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第二十六章 父としての願い

 夕暮れの光が、机の上に広げられた書物を赤く染めていた。窓の外では、仕事を終えた人々が駅へ向かい、街には少しずつ夜の気配が漂い始めていた。正成は、息子の正行について記された頁を前に、黙って美月の言葉を待っていた。


「正成様……」


 美月がようやく口を開くと、正成は穏やかな眼差しを向けた。


「案ずることはない。そなたが何をためらっておるのか、わしにも分かる。じゃが、正行のことは知っておきたいのじゃ」


 美月はうなずいた。すでに正成には、彼自身だけでなく、正行にも悲しい運命が待っていることを伝えている。けれど、その息子がどのような歳月を生き、何を守ろうとして命を落としたのか、詳しく話したことはなかった。彼女は机に置かれた年表を引き寄せ、湊川の戦いが記された箇所に指を置いた。


「正成様が湊川で亡くなられるのは、建武三年、つまり西暦一三三六年です。そして、正行様が亡くなられるのは、その十二年後、一三四八年のことです」


「十二年後か……」


 正成は小さくつぶやいた。


「正行は、その間を生きるのじゃな」


「はい。お父様が亡くなられたあとも、正行様は成長され、やがて楠木家を率いる立場になります。そして、後醍醐天皇の志を継ぐ南朝のために戦われるんです」


 正成は、息子の名が記された頁に目を落とした。


「正行は、まだ若い。わしが戦場に出るときも、あれは心配そうな顔をすることがある。じゃが、幼い頃から人の話をよく聞く子でな。わしが兵のことを語れば、目を輝かせて聞いておる」


 その声には、武将としてではなく、一人の父親としての温かさがあった。


「わしは、あれに戦の仕方ばかり教えたいわけではない。人の命を粗末にせぬこと、力の弱い者を見捨てぬこと、そして、己が正しいと信じる道であっても、独りよがりにならぬことを伝えたいと思うておる」


 美月は静かに耳を傾けた。


「正行様は、後の世でも、お父様と同じように忠義の武将として知られています」


「そうか」


 正成の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


「立派に育つのじゃな」


 その言葉を聞いた瞬間、美月の胸が痛んだ。正成は、息子が父の志を継いだことを喜んでいる。しかし、その先に待つ結末を知れば、同じように喜べるだろうか。美月はゆっくりと本を開き、四條畷の戦いについて記された頁を示した。


「正行様は、南朝方の軍を率いて、足利方と戦うことになります。けれど、相手の軍勢は強大でした。一三四八年、河内の四條畷周辺で戦いが起こり、正行様は敗れて命を落とされます」


 正成の表情から、笑みが消えた。


「四條畷……」


 彼はその地名を、確かめるように口にした。


「河内の、あの地か」


「はい」


 正成はしばらく何も言わなかった。河内の山々も、そこを流れる川も、正成にとってはよく知る故郷の風景だった。戦のために幾度も馬を走らせ、領民たちの暮らしを守ろうとしてきた土地である。その地で、いつの日か息子が命を落とすという。遠い異国の戦場ではない。自分が生まれ育ち、家族とともに暮らしてきた土地だった。


「……あれは、わしの死後も戦い続けるのか」


「はい。正行様は、南朝を支える武将として戦われます。後の世では、その生き方をたたえる人も多くいます」


 正成は目を閉じた。美月は、彼が何かを思い出しているように感じた。息子が初めて木刀を握った日のことかもしれない。父の帰りを待っていた幼い姿かもしれない。あるいは、まだ自分の知らない未来に向かって歩き出す息子の姿を、心の中に描いているのかもしれなかった。やがて正成は、低い声で尋ねた。


「美月殿。正行は、何を思うて戦ったのであろうな」


「それは……」


 美月は言葉を探した。


「史料だけで、正行様の本当のお気持ちをすべて知ることはできません。ただ、『太平記』には、お父様との別れや、その志を受け継ごうとする姿が描かれています」


「わしとの別れか」


 美月はうなずき、別の頁を開いた。


「『太平記』には、正成様が湊川へ向かわれる前、桜井で正行様と別れたという有名な場面があります。正成様は息子を故郷へ帰し、帝への忠義を守るよう言い聞かせたと描かれているんです」


 正成は黙って聞いていた。


「でも、この会話が実際にそのとおり交わされたのかどうかは、確かめられていません。後の世に伝えられた物語として、大切に読まれてきた場面なんです」


「なるほどな……」


 正成はしばらく考えたあと、静かに言った。


「そのような別れを、わしがあれにさせるのか」


 美月は答えなかった。正成は本の上に置いた手を、ゆっくりと握りしめた。


「わしが死ぬことは、武士として覚悟せねばならぬことかもしれぬ。じゃが、わしの死によって、あれが生涯を戦に費やすことになるのなら……」


 そこで言葉が途切れた。窓の外を走る電車の音が、遠くからかすかに響いてきた。美月は、正成が自分の死について語ったときには見せなかった苦悩を、今、その横顔に見ていた。


「正成様……」


「美月殿。わしはな、正行に立派な武将になってほしいと思うておった。じゃが、それ以上に、あれには生きてほしいのじゃ」


 正成は顔を上げた。


「戦に勝つことも、名を残すことも、父としての願いではない。妻を迎え、子を育て、老いてから昔のことを笑って語れるような、そんな生涯を送ってほしい」


 美月の目に涙がにじんだ。正成は、遠い昔の英雄として語られる人物だった。忠義を尽くし、死を恐れず、後世に名を残した武将。しかし、目の前にいるのは、息子の幸せを願う一人の父親だった。


「後の世では、正成様も正行様も、忠義を貫いた親子としてたたえられています」


 美月は静かに言った。


「でも、その歴史の中には、きっと、こういうお気持ちまでは残っていないんですね」


 正成は寂しそうに微笑んだ。


「残らぬであろうな。人は、戦に勝った者や、立派に死んだ者の名を覚える。じゃが、その者が家族とどのような飯を食い、何を語り、どのような明日を願っておったかまでは、なかなか伝わらぬものじゃ」


 美月は涙を拭い、机の上の本を見つめた。歴史を学ぶことは、出来事の順序や人物の功績を覚えることだと思っていた時期があった。しかし、正成とともに過去を歩き、こうして未来の書物を読み返している今、彼女には別のものが見え始めていた。一行の記録の向こうには、数え切れないほどの人々の人生がある。戦に敗れた者にも、名を残さなかった者にも、帰りを待つ家族がいた。歴史が動いたという言葉の裏で、どれほど多くの人が、当たり前の明日を失ってきたのだろう。


「正成様。私、歴史を変えたいと思っていました。でも、今は少し違うんです」


「どう違うのじゃ」


「正成様や正行様を助けたいのはもちろんです。でも、それだけじゃなくて、戦わずに済む人を、一人でも増やしたいんです」


 正成は、ゆっくりとうなずいた。


「それは、わしも同じじゃ」


 彼は年表へ目を向けた。


「帝に忠義を尽くすことと、争いを避けること。その二つが、必ずしも相反するとは限らぬ。わしらが守るべきものは、帝の御心だけではない。その御代に生きる民の暮らしもまた、守らねばならぬものじゃ」


 美月は正成の言葉を胸に刻んだ。


「では、正成様。私たちが元の時代へ戻ったら、何から始めましょう」


 正成はすぐには答えなかった。机の上に広げられた年表を見つめ、尊氏が鎌倉を奪還した建武二年の出来事へ指を戻した。


「まずは、尊氏殿の真意を確かめたい」


「尊氏様の、真意ですか」


「うむ。東国の武士が尊氏殿のもとへ集まっておるのは、そなたの言うとおり、朝廷の政に不満を抱く者が多いからであろう。じゃが、尊氏殿自身が何を望んでおるのか、それを知らずに敵と決めつけてはならぬ」


 美月は考え込んだ。


「もし、尊氏様が朝廷と争うつもりではなく、武士たちの不満を何とかしたいと考えているのなら……」


「話し合う道もあろう。帝に申し上げるべきこともある。わしは帝を裏切るつもりはない。じゃが、御心に沿うためにも、時には耳の痛いことを申し上げねばならぬ」


 正成の声には、静かな決意があった。美月は年表を見つめながら、あることに気づいた。


「正成様。もしかすると、私たちは歴史を変えるというより、まだ起きていない悲劇を防ぐために動くべきなのかもしれません」


「同じことではないのか」


「似ています。でも、少し違います。歴史の結末を知っているからといって、すべてを思いどおりに変えようとしたら、別の悲劇を生むかもしれません。だから、私たちができることを、一つずつ確かめていきたいんです」


 正成は微笑んだ。


「そなたらしい考えじゃな」


 そのとき、机の上に置かれていた美月の携帯電話が、小さな音を立てた。正成は驚いて顔を向けたが、すぐに昨夜、美月から説明を受けた道具だと思い出したらしく、苦笑した。


「その小さな箱は、よく声を出すのじゃな」


「電話や連絡の道具なんです。今の時代では、遠く離れた人とも、すぐに話せるんですよ」


「遠くの者と、すぐにか……」


 正成は感心したようにうなずいた。


「もし、わしらの時代にもそのようなものがあれば、使者を何日も走らせずに済むであろうな」


「そうですね。戦の知らせも、もっと早く伝えられるかもしれません」


 美月はそう答えたあと、ふと考え込んだ。情報が早く伝わることは、必ずしも争いをなくすことにはつながらない。現代にも戦争はあり、人々は対立している。七百年の間に道具は驚くほど進歩したが、人間が抱える問題のすべてが解決したわけではなかった。


「正成様。今の時代にも、戦争はあるんです」


 正成は美月を見た。


「これほど豊かな世になってもか」


「はい。国と国が争い、命を失う人たちがいます。だから、未来が必ず平和になるとは限らないんです」


 正成は窓の外へ目を向けた。街には無数の明かりが灯り始めていた。昨夜は、その光景にただ驚くばかりだった。しかし今は、その一つひとつの明かりの下に、人々の暮らしがあることを思っていた。


「七百年を経ても、人はまだ争うのか……」


 正成は深く息をついた。


「ならば、わしらが今、争いを避ける道を探すことにも、意味があるのじゃろうな。たとえ、世のすべてを変えられぬとしても」


 美月はうなずいた。


「はい。私も、そう思います」


 しばらくして、美月は机の上の書物を整理し始めた。すでに外は暗くなり、時計の針は夜を示していた。正成が現代へ来てから、まもなく一日が過ぎようとしていた。


「正成様。明日、もう少し資料を調べてから戻りましょう。今夜は、今日分かったことを整理したいです」


「うむ。わしも考えをまとめておきたい」


 美月は年表の余白に、二人で話し合ったことを一つずつ書き留めた。朝廷の政治に不満を持つ武士たちの声を聞くこと。尊氏の真意を確かめること。後醍醐天皇への忠義を守りながらも、争いを避ける道を探すこと。そして何より、人々の命を守ること。正成は、その最後の言葉を見つめた。


「人々の命を守る、か」


「はい」


「そこには、正行も含まれておるのじゃな」


 美月は顔を上げた。


「もちろんです」


 正成の表情が、ようやく和らいだ。その夜、二人は遅くまで語り合った。正成は故郷の河内のことを話し、美月は現代の学校や家族の暮らしについて語った。時には正成が見慣れぬ道具に驚き、美月が笑いながら使い方を説明した。戦乱の世を生きる武将と、七百年先の時代から来た娘。本来ならば出会うはずのなかった二人が、同じ部屋で、同じ未来を考えている。その時間を、美月はいつまでも忘れたくないと思った。やがて正成が休んだあと、美月は一人、机に残された書物を見つめていた。


『太平記』の頁には、楠木正成と正行の最期が記されている。だが、今この瞬間、正成は生きている。そして正行もまた、父の帰りを待ちながら、七百年前の世界で日々を過ごしている。美月はそっと本を閉じた。歴史書の中では、二人の運命はすでに結末を迎えている。けれど、父と子の物語は、まだ終わっていなかった。窓の向こうでは、雲の切れ間から月がのぞいていた。その光を見上げながら、美月は静かに誓った。今度こそ、二人を守りたい。英雄としてではなく、父と子として、生きてほしい。そして、できることならば、戦のない明日を迎えてほしい。


 月の光は、何も答えなかった。ただ、七百年の時を隔てた二つの世界を、変わらぬ輝きで照らしていた。

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