第二十八章 待っていた灯
水面の向こうで揺れた火が、再び近づいてきた。正成が名を呼ぶと、人影は岸辺へ身を乗り出し、手にした松明を高く掲げた。炎に照らされた顔には、美月にも見覚えがあった。兼重だった。何かを叫んでいるらしく口が動いたが、その声は水の深いところを通ってくるように遠かった。
「殿……そこに、おいでなのですか」
今度は聞こえた。正成が握った手を引き寄せ、美月の顔を確かめる。彼女がうなずいたとき、指先を包んでいた冷たさが薄れ、水面に映る松明の火が、細長くこちらへ伸びてきた。
「兼重、少し退いておれ」
正成の声に人影が動いた。美月は鞄を身体へ引き寄せ、つないだ手に力を込めた。足元が傾いたように感じた次の瞬間、街の明かりが視界の端から消え、耳をふさいでいた水音が急にほどけた。踏み出した足が柔らかな土に沈み、草の匂いが胸いっぱいに入ってきた。正成が先に膝をつき、美月の身体を支えた。彼女は息を整えながら顔を上げた。目の前にあるのは、建物の並ぶ向こう岸ではなかった。月明かりに浮かぶ木立と、その手前で松明を持ったまま立ち尽くす兼重の姿だった。
「殿」
兼重はもう一度そう言うと、松明を地面に立てかけ、正成のもとへ駆け寄った。差し出した手が袖に触れる直前で止まる。そのためらいを見て、正成は自分から彼の腕を取った。
「心配をかけたな」
「お怪我は……」
「ない。美月殿も無事じゃ」
兼重は美月を見た。彼女が頭を下げると、ようやく息を吐き、それから二人の背後へ目を向けた。水面にはもう、月と松明の光しか映っていなかった。兼重はしばらく口を開きかけたままでいたが、やがて唇を結び、正成を立たせた。
「まずは、お戻りください。夜は冷えます」
美月は岸を離れる前に、一度だけ振り返った。つい先ほどまで暮らしていた街の音は、どこにも聞こえない。鞄の中には、あの部屋の机で書いた手帳がある。その重みを肩に感じながら、兼重の持つ火を追った。道が少し広くなったところで、正成が尋ねた。
「よく、ここが分かったな」
「以前、殿がこちらへ足を運ばれていたことを思い出しまして。寺でお会いできず、もしやと思い、参りました」
「寺へ行ったのか」
「急ぎお目通しいただきたい書状が届きましたので」
兼重は歩みを緩めた。松明の火が傍らの草を照らし、三人の影が足元で重なった。
「寺の者は、殿はお越しになっておらぬと申しました。別の寺へ向かわれたのかとも考えましたが、お供もなく出られたことが気にかかりまして」
正成は黙って聞いていた。兼重は責めるような口調ではなかった。それでも美月には、寺を訪ねたときの彼の驚きと、そのあと行方を捜した時間が伝わってきた。
「ほかの者にも、捜させたか」
「いえ。大勢で動けば、殿がおられぬと知れます。まずは私一人で確かめようと」
「そうか。苦労をかけた」
兼重は頭を下げて歩き始めたが、正成はその場を動かなかった。
「兼重。寺に籠もると申したのは、偽りじゃ」
美月は正成を見た。火明かりの届く横顔には、先ほどまでの安堵とは違う緊張があった。
「誰にも知らせず、確かめたいことがあった。そなたに留守を任せておきながら、行き先を偽った。すまなかった」
兼重は松明を持ち直した。炎が傾き、頬に落ちた影が動いた。
「私に申せぬことでございましたか」
「どのように申せばよいのか、わしにも分からなんだ」
正成は水辺の方を見たあと、兼重へ目を戻した。
「今夜見たことを、見間違いとは言わぬ。じゃが、ここで話せば、そなたをなお迷わせるであろう。落ち着いて話す時をくれぬか」
兼重は答えず、正成の顔を見つめた。美月は口を挟みかけてやめた。自分が誘ったのだと説明しても、留守を託された兼重の不安が消えるわけではない。
「承知いたしました」
ようやく兼重が言った。
「ただ、次にお出かけになる折には、お戻りにならぬとき、どこを捜せばよいのかだけは、お教えください。捜す当てもなくお待ちするのは、こたえます」
「分かった。覚えておく」
正成が答えると、兼重は小さくうなずき、再び先に立った。その背中を見ながら、美月は、自分たちの二日間の外側にも、誰かの時間が流れていたことを思った。屋敷へ着くと、兼重は門の者に短く声をかけ、二人を中へ通した。廊下には灯が残されており、奥で人の動く気配がした。出発した晩から、こちらでも二晩が過ぎていた。美月は兼重の話からそれを確かめ、ひそかに息をついた。少なくとも今回は、自分たちだけが長い時を越えてしまったわけではなかった。
書院へ入った正成は、着替えと茶を用意させると、兼重が差し出した書状を受け取った。美月は少し離れて座り、鞄を膝の横へ置いた。机の上の灯は小さく、正成が紙を傾けるたびに、文字の上を影が横切った。
「返事を待っておるのか」
「明朝、改めて伺うと申しておりました」
正成は最後まで読んでから、書状を元の折り目に沿って畳んだ。
「分かった。まず、留守の間のことを聞かせてくれ」
兼重は、訪ねてきた使者の名と用向きを順に伝えた。正成は途中で何度か問い返し、誰が直接聞いた話なのか、いつ届いた知らせなのかを確かめた。美月は手帳を出そうとして、手を止めた。今は、未来でまとめたことを示すより、この二日間に何が起きたのかを聞かなければならなかった。報告が終わると、正成は新しい紙を一枚、手元へ寄せた。
「尊氏殿へ、わしから書状を送りたい。東国まで任せられる使者を、明日、選んでほしい」
兼重の目が紙へ落ちた。
「朝廷のお使いとしてでございますか」
「いや。わしの名で、お尋ねしたいことがある」
「では、殿のお言葉が、そのまま朝廷のお考えと受け取られませぬように」
美月は顔を上げた。正成も筆を取る手を止め、兼重を見た。
「そうじゃな。その違いは、はっきりさせねばならぬ」
兼重はさらに何かを言いかけたが、いったん口を閉じた。正成が続きを促すと、低い声で答えた。
「殿が間に立たれると知れば、願いをかなえていただけると思う者もおりましょう。かなわねば、殿が退けたと恨む者も」
「それでも、聞いておきたい。何を求め、何に困っておるのかをな。ただ、わしに約束できぬことまで、使者に言わせるつもりはない」
兼重はしばらく考え、膝の上に手をそろえた。
「では、口の堅さだけでなく、分からぬことを持ち帰れる者を選びます」
「頼む」
正成の返事に、兼重は深く頭を下げた。立ち上がる際、美月の傍らにある鞄へ一瞬目を留めたが、何も尋ねずに退出した。二人きりになると、美月はようやく手帳を取り出した。昼間の明るい部屋で書いた文字が、灯の下では違って見えた。正成は開かれた頁をのぞき込み、余白を指さした。
「使者に託す言葉も、考えねばならぬな」
「はい。書状だけ届けばよいのだと思っていました」
美月はそう答え、余白に書き足した。筆先を追っていた正成が、やがて静かに言った。
「兼重に、もっと早く相談すればよかった」
美月はうなずいた。未来の資料をどれだけ読んでも、今この屋敷で留守を守り、使者を迎えていた兼重にしか分からないことがあった。正成は硯に水を足し、墨をすり始めた。美月はその音を聞きながら、手帳の頁を押さえていた。窓の外では、虫が鳴いている。現代の部屋で交わした言葉を、この時代の人々へ届けるために、二人はもう一度、最初の一文から考えた。夜が深まる頃、正成は書きかけの紙を脇へ置いた。
「残りは、明朝にしよう。疲れたまま書けば、余計なことまで申してしまいそうじゃ」
美月が手帳を閉じると、正成は廊下へ目を向けた。先ほど茶を運んできた者の足音は、すでに遠ざかっていた。
「明日は、正行のことも聞かねばな」
「一緒にお食事をなさるお話ですね」
「うむ。まず、あれの都合を聞こう」
美月は微笑んだ。帰ればすべきことは多かった。それでも、父と子が向かい合って飯を食べる時間を、ほかの用事のあとへ追いやってほしくはなかった。正成が紙を重ねようとしたとき、廊下に再び足音がした。戻ってきた兼重は、入口で膝をつくと、声を抑えた。
「殿。先ほど申し上げた使者が、今、門へ参っております」
「明朝ではなかったのか」
「そのはずでしたが、今夜のうちにお目にかかりたいと」
正成は重ねかけた紙から手を離した。美月が閉じた手帳を鞄へ収めるのを待ち、それから兼重へ向き直った。
「通してくれ」
兼重が立ち去ると、正成は灯の位置を少し動かした。机の上には、尊氏へ宛てた書きかけの紙が残っていた。彼はそれを裏返し、これから入ってくる者のために、正面を空けた。




