第三十二章 破られた約束
尊氏へ書状を送ってから幾日もたたぬうちに、西へ通じる道で人が斬られたという知らせが届いた。発端は、米を積んだ馬を通すかどうかという争いだったが、以前から田の境をめぐって対立していた者たちが、片方は朝廷の命を、もう片方は足利家の名を持ち出したことで、騒ぎは周囲へ広がっていた。刀が抜かれ、二人が死ぬと、近隣からも縁者が集まり始め、誰が先に手を出したかを確かめるより早く、道の両側に武装した者が立つようになったという。
正成はその日のうちに双方へ使いを出し、所領の訴えは証文をそろえて改めて取り次ぐので、それまで道を塞がず、互いに兵を退き、村へ手を出さぬよう求めた。口約束だけで済ませず、それぞれの返書を持ち帰らせたうえで、正季にも手勢を率いて現地へ向かわせた。
二日後に戻った正季の衣には、雨と泥の匂いが染みついていた。道は通れるようになり、双方ともひとまず兵を引いたと聞いて、美月はそろえていた紙から顔を上げた。ここ数日、屋敷へ来る者は誰もが険しい顔をしていただけに、ようやく息をつけた気がしたが、正季は差し出された湯に手を伸ばす前に言葉を継いだ。
「ただ、足利家の名を掲げる側で、返書を出した者に従わぬ一団がおります。田を取り戻すまで帰らぬと。今は川向こうにおりますが、見張りは残してまいりました」
正成が人数を尋ねると、三十ほどだが、さらに加勢を呼んでいるかもしれぬという。正成は二通の返書を開き直した。争いを止めるという文言は、美月にも見覚えがあった。受け取ったときには、これで誰かが助かると思った紙だったが、その約束に従わぬ者たちは、今も武器を手に川向こうにいる。
「返書を寄越した者へ伝えよ。従わぬ者がおるなら、己の手で止めてもらわねばならぬ。こちらにも人数と動きを知らせるように」
正成は兼重に命じ、村の者が逃げられる道も確かめておくよう言い添えた。正季は茶を飲み干すと、夜の見張りを交代させるため、再び庭へ下りていった。
その夜、美月が灯に油を足していると、門の方で叫び声が上がり、続いて何かが倒れる音が響いた。廊下へ出たときには、兼重が男を支えてこちらへ連れてきていた。片方の袖が肩から裂け、垂れた腕の先から血が落ちている。男は座る場所を示されても膝を折らず、書院から出てきた正成を見つけるなり、兼重の手を振りほどいた。
「兵を引けと仰せになったのは、あなた様でございましょう。こちらは約束を守りました。道の者を戻し、弓も収めた。それなのに、あいつらは日が落ちてから川を渡ってきたのです」
息を切らしながらの声に、その場にいた者たちの動きが止まった。正成は男の前まで進み、血に濡れた腕へ目をやりながら、村を襲われたのかと尋ねた。
「家に火をかけました。追い払おうと出た者が斬られて……弟も。帰りに母の薬を買うはずでした。昼には、もう道を通れると喜んでおったのです」
男は何かをのみ込むように喉を動かした。美月は手当てのために布を取り寄せたが、近づこうとすると、男はまだ話があるとでもいうように傷のない方の手を上げた。袖から落ちた血が、廊下の板目に沿って細く伸びていった。
「楠木殿が間に入ってくださったのだから、大丈夫だと。私が、弟にそう申しました」
そこまで言った男は、正成を見据えて身を乗り出した。
「あなた様を信じたのですぞ」
兼重が一歩動いたが、正成は手で制し、男の顔から目をそらさなかった。廊下の奥から駆けてきた正季も兄のそばで足を止め、男の荒い息遣いだけが残った。
「弟御のことは、詫びて済むものではない。……今、村には誰が残っておる」
「寺に、年寄りと子供を集めました。動ける者が入口を守っておりますが、矢が足りませぬ。私は助けを求めに……母も、そこにおります」
言い終える前に男の膝が折れ、正成は腕を伸ばして、兼重とともにその体を受け止めた。男が傷の痛みに顔をゆがめると、手当てを受けながらでよいから寺までの道を教えてほしいと告げ、兼重に預けて正季へ向き直った。
「馬を出せ。私も行く」
正季はすぐにうなずいて庭の者を呼び寄せ、厩へ走る足音と、人を集める声が屋敷に広がった。美月が男の腕へ布を当てる間にも、正成はそのそばに膝をつき、寺へ至る道と川の深さ、火の上がった場所を聞き取っていた。東の坂道は馬には難しいが、人ならば通れるという。ただし、寺の裏手は畑で、追われれば身を隠す所がなかった。正成は紙を引き寄せ、男の話に従って道筋を描くと、戻ってきた正季を呼んでその紙を示した。
「そなたは先に東へ回れ。寺の者を坂へ逃がし、歩けぬ者には肩を貸せ。私は道から入る。こちらへ目を向けさせている間に、人を出すのじゃ」
「敵が追ってまいれば」
「坂の口で防げ。逃げる者から離れるな」
正季は道筋を指でたどり、連れていく者を選び始めた。正成も立ち上がろうとしたが、手当てを終えた兼重が進み出たため、その場にとどまった。
「殿がお出になれば、相手は楠木が朝廷方に加勢したと受け取りましょう。仲裁そのものを、こちらの謀であったと言い立てるやもしれませぬ」
正成の手が、脇に置いた太刀の上で止まった。美月にも兼重の懸念は分かった。人を救うために向かっても、楠木の旗の下で刀を抜けば、争いの片方に数えられる。けれども、寺へ逃げた人々は、いつまで持ちこたえられるのだろう。美月の手元では、取り替えたばかりの布に、また血がにじみ始めていた。
「使いは立てる。返書を寄越した者にも、今夜のことを知らせよ。ただし、返事を待ってからでは間に合わぬ」
正成は太刀を取り上げて立った。兼重もしばらくその顔を見つめていたが、やがて深く頭を下げ、供をする者の支度を確かめに出ていった。美月は残った布を重ねて包み、持ち上げてから、もう一束を加えた。何人の傷を押さえることになるのか分からず、これだけでは足りない気がした。水を運ぶよう家人に頼んで正成を追い、戸口で包みを差し出すと、彼は両手で受け取った。
「助かる。こちらにも、傷ついた者が来るかもしれぬ。皆と支度をしておいてくれ」
美月はうなずいたものの、すぐには包みから手を離せなかった。暗い道で待ち伏せされたら、相手が矢を射かけてきたらと思うたびに、聞きたいことが増えていく。それでも正成は、美月が手を離すまで待っていた。彼女は包みの結び目を確かめ直し、そっと指をほどいた。
庭では、正季がすでに馬に乗っていた。灯に照らされた横顔からは、昼に茶を飲んでいたときの疲れが消えている。兄が下りてくるのを見ると手綱を引き、「先に参ります」と声をかけた。正成が「頼むぞ」と応えると、一隊は門を抜けていった。
蹄の音が遠ざかる間に、正成も馬のそばへ進んだが、廊下から呼び止められて足を止めた。傷ついた男が柱につかまり、こちらを見ていた。先ほどの怒りはまだ顔に残っていたものの、今は何かを懸命に伝えようとしていた。
「母は耳が遠うございます。呼んでも、気づかぬかもしれませぬ」
正成は母の名を尋ね、聞き違いがないよう繰り返してから、寺へ着いたら探させると約束した。男は頭を下げかけ、そのままうつむいて動かなくなった。正成は返事を求めずに馬へ乗り、集まった者たちを見渡した。
「寺の者を連れ帰る。逃げる敵を追うな」
手綱が引かれ、馬が歩き出した。美月は門の内側まで見送り、兵たちの間に遠ざかる正成の背を目で追った。争いを止めようと書状を広げていた人が、今は太刀を帯びて夜の道へ出ていく。最後の馬が門を過ぎても、美月はしばらくそこに立ち、見えなくなった一行の蹄の音を聞いていた。
屋敷へ引き返すと、男はまだ柱を握っていた。美月はそばに寄り、戻ってくる人たちを迎える支度をするので、中で待っていてほしいと声をかけた。男はすぐには動かなかったが、差し出した手を見て、ゆっくり柱から指を離した。傷のない方の腕を支えると、外を振り返りながらも、一歩ずつ部屋へ戻っていった。




