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第二十九章 答えを急ぐ夜

 廊下を近づいてきた足音が、入口の手前で止まった。兼重に案内されて入ってきた男は、正成の姿を認めると深く頭を下げた。三十を幾つか過ぎたほどに見え、衣の裾には乾いた泥がついている。夜分の訪問をわびる声は落ち着いていたが、挨拶を終えるなり机上の書状へ目を向けたところに、返事を待ちわびていた様子がうかがえた。

「お届けした書状は、ご覧いただけましたでしょうか。明朝にはお返事を持ち帰るつもりでおりましたが、お戻りになったとうかがいまして」

「読ませてもらった。尊氏殿が東国にとどまっておられることについて、わしの考えを聞きたいとのことであったな」

 男はうなずき、それから美月へ目を向けた。彼女は席を外そうとしたが、正成に「そなたにも聞いておいてほしい」と促され、浮かせた腰を戻した。兼重が廊下を隔てる戸を閉めると、男は膝を進め、先ほどより声を落として話し始めた。

「都では、尊氏殿はお戻りになるおつもりがないのでは、と案じる声がございます。東国の武士たちも、続々とそのもとへ集まっているとか。このまま力を蓄えられるのを、見ていてよいものかと」

「兵が集まっておることは、わしも聞いておる。尊氏殿ご自身は、都へ戻ることについて何と申しておられるのじゃ」

「そこまでは、私には……。ただ、楠木殿は尊氏殿のお人柄も、よくご存じであろうと」

 正成はすぐには答えず、机の上の書状を手元へ引き寄せた。美月には、男が尋ねに来たのは東国の情勢そのものではなく、それをどう受け取るべきかという判断なのだと分かった。正成が信じてよいと言えば、その言葉を持ち帰り、危ういと言えば、それを根拠に備えを促すのだろう。

「以前、ともに戦ったことはある。じゃが、それだけで今のお心まで分かるとは申せぬ。帰らぬから背いたと決めるのも、昔を知っておるから背くはずがないと請け合うのも、早すぎよう」

「では、どのようにお伝えすればよろしいのでしょうか。尊氏殿を信じてよいのか、それとも、もはやそのおつもりはないものとして備えるべきなのか。今夜は、そこをお聞かせいただきたいのでございます」

 男の指が膝の上で衣をつかんだ。口調には慎みが残っていたものの、問いを持ち帰ることは許されていないような切迫した響きがあった。正成が筆へ手を伸ばさずにいると、男は言葉を継ぎかけ、思い直したように唇を結んだ。兼重が茶を用意させる間、部屋には短い沈黙が落ちた。男は運ばれてきた椀にもすぐには手をつけず、正成に勧められてようやく持ち上げた。その手元を見ていた美月は、彼が息をついたところで声をかけた。

「明朝を待たずにいらしたのは、今夜のうちにお返事をしなければならないからですか」

「はっきりしたお言葉をいただくまでは、戻らぬようにと申しつけられております」

 答えたあと、男は美月から目をそらした。使いとして漏らすべきではなかったと思ったのかもしれない。正成は書状から手を離し、椀を握ったままの男へ向き直った。

「それでは、そなたも困ろうな。分かった。わしの考えは書いて渡す。そなたが言葉を選び直さずとも済むようにしよう」

 男は椀を置き、両手を膝へ戻した。正成は新しい紙を取り出すと、裏返してあった尊氏宛ての書状を脇へ寄せ、墨を含ませた筆を構えた。美月はその隣で、白い紙に最初の文字が置かれるのを見つめていた。現代の部屋で書いた覚え書きは二人のためのものだったが、今ここで書く言葉は、この屋敷を離れ、正成の顔が見えないところで読まれることになる。

「東国へ使者を送り、尊氏殿のお考えを直接確かめるべきだと書こうと思う。武士たちが何を求めて集まっているのかも、併せて聞かねばならぬ」

「ですが、その間にも兵は増えましょう。待ったことで、手遅れになるのではございませぬか」

 問いを受けた正成は筆を止めた。美月にも、その懸念を簡単に退けることはできなかった。未来を知る自分たちは、まだ間に合うと思いたかっただけではないか。男が答えを急ぐのも、争いを望んでいるからとは限らなかった。

「その恐れはある」

 正成は男を見据えて言った。

「ゆえに、備えを怠れとは申さぬ。ただ、尊氏殿に尋ねる前から討つと決めてしまえば、あちらにも兵を手放す理由がなくなる。使者を送り、戻る日を見込み、その間も知らせを集める。わしが勧めるのは、そのような備えじゃ」

 男はしばらく考え、膝の上の手をほどいた。しかし納得したわけではないらしく、正成が書き始める前に、もう一度だけ尋ねた。

「もし、その間に尊氏殿が兵を西へ向けられたなら、楠木殿はどうなさいます」

「そのときは、わしも判断を改めねばならぬ。今夜、話を聞くべきだと申したからといって、そのあと何が起きても同じことを言い続けるつもりはない」

 男は正成の顔を見つめてから、静かに頭を下げた。それ以上は問いを重ねず、筆が動き始めるのを待っていた。美月は二人の間に残った緊張を感じながらも、男がようやく、持ち帰るべき返事の形をつかみ始めたように思った。書き終えた正成は、紙を灯へ近づけて読み返した。一か所で筆を取り、言葉を補ってから、墨の乾くのを待って男へ渡した。男は両手で受け取り、目を通していったが、末尾まで来ると顔を上げた。

「必要であれば、直接お出向きくださると」

「この返事だけでは足りぬなら、わしが話す。そなた一人に、ここに書いていないことまで答えさせはせぬ」

 男はもう一度紙へ目を落としたあと、丁寧に畳んで懐へ収めた。帰り際の顔に安堵し切った様子はなかったが、少なくとも、何を持ち帰ればよいのか迷っていたときの焦りは薄れていた。兼重に伴われて部屋を出る前に、彼は正成へ向き直り、来たときよりゆっくりと頭を下げた。

 足音が遠ざかると、美月は肩の力を抜いた。正成も筆を置いて茶を口にしたが、すっかり冷めていたらしく、椀の中をのぞいて小さく笑った。美月が新しい茶を頼もうとすると、彼はそのままでよいと首を振り、残りを飲んだ。彼女も自分の椀へ手を伸ばしたが、先ほどの男の問いが耳に残っていた。

「あのお返事が、尊氏様をかばっていると受け取られるかもしれませんね。使者の方が言葉を変えなくても、読む方が、そのように受け取ってしまったら……」

「そのときは、呼ばれて話すことになろう。書状だけで、すべて伝わるとは思っておらぬ」

 正成は机の端に残した紙を見た。尊氏へ尋ねたいことは、まだ書き終えていなかった。今夜の返事が都の誰かを納得させたとしても、東国から何が返ってくるのかは分からない。美月は、年表の余白に言葉を書き足していた昼間とは違う重さを感じた。これからは、一つ言葉を発するたびに、それを受け取った人が動き始めるのだ。

「もっと違う書き方があったでしょうか」

「あるかもしれぬな。そなたも考えておいてくれ。明日になって気づいたことがあれば、わしに聞かせてほしい」

 正成はそう言うと、使い終えた筆の先を整えた。疲れは見えていたが、自分の返事が最善だったと言い切ることはしなかった。美月も、それ以上の言葉を急がずに椀を置いた。やがて戻ってきた兼重が、使者を送り出したことを告げた。明朝、呼び出しがあった場合に備えて支度を整えておくという申し出に、正成は礼を言い、続けて尊氏へ送る使者の人選を頼んだ。今夜、相手の考えを確かめるべきだと答えた以上、自分もそのために動かなければならなかった。

 正成が書きかけの紙を元へ戻すのを見て、美月は鞄へ手を伸ばした。だが、手帳を取り出す前に、彼がこちらを向いた。

「今夜は、もう休んでくれぬか。そなたまで眠れぬままでは、明日、わしの書き損じを見つけてもらえぬ」

 その言い方に、美月は思わず笑った。水辺から戻って以来、気を張り続けていたが、ようやく身体の重さを感じていた。明朝、読ませてほしいと頼んで立ち上がると、長く座っていた足がしびれていた。兼重が開けてくれた戸を抜け、廊下へ出ると、夜気が熱のこもった頬に心地よかった。数歩進んだところで、正成が兼重を呼び止める声が聞こえた。

「もう一つ、頼みがある。正行と、近いうちに一緒に飯を食いたい。あれの都合を聞いて、日を決めてくれぬか」

「お急ぎの御用でしょうか」

「いや、話を聞きたいだけじゃ。何か失敗を叱るのではないとも、添えておいてくれ」

 兼重が返事をするまで、少し間があった。彼にも思いがけない頼みだったのだろう。やがて聞こえた「承知いたしました」という声は、使者を迎えたときより幾分柔らかかった。

 美月は振り返らず、鞄の紐を肩に掛け直した。急ぐべき知らせが届き、答えを求める者が訪れても、正成は息子と交わしたい時間を忘れずにいた。そのことがうれしかった。部屋へ続く廊下の先は暗かったが、背後にはまだ灯があった。美月が歩き始めると、書院から再び墨をする音が聞こえてきた。

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