使いへ向き直り、双方の返書を保管すること、村へ着いたときの様子と負傷者の名を記すことを命じた。
「こちらからも、尊氏殿へ知らせる。人づてに違う話が届く前に、わしのしたことを伝えねばならぬ」
兼重が下がると、美月は新しい布を持って戻った。今度は正成も手を差し出した。指の付け根にできた傷を洗う間、彼は廊下に座る人々を見ていたが、やがて書院へ目を向けた。尊氏からの返事を待っていた机に、また紙を広げなければならなかった。美月が布を結び終えると、正成はその手で一度、指を曲げ伸ばしした。




