第二十四章 月の向こうへ
建武二年八月。鎌倉を奪還した足利尊氏のもとには、東国の武士たちが次々と集まり始めていた。都ではその勝利を喜ぶ声がある一方、帝の許しを得ずに軍を動かした尊氏の振る舞いを危ぶむ者も少なくなかった。正成の屋敷にも朝廷からの使者が絶えず訪れ、東国の情勢を知らせる書状が日ごとに積み重なっていた。美月は、正成がその一通一通に目を通す姿を見ながら、ある決意を固めつつあった。これまで彼女は、未来の歴史を知る者として、何を伝え、何を伏せるべきか迷い続けてきた。正成には、やがて訪れる悲劇をすでに打ち明けている。
だが、歴史の結末を知っているからといって、運命を変える道筋まで見えるわけではなかった。尊氏がなぜ朝廷と対立するのか。後醍醐天皇の理想は、なぜ武士たちの不満を招くのか。そして、正成自身がどのような選択を重ねて湊川へ向かうことになるのか。そうした歴史の流れを、正成にも自分の目で確かめてもらいたかった。ある夕暮れ、美月は書院を訪ねた。正成は硯の前に座り、東国から届いた書状への返事をしたためていたが、彼女の姿を見ると筆を置いた。
「美月殿。何かあったか」
「正成様。少し、お話ししたいことがあります」
その真剣な表情に気づいた正成は、向かいの座を勧めた。美月は腰を下ろしたものの、すぐには言葉を切り出せなかった。自分がこれから提案しようとしていることは、正成にとってあまりにも大きな出来事になる。だが、今を逃せば、二人で未来を考える時間はますます失われていくかもしれない。
「正成様は、私が暮らしていた時代を見てみたいと思われたことはありませんか」
正成は意外そうに目を細めた。
「そなたのいた、七百年ほど先の世をか」
「はい。私が正成様の時代へ来たように、今度は正成様が私の時代へ行くんです」
正成はしばらく黙っていた。水面に映る月を通して美月と出会い、自らの手でこの時代へ招き入れた夜のことは、今も鮮明に覚えている。あのときは、目の前の娘が本当に遠い未来から現れたことに驚きながらも、不思議な縁に導かれるように手を差し伸べたのだった。
「なるほど。わしが、そなたの世へ参るというのじゃな」
「はい。正成様に、お見せしたいものがあります」
「何を見せてくれるのじゃ」
美月は一度息を整え、正成の目をまっすぐに見た。
「正成様たちが生きた時代について、後の世の人々が書き残したものです。戦の記録も、朝廷の動きも、尊氏様との関係も、そして……正成様ご自身のことも」
正成の表情が変わった。
「わしのことまで、書き残されておるのか」
「はい。『太平記』という軍記物語があります。それだけではありません。さまざまな歴史書や研究書にも、正成様のことが記されています」
「太平記……」
正成は初めて聞く書物の名を、確かめるように口にした。
「ただし、そこに書かれていることが、すべて事実とは限りません。物語として描かれた部分もありますし、後の時代になって解釈が変わった出来事もあります。私は歴史を研究する者になりたいと思って学んできましたから、その違いも、できる限りご説明できます」
正成は腕を組み、しばらく考え込んだ。未来の人々が自分たちの生きた時代をどう見ているのか。それを知ることには、恐ろしさもあった。しかし、これから朝廷と足利の間に何が起こるのかを考えるうえで、得られるものは少なくないはずだった。
「美月殿。そなたは、わしに未来の書物を読ませ、これからの道を考えさせたいのじゃな」
「はい。私が知っていることを一方的にお伝えするのではなく、正成様にも実際に見ていただきたいんです。そして、二人で考えたいんです。歴史を変えられるのかどうかを」
正成は美月を見つめた。その瞳には、不安と期待が入り交じっていたが、彼女が自分を信じてこの話を持ちかけたことは十分に伝わっていた。
「……行ってみようではないか」
美月の顔が明るくなった。
「本当ですか」
「そなたがわしを案内してくれるのであろう。ならば、一度、この目で見てみたい」
そう答えた正成は、ふと表情を引き締めた。
「ただし、今は東国が騒がしい。長く屋敷を空けるわけにはゆかぬ」
「一日か、長くても二日ほどで戻りましょう。次の満月の夜なら、あの水面の月を通して時空の扉が開くかもしれません」
「満月か……」
正成は庭の向こうへ目を向けた。月が二人を結んだのなら、再びその光が道を開くこともあるのだろう。
「では、その折を待とう」
それから数日、美月はひそかに準備を進めた。現代へ戻ったときにすぐ資料を調べられるよう、必要な書物の名前や確かめたい出来事を手帳に書き出した。正成には、現代の文字や言葉がそのまま理解できるとは限らない。だからこそ、当時の記録に近い文章と、現代の研究者による解説を照らし合わせながら、自分が橋渡しをしなければならないと考えていた。一方の正成は、家臣の兼重に数日の留守を任せる手はずを整えた。
「しばし寺に籠もり、心を静めてまいる。東国から急報があれば、戻り次第、知らせるように」
兼重は少し驚いたものの、正成が大事を前に祈りを捧げ、心を整えることは珍しくなかったため、深く詮索しなかった。
「承知いたしました。どうか、お気をつけて」
正成は静かにうなずいた。都の用向きを家臣に引き継ぎ、美月と兼重を伴って河内へ戻る手はずも整えた。寺に籠もると伝えてある間は、兼重が河内の館で留守を預かることになった。これから自分が向かう先を、兼重が知ればどれほど驚くだろう。そう思うと、わずかに笑みが浮かんだ。河内へ戻って数日後、待ち望んだ満月の夜が訪れた。空には雲一つなく、山々の稜線が青白い光に浮かび上がっていた。正成と美月は人目を避け、かつて二人を結んだ水辺へ向かった。虫の声が草むらから聞こえ、静かな水面には、丸い月がもう一つの空のように映っている。美月はその光を見つめながら、初めて正成と出会った夜を思い出した。あのとき、現代にいた自分は水面の向こうに正成の姿を見つけ、その差し伸べられた手を取った。
何も分からぬまま過去へ渡った自分を、正成は受け入れてくれたのだった。
「正成様。覚えていらっしゃいますか。初めてお会いした夜のことを」
「忘れるものか。月の中から、見知らぬ娘がわしを見つめておった」
「その娘の手を、正成様が引いてくださったんですよね」
「そうじゃったな」
美月は微笑んだ。
「今度は、私の番です」
正成が顔を上げたとき、水面の月がかすかに揺れた。風は吹いていない。それなのに光の輪だけが広がり、やがて水の底から淡い輝きが湧き上がってきた。美月はそっと手を伸ばした。指先が月の光に触れると、冷たいはずの水面が温かく感じられた。光は彼女の腕を包み、足元からゆっくりと身体を浮かび上がらせる。
「美月殿!」
正成が思わず声を上げた。
「大丈夫です。私が先に行きます」
美月の姿が光の中へ溶けていった。正成が一歩踏み出すと、水面には彼女の姿が映らなくなり、代わりに見知らぬ景色が現れた。夜の街だった。遠くには幾つもの建物が並び、窓には無数の明かりが灯っている。馬も松明も見えないのに、道を走るものがあり、夜空を照らす光があった。正成は息をのんだ。そのとき、水面の向こうから美月の声が聞こえた。
「正成様!」
見れば、光の向こうに美月が立っていた。つい先ほどまで隣にいた娘が、今は七百年先の世界から自分を見つめている。美月はゆっくりと右手を差し伸べた。
「さあ、こちらへ。今度は私がご案内します」
正成はその手を見つめた。かつて、自分が彼女に差し伸べた手だった。あの夜、見知らぬ時代へ渡ることを恐れながらも、美月は自分を信じて手を取った。今度は自分が、その信頼に応える番なのだろう。正成は静かに笑った。
「では、頼むぞ。美月殿」
二人の手が重なった瞬間、月の光が一際強く輝いた。正成の身体が水面へ引き寄せられ、足元の大地が消えていく。耳元を風が吹き抜け、星々が流れるように遠ざかった。目を閉じる間もなく、周囲の景色は白い光に包まれた。そして、次の瞬間。正成の足は、水際の湿った土を踏んでいた。傍らには美月が立ち、山道の先には街の灯りが見えた。美月は正成の足元を確かめてから、手を引いて歩き始めた。木立を抜け、舗装された道へ出ると、正成は足を止めた。
「……ここが」
遠くには、夜空へ伸びる大きな建物があった。道にはまばゆい光が並び、遠くから低い音を立てて何かが走ってくる。正成が身構えると、美月はその手をそっと握り直した。
「大丈夫です。あれは自動車です。人を乗せて走る乗り物なんですよ」
「馬も引かずに、あれほどの速さで走るのか……」
正成は驚きを隠せなかった。だが、彼が本当に言葉を失ったのは、周囲の光景そのものよりも、隣にいる美月の表情を見たときだった。彼女は、もう迷っていなかった。南北朝の時代では、いつも歴史の重みに苦しみ、何を告げるべきか悩んでいた美月が、今は自分の生きてきた世界に立ち、確かな足取りで前を向いている。
「正成様。ようこそ、私の時代へ」
正成は夜空を見上げた。そこには、七百年前と変わらぬ満月が輝いていた。
「月だけは、同じなのじゃな」
「はい。正成様の時代にも、私の時代にも、同じ月があるんです」
美月は微笑んだ。
「明日、お見せしたいものがたくさんあります。正成様が生きた時代の記録も、後の世に伝えられた物語も。すべてをご覧になってから、これからどうするか、一緒に考えましょう」
正成は深くうなずいた。
「うむ。わしも知りたい。後の世の者たちが、わしらの生きた時代をどのように見ておるのか。そして、何を誤り、何を守ろうとしておったのかを」
二人は並んで歩き始めた。その夜、正成は美月の案内で、初めて現代の住まいへ足を踏み入れた。美月が資料の整理に使っている祖父の家だった。灯火を使わずに明るくなる部屋、蛇口から流れ出る水、遠くの人と声を交わせる小さな機械。目にするものすべてが驚きの連続だったが、美月が一つひとつ説明するたび、正成は子どものように目を輝かせ、ときには真剣な顔で仕組みを尋ねた。やがて美月が机の上に数冊の本を並べると、正成の表情が引き締まった。その一冊には、『太平記』という文字が記されていた。正成はゆっくりと手を伸ばし、表紙に触れた。
「これが……わしらの時代を書き残したものか」
「はい。でも、これは物語として描かれた部分もある軍記物です。明日、ほかの歴史資料と比べながらご説明します」
正成は本を開こうとしたが、美月はそっと手を添えた。
「今夜は、少し休みましょう。明日は長い一日になりますから」
正成は本から目を離し、彼女を見た。
「そうじゃな。そなたに教わることが、山ほどありそうじゃ」
美月は笑った。
「今度は私が先生ですね」
「うむ。厳しい先生でなければよいが」
二人は顔を見合わせ、声を立てて笑った。窓の向こうには、現代の街の明かりが広がっていた。正成が生きた時代には存在しなかった無数の光。その一つひとつを眺めながら、美月は思った。これまで自分は、未来を知ることが正成を苦しめるのではないかと恐れていた。しかし、彼は未来を知ることから逃げなかった。むしろ、自ら確かめようとしている。ならば、自分も恐れずに向き合おう。歴史の結末をただ告げるのではなく、その歴史がどのように生まれたのかを、二人で考えていけばいい。机の上には、まだ開かれていない『太平記』が置かれていた。
正成が休んだあと、美月は携帯電話の日付と、過去で書き続けた手帳とを見比べた。あちらでは二度も季節が巡ったのに、こちらはまだ、最初に水辺へ向かった年の秋だった。一日ずつ同じように過ぎた往復もあれば、長い日々がわずかな間に収まったこともある。美月には、その違いを選ぶことも予測することもできなかった。母へ無事を知らせ、大学からの連絡と課題の期限を確かめると、ようやく自分の暮らしに触れた気がした。正成と二日で戻る約束をしたものの、帰った先でも二日しか過ぎていないという保証はない。その不安は、出発前にもう一度、正成と分かち合っておかなければならなかった。
連絡を終えて机へ戻ると、閉じた『太平記』が灯りの下に残されていた。その頁には、美月から聞いただけでは知り尽くせない未来が記されている。そして翌朝、彼は初めて、後の世の人々が描いた自分の姿と向き合うことになるのだった。




