第三十一章 同じ土を求めて
翌朝、正行は約束の刻より早く庭へ出ていた。両手で包んだ木の舟を、ときどき開いては確かめている。美月が縁側から声をかけると、少年は立ち上がり、父がもう朝餉を済ませたかと尋ねた。まだだと答えると、急かすつもりではなかったらしく、少し赤くなってまた腰を下ろした。
兼重に頼んで用意してもらった浅い桶には、水が張られていた。美月は使い終えた紙の白いところを折り、小さな舟を作って正行に渡した。少年は木の舟と並べて眺め、紙の折り目へ指を差し入れようとして、壊してしまうと思ったのか手を引いた。
「持っても大丈夫ですよ。ここを、そっと」
美月が示すと、正行は舟の縁をつまみ、桶へ浮かべた。紙の舟が揺れながら水に乗る。その隣へ木の舟を下ろすと、昨夜の話のとおり、片側がわずかに沈んだ。
「やはり、こっちが重いのだな」
背後から声がして、正行が振り向いた。正成は袖を押さえて隣にしゃがみ、息子の濡れた指先を見て笑った。美月が場所を空けると、桶を挟んで父と子が向かい合った。正成は舟をすぐに取り上げず、正行にもう一度浮かべさせた。少年は左右の厚さを説明し、昨夜話し足りなかったことまで言い添えた。父が水面へ顔を近づけるので、正行も同じように身をかがめる。二人の額が触れそうになり、美月は思わず笑った。
「少しずつ削ろう。一度に削っては、元へは戻せぬ」
正成は舟を受け取り、縁側で水気を拭いた。正行がその手元をのぞき込む。美月は桶の傍らに残り、ゆっくりと水を吸い始めた紙の舟を見ていた。今朝の約束が守られたことが、うれしかった。何か大きな出来事を変えたわけではない。それでも、正行が父の隣に座っているこの時間は、確かにここにあった。兼重が庭へ姿を見せたのは、木の舟が二度目に浮かべられたときだった。正成のそばへは来ず、廊下の端で待っている。その表情を見た正成は、舟の動きを最後まで確かめてから立ち上がった。
「もう少し、こちらを薄くするとよさそうじゃ。戻ってから見よう」
「はい。先に削らず、待っております」
正行は舟を取り上げ、布で丁寧に包んだ。正成はその頭に手を置いてから兼重のもとへ向かった。美月も桶を縁側へ寄せ、二人のあとを追った。書院には、旅装を解ききらぬ男が控えていた。袴の裾には乾いた泥がつき、脇に置いた笠の縁が裂けている。正成が座ると、男は深く頭を下げ、懐から布に包んだ書状を出した。西国から届いた、所領をめぐる争いの知らせだった。
長くその土地を守ってきた側がいる。そこへ、戦の恩賞として土地の権利を与えられたと主張する側が入った。双方が文書を示し、相手こそ立ち退くべきだと言い張っているうちに、田へ通じる道が塞がれた。使いに立った者が打たれ、今度はその報復に人が集まり始めているという。
「死者は」
「私が発つ折には、まだ。ただ、傷を負った者がおります」
正成は書状を広げたまま、男を見た。
「田を作る者は、どうしておる」
「どちらの命に従えばよいか分からず、出るに出られぬ者も。取り入れたものを誰に納めるかで、前から揉めておりましたので」
美月は正成の横で、書状の端に並ぶ人名を見つめた。紙の上では、争っている土地に一つの名がついている。その名の下に、いくつもの家と、明日の食べ物を心配する人々がいるのだった。
「訴えの裁きは、まだ下りておらぬのか」
「都へ人を出しております。ですが、待っている間に相手が入れば、あとから取り返せなくなると申して……」
男はそこで言葉を切り、膝に置いた拳を固めた。正成は急かさずに待った。やがて男は顔を上げ、こちらにも戦で死んだ者がいるのだと言った。
「残った者を食わせねばなりませぬ。殿が何も得られぬまま戻れば、家を空けて従った者たちへ、何と申せばよいのでございましょう」
声には疲れがにじんでいた。美月は、相手の土地を欲しがる者の訴えとして聞き流しかけていた自分に気づいた。男の背後にも、帰らなかった者を待つ家族がいる。では、そこにもともと暮らしていた人々は、どこへ行けばよいのか。問いは口にできず、胸の中に残った。正成は書状を置いた。
「その事情は分かった。じゃが、人を打って境を動かせば、向こうも兵を出す。そなたらの訴えが正しいとしても、それを聞かせる前に戦になるぞ」
「では、引けと仰せでございますか」
「双方の言い分も文書も確かめず、わしが土地の主を決めることはできぬ。まずは、これ以上傷つく者を出さぬようにしたい」
男の顔に失望が浮かんだ。頼りにして遠くまで来たのである。正成の一言で道が開けると思っていたのかもしれなかった。正成はその表情から目をそらさず、相手方へ話を届けられる者がいるかと尋ねた。
すぐには返事がなかったが、兼重が名を一つ挙げると、男は知っていると答えた。以前は双方へ出入りしていたという。正成はその人物へ事情を知らせ、争う者たちが顔を合わせる前に、それぞれの文書と訴えを確かめられないかと話した。男は、引き受けるかどうか分からぬと言いながらも、ようやく懐からもう一枚の紙を出した。
話が終わるまでに、朝の光は書院の奥へ差し込むようになっていた。正成は男に食事と休む場所を与えるよう兼重に頼み、返書を書き始めた。美月は硯のそばへ水を足し、その筆が止まるのを待った。
「あの人たちも、戦が終われば暮らしがよくなると思っていたんでしょうね」
「そうであろうな。従う者に、そう言って兵を集めた者もおろう」
「約束した土地が、誰かの暮らしている場所だったら……」
正成は筆を硯へ置き、庭の方へ顔を向けた。
「もとの権利が何であったか、誰から何を与えられたか。それを一つずつ確かめねばならぬ。面倒でも、その手間を惜しめば、強い者が押し取ることになる」
「その間にも、争いが起きてしまう」
「うむ。わしらの返事より、兵の動く方が早いこともある」
正成は再び筆を取った。美月は、東へ送った書状を思い出していた。尊氏から返事が届くまでにも、こうした知らせは幾つも入ってくるのだろう。朝廷へ向かう訴えと、武将たちへ寄せられる願いが、同じ土地を指しているとは限らない。人々の求めるものは、それぞれの家を出た時点では切実で、正当なものに思える。それが一つの場所でぶつかったとき、誰が相手に譲れるのだろうか。
廊下の向こうで小さな足音が止まった。正行が、包んだ舟を持って立っていた。書院の様子を見て、出直そうとしたらしい。正成は筆を休め、息子を呼び止めた。
「待たせたな。あと少しじゃ。そこで見ていてくれるか」
正行はうなずき、入口に近いところへ腰を下ろした。舟を膝に載せ、父が紙へ文字を連ねるのを見つめている。美月はその隣へ座り、男が残した泥の跡が、廊下の板にもついていることに気づいた。正成が書き終えた返書を読み返す間、正行は舟の布を少しだけ開いた。まだ乾ききっていない木肌に、朝の光が当たった。美月は、あの舟がまっすぐ進むところを、今日、父と子に見せたかった。




