第二十五章 歴史に刻まれた名
翌朝、正成が目を覚ましたとき、窓の外には見慣れぬ街並みが広がっていた。高くそびえる建物の間を、自動車と呼ばれる乗り物が行き交い、遠くからは鉄の車輪が走るような音が聞こえてくる。昨夜、美月に案内されて初めて足を踏み入れた現代の世界は、朝の光の中で見ると、さらに不思議な場所だった。正成は窓辺に立ち、しばらく街を眺めていた。七百年という歳月は、人の暮らしをここまで変えるものなのか。都の大路を埋め尽くす人々も、馬の蹄の音も、夜ごとに灯される松明も、ここにはない。
だが、行き交う人々の表情を見れば、急ぐ者もいれば、立ち止まって空を見上げる者もいる。時代が変わっても、一人ひとりがそれぞれの一日を生きていることに変わりはなかった。
「正成様、おはようございます」
振り向くと、美月が温かい茶を持って立っていた。
「よく眠れましたか」
「うむ。じゃが、目を覚ますたびに夢ではないかと思うてしまう」
正成が笑うと、美月も微笑んだ。
「今日は、正成様に見ていただきたいものがたくさんあります」
机の上には、昨夜並べた書物のほかに、美月が大学で学び始めてから集めていた資料が積まれていた。『太平記』の原文を収めた本、現代語訳、南北朝時代の政治を扱った研究書、そして地図や年表。美月はそれらを整理しながら、まず一冊の本を正成の前に置いた。
「これが『太平記』です」
正成は表紙を見つめ、慎重に頁を開いた。そこには、自分の生きる時代の出来事が、後の世の人々の言葉によって記されていた。
「これは……」
しばらく文字を追っていた正成が、顔を上げた。
「わしの名がある」
美月は静かにうなずいた。
「はい。正成様は、後の時代にも広く知られる人物になります」
正成は再び頁に目を落とした。そこには、後醍醐天皇の挙兵に応じ、河内の赤坂城や千早城で戦った楠木正成の姿が描かれていた。敵の大軍を相手に知略を尽くし、少ない兵で抗戦した武将として、その名が記されている。
「赤坂も、千早も……確かに、わしらが戦うた場所じゃ」
正成の声には、驚きと懐かしさが入り交じっていた。
「しかし、ここに書かれておることが、すべてそのままあったわけではない」
美月は隣に座り、頁をのぞき込んだ。
「そうなんです。『太平記』は歴史を題材にした軍記物語ですから、実際の出来事をもとにしながらも、人物の言葉や戦の様子が物語として脚色されている部分があります。史実を考えるときには、当時の記録や文書とも比べなければなりません」
正成は感心したように美月を見た。
「なるほど。後の世に書き残されたからといって、すべてを信じてよいわけではないのじゃな」
「はい。でも、だから価値がないということではありません。その時代の出来事を、後の人々がどう受け止めたのかを知る大切な資料でもあるんです」
正成はゆっくりとうなずいた。
「戦場におった者でさえ、戦のすべてを知ることはできぬ。まして後の世の者が書くとなれば、伝わり方も変わるのであろうな」
美月はその言葉に目を見張った。正成は難しい説明を重ねるまでもなく、軍記物語と歴史の記録が異なる理由を理解していた。
「正成様は、やっぱりすごいですね」
「何がじゃ」
「私が長い時間をかけて勉強したことを、すぐに理解してしまうんですから」
正成は小さく笑った。
「いや。わしには分からぬことばかりじゃ。今日は、そなたが師じゃからな」
その言葉に、美月の頬が緩んだ。午前中、二人は書物を読み進めながら、建武の新政に至るまでの出来事を確かめていった。美月は必要に応じて現代の地図を広げ、正成が戦った場所や、当時の武士たちの勢力関係を説明した。やがて話題は、後醍醐天皇が進める政治へと移った。
「帝は、朝廷の力を取り戻そうとしておられる」
正成はそう言って、机に置かれた年表を見つめた。
「長く武家に握られておった政を、帝のもとへ戻す。それが御心であった」
「はい。でも、鎌倉幕府を倒すために戦った武士たちの中には、十分な恩賞を得られなかった人もいました。土地を巡る争いもありましたし、政治の仕組みが急に変わったことで、不満を持つ人々が増えていったんです」
美月は研究書の一節を示した。
「ここには、建武の新政が抱えていた問題について、後世の研究者が分析したことが書かれています」
正成はその説明を聞きながら、深く考え込んだ。
「帝の理想が高くとも、それを支える者たちの暮らしが立ちゆかねば、国は治まらぬか」
「そう思います。尊氏様のもとへ武士たちが集まるのも、単に尊氏様個人の力だけではなく、朝廷の政治に不満を抱く人々がいたからだと考えられています」
正成は腕を組んだ。
「ならば、尊氏殿一人を説き伏せたとしても、それで済む話ではないのじゃな」
美月は静かにうなずいた。それこそが、彼女が正成に知ってほしかったことだった。未来に起こる出来事を一つずつ避けようとしても、その原因が残っていれば、争いは別の形で起こるかもしれない。
「正成様。私たちが変えなければならないのは、歴史の結末だけではないのかもしれません」
「争いが起こる、その根を断たねばならぬということか」
「はい」
正成はしばらく考えたあと、深く息をついた。
「それは、戦に勝つことより難しいやもしれぬな」
窓の外では、昼の街が穏やかに動いていた。七百年前の戦乱を知らぬ人々が、何事もないように行き交っている。その光景を見つめながら、正成は、自分たちの時代に生きる人々にも、このような平穏な日々を与えられないものかと思った。昼食を終えると、美月はもう一度『太平記』を開いた。しかし、今度の頁を前にしたとき、彼女の指は止まった。そこには、湊川の戦いへとつながる出来事が記されていた。正成は、その変化を見逃さなかった。
「美月殿。その先に、わしの最期があるのじゃな」
美月はゆっくりと顔を上げた。
「……はい」
正成は驚かなかった。すでに彼女から、自分と息子の正行に待ち受ける運命を聞いている。だが、その運命が後の世の書物にどのように記されているのか、これから初めて知ることになる。
「見せてくれぬか」
美月はためらった。
「正成様……」
「わしは、そのためにここへ来たのじゃ。都合のよいことだけを知って帰るわけにはゆくまい」
その声は穏やかだったが、決意は揺るがなかった。美月は本を正成の前へ差し出した。正成は頁をめくった。そこには、足利尊氏が朝廷と対立し、やがて軍勢を率いて都へ迫るまでの経緯が描かれていた。さらに読み進めると、正成が兵庫の湊川で尊氏の大軍を迎え撃ち、敗れて命を落とすという結末が現れた。正成は黙って読み続けた。美月は、その横顔を見守っていた。彼が何を思っているのか、すぐには分からなかった。恐怖なのか、悲しみなのか、それとも武士としての覚悟なのか。彼女には、ただ静かに頁をめくる音だけが聞こえていた。やがて正成の手が止まった。
「……そうか」
それだけを口にして、彼は本を閉じた。美月は胸が締めつけられる思いだった。
「正成様、ごめんなさい。こんなものをお見せして……」
「なぜ謝る」
「自分の最期を、こんな形で知らされるなんて……」
正成は首を横に振った。
「そなたは、わしを救いたいと思うてくれたのであろう。そのために、わしをここまで連れてきた。ならば、謝ることなど何もない」
美月はうつむいた。正成は閉じた本の上に手を置いた。
「しかし、不思議なものじゃな。わしはまだ生きておる。それなのに、後の世では、わしの死がすでに書き残されておる」
「はい……」
「だが、ここに記されておるのは、そなたの知る歴史じゃ。わしがこれから歩む道そのものではない」
美月は顔を上げた。正成は静かに続けた。
「もし未来が一つしかないのなら、そなたがわしの時代へ来たことにも、わしがここへ来たことにも、意味はないであろう。じゃが、こうして二人で書物を読み、考えることができておる。ならば、まだ選べる道があるのではないか」
美月の目に涙が浮かんだ。
「私も、そう信じたいです」
正成は微笑んだ。
「信じるだけでは足りぬ。何を変えるべきか、考えねばな」
その言葉を聞いて、美月は机の上の年表を引き寄せた。
「正成様。もう一度、尊氏様が鎌倉を取り戻したところから考えてみませんか」
「うむ」
美月は年表の一か所を指した。
「これから尊氏様は、朝廷との関係をさらに悪化させていきます。でも、その前に、まだ話し合える機会があるはずです」
正成は真剣な眼差しで年表を見つめた。
「帝の御心を守りながら、武士たちの不満を和らげる道を探す。それができれば、尊氏殿と刃を交えずに済むやもしれぬ」
「はい。ただ、後世の資料にも分からないことがあります。誰が何を考えていたのか、すべてが記録に残っているわけではありません」
「それでよい。わしらは、答えを教わりに来たのではない。考えるための手掛かりを得に来たのじゃ」
美月は大きくうなずいた。夕方になる頃には、机の上は開かれた書物と書き込みのある紙でいっぱいになっていた。正成は疲れた様子も見せず、時折、美月に質問を重ねた。彼が知りたがったのは、自分が後世でどのように称えられているかではなかった。武士たちの不満がどこから生まれ、朝廷が何を見落とし、争いを避ける余地がどこにあったのか。そればかりを確かめていた。やがて正成は、ふと一冊の本に目を留めた。
「美月殿。これは、正行のことが書かれたものか」
美月の手が止まった。正成の指先が触れていたのは、息子の正行について記された頁だった。
「……はい」
正成はしばらくその頁を見つめていた。
「わしの最期は、すでに聞いておった。じゃが、正行がその後、どのような道を歩むのか……それを、まだ詳しくは聞いておらぬ」
美月は答えられなかった。父の死後も南朝への忠義を貫き、やがて四條畷の戦いに散る楠木正行。その運命を、父である正成にどう伝えればよいのだろう。正成は美月の沈黙を見て、静かに言った。
「隠さずに教えてくれぬか。わしは、父でもあるのじゃ」
美月の胸に、これまでとは違う痛みが走った。自分の死を知ったときでさえ、正成は取り乱さなかった。しかし、息子の名を口にした今、その瞳には父親としての深い思いが浮かんでいた。窓の外では、夕日が街の建物を赤く染めていた。美月はそっと本を開き直した。そして、正成の隣に座った。




