第二十七章 持ち帰るもの
朝の光がカーテンの隙間から差し込んだとき、正成はすでに机に向かっていた。昨夜、美月が閉じた本はそのまま脇へ寄せられ、代わりに、二人で書き込んだ年表が広げられている。湊川や四條畷の名を避けるような素振りはなかったが、その指がたどっていたのは、まだ戦いの始まっていない建武二年の夏だった。美月は湯を沸かし、茶を二つ入れて机へ運んだ。正成は礼を言って湯飲みを受け取ったものの、しばらくは口をつけず、立ち上る湯気を見ていた。
「ゆっくりお休みになれましたか」
「少しはな。目を閉じると、正行の顔が浮かんできてのう」
美月は向かいに腰を下ろした。昨夜は、息子に生きてほしいと願う父の言葉を聞いて、自分もその願いをかなえたいと思った。けれど、朝になったからといって、二人を救う道が見つかっているわけではない。机を埋めた資料のどこにも、その答えは書かれていなかった。
「戻ったら、あれと一緒に飯を食おうと思う」
思いがけない言葉に、美月は顔を上げた。
「何を学んだ、どれほど腕が上がったと、わしはつい尋ねてしまう。今度は、あれの話すことを聞いてみたい。わしの知らぬところで何を見て、何を面白がっておるのか」
「きっと、喜ばれます」
「そうであればよいが。急に父が話を聞きたがれば、叱られる前触れかと身構えるやもしれぬ」
美月が笑うと、正成もわずかに口元を緩めた。その笑みを見て、彼女はようやく茶を飲んだ。昨夜から胸の底に沈んでいた重さが、少しだけほどける気がした。
朝食のあと、美月は手元の資料を改めて並べ直した。これから起こる戦いの順序を追うのではなく、朝廷と武士たちの間で、何が行き違っていたのかを確かめたかった。土地を巡る訴えや恩賞への不満についての解説を読み、必要な箇所を正成に伝えていく。しかし、同じ出来事でも本によって説明の重みが違い、誰の判断が決定的だったのか、容易には見定められなかった。美月が別の本へ手を伸ばしたとき、正成が尋ねた。
「その不満を抱いた者たちは、何を与えられれば納得したのであろうな」
「土地や、地位でしょうか。戦った働きに見合うものを求めていたのだと思います」
「土地を望む者は多い。じゃが、その土地を今、持っておる者もいる」
美月の手が止まった。年表の余白には、昨夜自分が書いた『武士たちの不満を和らげる』という文字がある。その短い一行の中に、どれほど解きほぐしにくい問題を押し込めていたのか、今になって気づいた。
「一方の訴えを聞き入れれば、もう一方から奪うことになるのですね」
「そうなることもあろう。己の所領を守っただけと思う者と、働きに報いる約束を破られたと思う者が、ともに正しさを訴えておる。話を聞くと申すのは易いが、聞いたあとの裁きこそ難しい」
正成は年表から目を離し、美月を見た。
「そなたを困らせたいのではない。わしも、ここへ来れば、どこを改めればよいのか見えると思うておった。じゃが、帰って聞かねばならぬことが増えた」
美月はうなずき、手帳の新しい頁を開いた。そこに『誰が、何を求めているのか』と書いたあと、少し考えて、『誰が困るのか』と付け加えた。正成はその二行を眺め、静かにうなずいた。窓の外から、子どもの笑い声が聞こえた。見下ろすと、小さな子が道の途中でしゃがみ込み、傍らの大人に何かを見せていた。大人は一度先を指さしたが、やがて子どもの横へ膝を折った。二人が何を見ているのか、この高さからは分からなかった。正成はしばらくその様子を見つめてから、机へ向き直った。
「尊氏殿に、書状を送ろう」
美月は手帳を引き寄せた。
「どのようなお話をなさるのですか」
「まず、東国の者たちが何を訴えておるのか、尊氏殿のお言葉で知らせていただきたい。それを聞かずに、ただ都へ戻れ、帝のお心に従えと申し上げても、同じことの繰り返しになろう」
「正成様が、朝廷へお取り次ぎになるのですか」
「訴えを届けることはできる。じゃが、願いがかなうとまでは約束できぬ」
美月は、書きかけた言葉の前で筆を止めた。早く争いを防ぎたいと思うあまり、自分はまた、正成ならできるはずだと考えていた。帝の信頼を受け、尊氏とも言葉を交わせる人物だからこそ、その間に立つことの難しさもあるのだろう。
「お返事が来なかったら、どうなさいますか」
「届かなかったのか、答えられぬのか、それとも答える気がないのか。まず、それを確かめる」
正成の声がわずかに低くなった。
「返事のないことを、すぐ敵意と受け取ってはならぬ。じゃが、こちらの願う返事が来るまで、何もせず待つわけにもゆかぬ」
彼は指を組み、その上に目を落とした。美月には、正成がすでに都の屋敷へ心を戻し、使者を選び、帰りを待つ日数まで考え始めているように見えた。未来の本を読むためにここへ来た男が、今は、自分の時代で動くための言葉を選んでいた。
「私にも、できることはありますか」
「ある。そなたの知っておることと、分からぬことを、分けておいてほしい」
「分からないことも、ですか」
「うむ。知らぬところを知ったつもりで進むのが、いちばん危うい」
美月は資料の山を見渡した。これだけ調べても、尊氏が今どんな顔で使者を迎えるのかは分からない。正成の書状を誰が先に手に取り、どんな言葉を添えて渡すのかも分からなかった。書物に名を残していない誰かの一言が、二人の願いを遠ざけることもあるかもしれない。彼女は手帳に、確かめるべきことを書き始めた。正成は隣でその内容を聞き、ときには問いを加え、ときには首を振った。未来の出来事を持ち出さなければ理由を説明できない箇所では、二人とも長く黙り込んだ。
「先のことを知っておるから信じてくれと申しても、聞く者を恐れさせるだけかもしれぬな」
「では、未来のことは書かないのですね」
「尊氏殿への書状にはな。今、困っておる者の話なら、今の言葉で尋ねられる」
美月はうなずいた。正成にしかできないことがあり、自分が未来を知っているからこそ、口にせずにおくべきこともある。その境目を、二人で一つずつ確かめていった。午後の光が机の端へ移る頃には、持ち帰る覚え書きがまとまっていた。美月は読み返しながら、断言しすぎたところを直し、史料に記されていることと自分の推測とが混じらないように書き添えた。正成はその間、窓辺で外を眺めていたが、彼女が本を鞄に収め始めると振り向いた。
「それも、持ってゆくのか」
美月の手には『太平記』があった。
「必要になったとき、読み返せるようにと思って……」
言いながら、美月は背表紙を見つめた。この本が正成以外の手に渡れば、そこに記された死や敗北は、どんな意味を持つだろう。まだ争っていない者同士を疑わせ、避けたいと願った戦を、かえって近づけることもあり得た。正成は本を取り上げようとはしなかった。ただ、彼女が考え終えるのを待っていた。美月はしばらくして、本を机へ戻した。
「これは、ここに置いていきます。持ち帰るものは、この手帳だけにします」
「そなたが記したことも、扱いには気をつけねばならぬな」
「はい。私が持っています」
鞄の口を閉じると、部屋の中が急に静かになった。帰る支度は整ったが、本当に帰れるのかは、まだ確かめられていない。二日前、道を開いてくれた満月は、今夜にはわずかに形を変えているはずだった。二つの時代で過ぎる時間が、いつも同じとは限らないことも、正成には話してある。それでも帰って確かめるほかなく、二人は今夜、水辺へ向かうと決めていた。美月は窓の外へ目を向けた。晴れた空の下で、いつもの街が午後の営みを続けていた。
「今夜、あの水辺へ行きましょう。ただ……月が、もう一度道を開いてくれるかどうかは分かりません」
口にしてみると、その不確かさが胸に迫った。一日か二日で戻ろうと言ったのは自分だった。来ることができたのだから帰れるはずだと、どこかで信じ込んでいたのかもしれない。
「開かなければ、そのとき考えよう」
正成はそう言って、机の上に残した本へ一度だけ目を向けた。
「わしにも、帰るためにできることを考えさせてくれ」
美月は、謝ろうとしていた言葉をのみ込んだ。彼は自分の意思でここへ来た。それを忘れて、一人ですべてを引き受けようとするのは、彼を信じていることにはならなかった。出発までには、まだ少し時間があった。美月は鞄を置き直し、正成に尋ねた。
「戻る前に、一か所、寄っていきませんか。観心寺です」
正成は顔を上げた。書物の中で自分の名を見つけたときとは違う、幼い者のような驚きが、その目に浮かんだ。
「あの寺が、今もあるのか」
「はい。建物も周りの様子も、昔のままではないと思います。でも、お参りする人が今もいます」
正成はしばらく黙っていたが、やがて机から離れ、畳んであった上着を手に取った。午後のうちに部屋を出た二人は、乗り物を乗り継いで観心寺へ向かった。道沿いの家並みが途切れ、山が近づいてくるにつれ、正成は窓の外から目を離さなくなった。寺に着いてもすぐには門をくぐらず、道の先から境内の奥へ、何かを探すように視線を移していた。美月が隣で待っていると、ようやく小さく息を吐いた。
「知っておるつもりで来たが、どこも同じではないのじゃな」
二人はゆっくりと境内を歩いた。木々の間から差す光が足元に落ち、どこかで箒の擦れる音がしていた。正成は堂の前で手を合わせた。その姿を見ながら、美月は声をかけずに待った。閉じた目の向こうに何が浮かんでいるのか、尋ねることさえためらわれた。
「ここで、学ばれたのですね」
歩き始めてから美月が尋ねると、正成はうなずいた。
「龍覚和尚にな。幼い頃は、座って文字を追うより、外を駆け回りたかった。叱られて、また同じところから読み直したものじゃ」
正成は足を止め、木陰に目を向けた。
「大江時親殿に兵法を教わった折も、初めは、勝つための手立てを覚えればよいと思うておった。書いてあることをそらんじれば、分かった気にもなった。実際に人を預かるようになって、幾度も読み直すことになったがな」
「千早のわら人形も、そうやって考えられたのですか」
「書物を開けば、目の前の敵の心まで書いてあるわけではない。あの山に立って、見ておらねば分からぬことがあった」
美月は、石を落とす前に味方の人数を確かめていた正成を思い出した。幼い日の学びからあの判断へ至るまでに、自分の知らない年月が積もっている。その長い時間の始まりに、今、二人で立っていた。通りかかった僧が会釈をした。美月が挨拶を返すと、正成も頭を下げた。僧は二人を急かすことなく、少し離れた場所で落ち葉を掃き始めた。正成はその手元を眺めていたが、やがて美月に聞こえるほどの声で言った。
「わしは、幼い頃、多聞丸と呼ばれておった。母が信貴山の毘沙門天に祈って授かった子だと、聞かされて育ったのじゃ」
「お母様が……」
「うむ。あの頃は、何度も聞いた話だと思うておった。今は、もう一度聞きたいと思う」
美月は返す言葉を探したが、見つからなかった。正行の父として語っていた男にも、呼ばれれば振り返る幼名があり、その名を呼ぶ母がいた。正成は堂の方へ向き直り、今度は短く手を合わせた。帰り際、美月は僧に礼を言った。正成も並んで頭を下げ、去りかけてから、ふと尋ねた。
「この寺で、改めて学びたいと願う者もおりましょうか。若い者ばかりでなく、わしほどの年になってからでも」
僧は箒を持つ手を止めた。
「学びたいことがおありでしたら、まずお話を伺います。何を始めるにも、その方の歩んでこられた道がありますから」
正成はその言葉を聞き、深く礼をした。僧は二人を見送ると、また落ち葉の方へ戻っていった。門を出てから、美月は正成の横顔を見た。
「ここで、もう一度学びたいと思われたのですか」
「今は帰らねばならぬ。待っておる者がおるからな」
正成はそう答えたあと、門の内側へ目を戻した。
「じゃが、戦の支度をせずに朝を迎え、ここで修行する日というものを、初めて思い描いた。筆を持つことや、身を守るための武の稽古なら、わしにも誰かへ伝えられるかもしれぬ」
美月には、寺で子どもの筆の持ち方を直す正成の姿が、ふいに浮かんだ。木刀を振る前に相手へ礼をさせ、危なければ稽古を止める。そんな毎日が、この人にもあってよいはずだった。けれど、今その願いを口にすれば、帰らないでほしいと引き留める言葉になりそうで、美月はただ、うなずいた。正成はもう一度門を振り返った。それから自分で歩き出し、美月も隣に並んだ。
寺を離れ、二人が水辺へ向かう頃には、空に夕闇が広がっていた。美月は鞄の上から手帳の感触を確かめた。道を進むにつれて空が広くなり、山の陰に隠れていた月が姿を現した。水面には細かな波が立ち、月の光は幾つにも砕けていた。美月は岸に立って呼吸を整えたが、二日前のような温かさは感じられなかった。水は夜気を映して暗く、向こう岸の草が揺れているだけだった。正成が傍らに膝をついた。しばらく水面を見ていた彼は、やがて懐から手を出し、美月へ差し伸べた。
「今度は、共に参ろう」
美月はその手を取った。節の太い指が、確かに握り返してきた。二人は並んで水辺へ身をかがめた。指先に触れた水は冷たく、美月は思わず息を詰めたが、手を離さなかった。
美月は水面を見つめたまま、千早へ物資を持ち帰った夜と同じように、古文書の一節を口にした。「月影、水に宿る時、隔てし世の道ひらかれん。血を継ぐ者、その声を聞くべし」。言い終えても手は離さず、正成とともに待った。やがて風がやみ、揺れていた月影が一つに重なると、その奥で細い明かりが動いた。
美月は目を凝らした。街灯の反射ではなかった。水の底に見える暗がりを、小さな火がゆっくりと横切っていく。正成の指に力がこもった。
「誰か、おる」
火の向こうで、人影が立ち止まった。遠い水音に紛れ、呼ぶ声がした。美月には言葉までは聞き取れなかったが、隣の正成が顔を上げた。
「兼重か」
水面の向こうで、火が大きく揺れた。




