↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
28/47

第二十八章 待っていた灯

 水面の向こうで揺れた火が、再び近づいてきた。正成が名を呼ぶと、人影は岸辺へ身を乗り出し、手にした松明を高く掲げた。炎に照らされた顔には、美月にも見覚えがあった。兼重だった。何かを叫んでいるらしく口が動いたが、その声は水の深いところを通ってくるように遠かった。

「殿……そこに、おいでなのですか」

 今度は聞こえた。正成が握った手を引き寄せ、美月の顔を確かめる。彼女がうなずいたとき、指先を包んでいた冷たさが薄れ、水面に映る松明の火が、細長くこちらへ伸びてきた。

「兼重、少し退いておれ」

 正成の声に人影が動いた。美月は鞄を身体へ引き寄せ、つないだ手に力を込めた。足元が傾いたように感じた次の瞬間、街の明かりが視界の端から消え、耳をふさいでいた水音が急にほどけた。踏み出した足が柔らかな土に沈み、草の匂いが胸いっぱいに入ってきた。正成が先に膝をつき、美月の身体を支えた。彼女は息を整えながら顔を上げた。目の前にあるのは、建物の並ぶ向こう岸ではなかった。月明かりに浮かぶ木立と、その手前で松明を持ったまま立ち尽くす兼重の姿だった。

「殿」

 兼重はもう一度そう言うと、松明を地面に立てかけ、正成のもとへ駆け寄った。差し出した手が袖に触れる直前で止まる。そのためらいを見て、正成は自分から彼の腕を取った。

「心配をかけたな」

「お怪我は……」

「ない。美月殿も無事じゃ」

 兼重は美月を見た。彼女が頭を下げると、ようやく息を吐き、それから二人の背後へ目を向けた。水面にはもう、月と松明の光しか映っていなかった。兼重はしばらく口を開きかけたままでいたが、やがて唇を結び、正成を立たせた。

「まずは、お戻りください。夜は冷えます」

 美月は岸を離れる前に、一度だけ振り返った。つい先ほどまで暮らしていた街の音は、どこにも聞こえない。鞄の中には、あの部屋の机で書いた手帳がある。その重みを肩に感じながら、兼重の持つ火を追った。道が少し広くなったところで、正成が尋ねた。

「よく、ここが分かったな」

「以前、殿がこちらへ足を運ばれていたことを思い出しまして。寺でお会いできず、もしやと思い、参りました」

「寺へ行ったのか」

「急ぎお目通しいただきたい書状が届きましたので」

 兼重は歩みを緩めた。松明の火が傍らの草を照らし、三人の影が足元で重なった。

「寺の者は、殿はお越しになっておらぬと申しました。別の寺へ向かわれたのかとも考えましたが、お供もなく出られたことが気にかかりまして」

 正成は黙って聞いていた。兼重は責めるような口調ではなかった。それでも美月には、寺を訪ねたときの彼の驚きと、そのあと行方を捜した時間が伝わってきた。

「ほかの者にも、捜させたか」

「いえ。大勢で動けば、殿がおられぬと知れます。まずは私一人で確かめようと」

「そうか。苦労をかけた」

 兼重は頭を下げて歩き始めたが、正成はその場を動かなかった。

「兼重。寺に籠もると申したのは、偽りじゃ」

 美月は正成を見た。火明かりの届く横顔には、先ほどまでの安堵とは違う緊張があった。

「誰にも知らせず、確かめたいことがあった。そなたに留守を任せておきながら、行き先を偽った。すまなかった」

 兼重は松明を持ち直した。炎が傾き、頬に落ちた影が動いた。

「私に申せぬことでございましたか」

「どのように申せばよいのか、わしにも分からなんだ」

 正成は水辺の方を見たあと、兼重へ目を戻した。

「今夜見たことを、見間違いとは言わぬ。じゃが、ここで話せば、そなたをなお迷わせるであろう。落ち着いて話す時をくれぬか」

 兼重は答えず、正成の顔を見つめた。美月は口を挟みかけてやめた。自分が誘ったのだと説明しても、留守を託された兼重の不安が消えるわけではない。

「承知いたしました」

 ようやく兼重が言った。

「ただ、次にお出かけになる折には、お戻りにならぬとき、どこを捜せばよいのかだけは、お教えください。捜す当てもなくお待ちするのは、こたえます」

「分かった。覚えておく」

 正成が答えると、兼重は小さくうなずき、再び先に立った。その背中を見ながら、美月は、自分たちの二日間の外側にも、誰かの時間が流れていたことを思った。屋敷へ着くと、兼重は門の者に短く声をかけ、二人を中へ通した。廊下には灯が残されており、奥で人の動く気配がした。出発した晩から、こちらでも二晩が過ぎていた。美月は兼重の話からそれを確かめ、ひそかに息をついた。少なくとも今回は、自分たちだけが長い時を越えてしまったわけではなかった。

 書院へ入った正成は、着替えと茶を用意させると、兼重が差し出した書状を受け取った。美月は少し離れて座り、鞄を膝の横へ置いた。机の上の灯は小さく、正成が紙を傾けるたびに、文字の上を影が横切った。

「返事を待っておるのか」

「明朝、改めて伺うと申しておりました」

 正成は最後まで読んでから、書状を元の折り目に沿って畳んだ。

「分かった。まず、留守の間のことを聞かせてくれ」

 兼重は、訪ねてきた使者の名と用向きを順に伝えた。正成は途中で何度か問い返し、誰が直接聞いた話なのか、いつ届いた知らせなのかを確かめた。美月は手帳を出そうとして、手を止めた。今は、未来でまとめたことを示すより、この二日間に何が起きたのかを聞かなければならなかった。報告が終わると、正成は新しい紙を一枚、手元へ寄せた。

「尊氏殿へ、わしから書状を送りたい。東国まで任せられる使者を、明日、選んでほしい」

 兼重の目が紙へ落ちた。

「朝廷のお使いとしてでございますか」

「いや。わしの名で、お尋ねしたいことがある」

「では、殿のお言葉が、そのまま朝廷のお考えと受け取られませぬように」

 美月は顔を上げた。正成も筆を取る手を止め、兼重を見た。

「そうじゃな。その違いは、はっきりさせねばならぬ」

 兼重はさらに何かを言いかけたが、いったん口を閉じた。正成が続きを促すと、低い声で答えた。

「殿が間に立たれると知れば、願いをかなえていただけると思う者もおりましょう。かなわねば、殿が退けたと恨む者も」

「それでも、聞いておきたい。何を求め、何に困っておるのかをな。ただ、わしに約束できぬことまで、使者に言わせるつもりはない」

 兼重はしばらく考え、膝の上に手をそろえた。

「では、口の堅さだけでなく、分からぬことを持ち帰れる者を選びます」

「頼む」

 正成の返事に、兼重は深く頭を下げた。立ち上がる際、美月の傍らにある鞄へ一瞬目を留めたが、何も尋ねずに退出した。二人きりになると、美月はようやく手帳を取り出した。昼間の明るい部屋で書いた文字が、灯の下では違って見えた。正成は開かれた頁をのぞき込み、余白を指さした。

「使者に託す言葉も、考えねばならぬな」

「はい。書状だけ届けばよいのだと思っていました」

 美月はそう答え、余白に書き足した。筆先を追っていた正成が、やがて静かに言った。

「兼重に、もっと早く相談すればよかった」

 美月はうなずいた。未来の資料をどれだけ読んでも、今この屋敷で留守を守り、使者を迎えていた兼重にしか分からないことがあった。正成は硯に水を足し、墨をすり始めた。美月はその音を聞きながら、手帳の頁を押さえていた。窓の外では、虫が鳴いている。現代の部屋で交わした言葉を、この時代の人々へ届けるために、二人はもう一度、最初の一文から考えた。夜が深まる頃、正成は書きかけの紙を脇へ置いた。

「残りは、明朝にしよう。疲れたまま書けば、余計なことまで申してしまいそうじゃ」

 美月が手帳を閉じると、正成は廊下へ目を向けた。先ほど茶を運んできた者の足音は、すでに遠ざかっていた。

「明日は、正行のことも聞かねばな」

「一緒にお食事をなさるお話ですね」

「うむ。まず、あれの都合を聞こう」

 美月は微笑んだ。帰ればすべきことは多かった。それでも、父と子が向かい合って飯を食べる時間を、ほかの用事のあとへ追いやってほしくはなかった。正成が紙を重ねようとしたとき、廊下に再び足音がした。戻ってきた兼重は、入口で膝をつくと、声を抑えた。

「殿。先ほど申し上げた使者が、今、門へ参っております」

「明朝ではなかったのか」

「そのはずでしたが、今夜のうちにお目にかかりたいと」

 正成は重ねかけた紙から手を離した。美月が閉じた手帳を鞄へ収めるのを待ち、それから兼重へ向き直った。

「通してくれ」

 兼重が立ち去ると、正成は灯の位置を少し動かした。机の上には、尊氏へ宛てた書きかけの紙が残っていた。彼はそれを裏返し、これから入ってくる者のために、正面を空けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。