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第三十章 向かい合う膳

 翌朝、美月が書院を訪ねると、正成はすでに身支度を整えていた。机には清書を終えた書状が置かれ、その横に、書き損じた紙が何枚か重なっている。昨夜はいつまで灯をともしていたのかと尋ねたかったが、正成が先に書状を差し出したため、美月は向かいに座って受け取った。

 尊氏への挨拶に続き、東国の武士たちが抱えている訴えを、本人の言葉で知らせてほしいと記されていた。朝廷の意向を伝える使いではなく、正成自身からの問いであることも添えられている。美月が読めずに止まった文字は正成が声に出して説明し、二人で末尾まで確かめた。未来で作った覚え書きのうち、この紙に残ったことはわずかだったが、その分、正成が引き受けられることが明確になっていた。

「これで、届けていただきましょう」

 美月が返すと、正成はもう一度だけ目を通し、折り畳んだ。兼重の選んだ使者は、しばらくして書院へ通された。正成は書状を託す前に、相手からその場で返答を求められても、約束できないことは持ち帰るよう念を押した。使者は心得たことを自分の言葉で言い直し、預かった書状を懐へ収めた。

 門を出る背中を見送ったあとも、美月はしばらくその場に立っていた。こちらが一晩かけて選んだ言葉も、届くまでには幾日もかかる。その間に相手の事情が変わることも、都で別の判断が下されることもある。正成は遠ざかる使者を見つめていたが、兼重に呼ばれると振り向き、次の用向きを聞いた。

 その日から、屋敷には再び慌ただしい時間が戻った。正成が外へ出る日もあれば、書院で人と会い続ける日もあった。美月は書状の内容を整理し、手帳に書いたことと照らし合わせながら、今の自分たちに確かめられない部分を残しておいた。東国からの返事を待つ間にも、目の前の用事は途切れなかった。正行との食事がかなったのは、それから数日後の夕刻だった。

 兼重から知らせを受けた正成は、まだ話の終わっていない家臣に、続きは食事のあとで聞くと告げた。相手は少し驚いたようだったが、広げていた紙をまとめて下がっていった。美月が書状を片づけていると、廊下から小さな足音が近づき、入口でぴたりと止まった。正行は背筋を伸ばして父に挨拶をした。正成が顔を上げるように言うと、素直に従ったものの、その目は父の脇に積まれた紙と、美月の手元とを行き来した。美月が微笑みかけると、彼も頭を下げたが、すぐに正成の方へ向き直った。

「父上、お呼びとうかがいました」

「うむ。腹は減っておるか。今夜は一緒に飯を食おうと思うてな」

 正行は返事をしかけ、何かを確かめるように父の顔を見た。正成が立ち上がっても、その場で待っている。美月には、食事の前に何を尋ねられるのかと身構えているように見えた。正成も気づいたらしく、息子の肩に手を置いて廊下へ促した。

「難しい話はない。兼重から聞いておらぬか」

「叱られるのではないと、うかがいました」

「そうか。それを聞くとかえって怪しいか」

 正行は困ったように口元を引き締めたが、父が笑うと、ようやく肩の力を抜いた。正成は美月にも来るよう声をかけた。彼女は二人だけの方がよいのではないかと思ったが、正行がこちらを振り返って待っていたので、片づけかけの紙を机へ置いた。

 食事の部屋には、三人分の膳が用意された。正成と正行が向かい合い、美月は少し横に座った。飯の湯気が上がり、汁椀からは温かな香りが漂っている。正行は父が箸を取るのを待って食べ始めたが、最初の数口はゆっくりとしていた。正成が何も尋ねずに汁を飲んでいると、少しずつ箸の動きが早くなっていった。正成はその様子を見ながら、ふと口を開いた。

「この頃の稽古は――」

 そこまで言って、箸を止めた。正行はすぐに顔を上げ、答えるために口の中の飯をのみ込もうとした。

「いや、急がず食え。稽古の話は、またでよい」

 正成は自分も飯を口へ運び、息子が食べ終えるのを待った。美月は口を挟まず、汁椀を持ち上げた。現代の部屋で、つい何を学んだか尋ねてしまうと話していた正成を思い出したが、そのことをここで言うつもりはなかった。

「何か、面白いことはあったか。稽古でなくともよい。そなたが、つい誰かに話したくなるようなことじゃ」

 正行は考え込んだ。父が期待している答えを探しているのか、美月と目が合うと、少し恥ずかしそうに視線を戻した。やがて、小さな声で、木を削って舟を作ったのだと話した。水に浮かべるつもりだったが、どうしても片側へ傾き、乗せた小石が落ちてしまうという。

「底を平らにしたつもりなのですが、浮かべると、こちらばかり沈みます」

 正行は左手を舟に見立て、傾けてみせた。正成は身を乗り出し、どちらを薄く削ったのかと尋ねかけたが、そのまま息子の手を見ていた。正行は、何度か削り直して舟が小さくなってしまったことや、一緒に作っていた者の舟の方が先に流れていったことまで話し始めた。

「負けたのか」

「速さでは、負けておりませぬ。私の舟は、途中までは先におりました」

「途中から、どうなった」

「横を向いて、草に引っかかりました」

 言い終えた正行は父の顔を見て、自分でもおかしくなったように笑った。正成も声を立てて笑い、箸を膳の端に置いた。美月には、その笑い方が、客人と話しているときのものとは少し違って聞こえた。正行は懐へ手を入れ、小さな木片を取り出した。持ってきていたのかと正成が言うと、直してもらおうと思ったのではないと、慌てて首を振った。道中で削ったところを見直していたらしく、布に包まれた舟の縁には、まだ薄い木の屑が残っていた。

「見せてくれぬか」

 正成が手を伸ばすと、正行は膳の脇から両手で差し出した。舟は美月の手のひらにも収まりそうな大きさで、先端だけが妙に尖り、左右の厚さも違っていた。正成は裏返したり、目の高さに持ち上げたりしていたが、すぐに良し悪しを言うことはせず、息子がどこを直したのかを聞いた。

 正行が指さしたところへ、自分の指を添える。その二つの手を見たとき、美月の胸に不意に痛みが走った。未来の本で読んだ正行は、父の志を受け継ぎ、軍勢を率いる人物だった。今、目の前にいるのは、自分の作った舟がなぜ曲がって進むのかを、父に分かってもらおうとしている子どもだった。

 美月は椀を膳へ戻し、静かに息を整えた。正行が「美月殿は、舟を作られたことがありますか」と尋ねてきたので、紙でならあると答えた。

「紙では、水に濡れてしまいませんか」

「長くは浮かべておけません。でも、折り方によっては、ちゃんと舟の形になるんですよ」

 正行は目を丸くし、正成も興味を引かれたように顔を向けた。美月は、使い終えた紙があれば今度折ってみせると約束した。正行はうれしそうにうなずいたが、父の手にある木の舟へ目を戻すと、少しためらってから尋ねた。

「父上なら、どこを削られますか」

「実際に浮かべてみねば、わしにも分からぬ。見ただけで削って、ますます沈むようにしては困るからのう」

 正成は舟を返した。正行は受け取ったものの、すぐには布へ包まず、父を見ていた。正成が続きを待っていると、彼は舟の縁を親指でなぞりながら、今度、一緒に見てほしいと言った。

「そうじゃな。明るいうちに、浅い水で試そう。今日はもう暗くなる」

「明日なら、お時間はございますか」

 正成はすぐに返事をしなかった。美月も、翌日に入っている用事を思い出していた。正行は父の沈黙を見て、舟を布へ戻し始めたが、正成はその手が止まるよう、穏やかに名を呼んだ。

「朝飯のあとなら、見られる。長くは無理かもしれぬが、そなたの舟を浮かべる時間は取ろう」

 正行は顔を上げた。念を押すことはせず、はいと答え、包んだ舟を膝の横へ置いた。そのあと、冷め始めた飯をまた食べ始めたが、途中で思い出したように、水に浮かべたときのことを話し足した。正成は聞きながら、ときどき問いを挟んだ。美月が食べ終わっても、二人の膳にはまだ少し飯が残っていた。

 廊下に人の気配がしたのは、その頃だった。兼重が入口で頭を下げ、正成に目で合図を送った。正行は箸を置きかけたが、正成は食べている途中だろうと言ってそのままにさせ、兼重へ急ぎかどうかを尋ねた。

「お返事は明朝でよいとのことでございます。今、お渡しするだけでもと思いましたが」

「では、あとで書院へ置いておいてくれ。ここを済ませてから読む」

 兼重は一礼して下がった。正行はその背を見送り、父の方へ向き直ったが、さっきまで話していたことを忘れてしまったらしかった。正成は自分の箸を取り直し、舟が引っかかった草は、結局誰が外したのかと尋ねた。

「私です。ですが、袖まで濡れてしまって」

 正行は袖口を確かめるように見下ろした。今着ている衣とは別のものだと気づいたらしく、照れた笑みを浮かべた。正成は、それで叱られたのかと笑いながら聞き、美月もつられて笑った。食事を終える頃には、庭の木々が夕闇に溶け始めていた。正行は舟を忘れずに懐へ戻し、明朝も持ってくると言って部屋を出た。廊下で一度こちらを振り返ったので、正成がうなずくと、今度は立ち止まらずに歩いていった。

 膳を下げる者たちの邪魔にならないよう、美月と正成は縁側へ移った。書院には、これから読むべき書状が待っている。美月は食事の間に長く引き留めてしまったのではないかと思ったが、正成はまだ立ち上がらず、息子の去った方を眺めていた。

「舟を作っておるとは、知らなんだ」

 その声には、見落としていたものをようやく見つけたような響きがあった。美月が、ほかにも作っているかもしれませんねと言うと、正成はうなずき、自分の指先へ目を落とした。木の舟を受け取ったときについたらしく、小さな屑が袖に残っていた。

「わしは、あれに教えることばかり考えておったのかもしれぬな」

 美月は返事を探したが、うまく言葉にならなかった。父として何を残せばよいのかと苦しんでいた正成に、今夜の時間がどれほど大切だったか、軽々しく説明したくなかった。彼も答えを求めてはいないようで、袖の屑を払い、やがて膝に手をついて立ち上がった。書院へ戻る途中、正成は兼重を呼び、明朝の用向きを確かめた。朝飯のあとは正行と約束があるから、急ぎでない者には少し待ってもらってほしいと伝えると、兼重は心得た様子でうなずいた。

 美月は自分の部屋へ戻り、鞄から手帳を取り出した。東国へ送った書状のことも、届いた知らせも、そこには書き留めてある。けれど今夜の食卓を、何かの役に立つ記録としてまとめる気にはなれなかった。頁を閉じ、明日、正行に見せる紙の舟の折り方を、指先でそっとなぞった。

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