第二十三章 東国からの知らせ
建武二年八月。京の都には、夏の終わりを告げる風が吹き始めていた。足利尊氏が東国へ向かってから、正成の屋敷には各地の動静を知らせる使者が絶えず訪れていた。鎌倉を奪った北条時行の軍勢は勢いを増していたが、尊氏の出陣によって戦況は再び動き始めている。都では尊氏の勝利を願う声がある一方、帝の正式な許しを得ずに軍勢を率いたことを問題視する公家もおり、朝廷の空気は日ごとに険しくなっていた。
美月は庭先で、干していた布を取り込んでいた。東の空には厚い雲が重なり、時折、遠くで雷鳴が響いている。尊氏が都を発つ日に見せた表情が、今も忘れられなかった。弟を救いたいという思いに偽りはなかったはずだ。だが、その決断が後醍醐天皇との間に深い溝を生むことを、美月は知っていた。
「美月殿」
振り向くと、正成が廊下に立っていた。その手には、東国から届いたばかりの書状が握られている。
「尊氏殿の軍勢が、時行の兵を押し返し始めたそうじゃ」
「そうですか……」
美月は胸をなで下ろしかけたが、すぐに表情を曇らせた。戦に勝つということは、同時に多くの命が失われるということでもある。正成はその様子を見て、静かに言った。
「勝ち負けの報せを聞いても、そなたは素直には喜べぬのじゃな」
「はい。尊氏様にも、正成様にも、生きて帰ってほしいんです。でも、敵と呼ばれている人たちにも、帰りを待つ家族がいますから」
正成はしばらく黙っていたが、やがて庭に目を向けた。
「武士は、守るべきもののために刀を取る。じゃが、その刀によって、誰かの守るべきものを奪うこともある。難しいものじゃ」
美月はうなずいた。正成の言葉には、戦場を知る者だけが持つ重みがあった。そのとき、門の方から慌ただしい足音が聞こえた。家臣の兼重が現れ、深く頭を下げた。
「殿。先日、消息をお調べになるよう命じられた東国の兵について、知らせが届きました」
美月は思わず顔を上げた。あの老女の息子のことだった。
「どうであった」
正成が尋ねると、兼重は一瞬ためらった。
「鎌倉から退く際に負傷したものの、命は取り留めたそうにございます。今は相模の寺に身を寄せ、傷を癒やしているとのこと」
「生きているんですね」
美月の声が弾んだ。
「はい。ただ、足を深く傷めており、すぐに都へ戻ることは難しいようです」
美月は目を閉じ、安堵の息をついた。あの老女の震える手が脳裏によみがえった。息子が生きていると伝えられる。それだけで、胸の奥に温かなものが広がった。正成は兼重に、使者を立てて詳しい容体を確かめるよう命じた。そして美月へ向き直った。
「知らせに行ってやるとよい。そなたの口から聞けば、あの母親も喜ぶであろう」
「ありがとうございます、正成様」
美月は深く頭を下げた。老女の住まいは、都の外れにある小さな家だった。美月が訪ねると、老女は戸口に姿を現し、見慣れた顔に気づいて微笑んだ。しかし、息子の消息が分かったと告げた瞬間、その表情が凍りついた。
「……あの子は」
「生きています。けがをしていますけれど、命は助かったそうです」
老女はしばらく美月を見つめていた。言葉の意味を確かめるように唇を動かし、やがて両手で顔を覆った。
「ああ……ありがたい……」
細い肩が震えた。美月は老女のそばに膝をつき、その背を静かにさすった。
「すぐには帰れないそうです。でも、今はお寺で休んでいると聞きました」
「帰ってこられずともよいのです。生きてさえいてくれれば……」
その言葉を聞いたとき、美月の目にも涙が浮かんだ。歴史書には、何万の軍勢が動き、誰が勝ち、誰が敗れたかが記されている。しかし、たった一人の息子の無事を願い続けた母親の涙は、どこにも残されていない。美月は老女の手を握った。
「また知らせが届いたら、必ずお伝えします」
老女は何度もうなずいた。その手には、初めて会った日には感じられなかった力が戻っていた。屋敷へ戻る頃には、空が夕焼けに染まっていた。正成は書院で書状を読んでいたが、美月が戻ると筆を置いた。
「喜んでおられたか」
「はい。泣いて喜んでいました」
「それはよかった」
正成の表情が和らいだ。美月はその顔を見ながら、ふと考えた。正成が戦場で守ろうとしているものは、帝への忠義だけではないのかもしれない。今日のような、名も知らぬ人々の暮らしもまた、彼が守りたいと願うものなのだろう。だが、穏やかな時間は長く続かなかった。
翌朝、東国から新たな急報が届いた。尊氏の軍勢が北条時行を破り、鎌倉を奪還したという。屋敷では家臣たちが喜びの声を上げた。正成も戦況を記した書状を読み、深くうなずいた。しかし、使者が去ったあとも、彼はしばらく座を立たなかった。
「正成様?」
美月が声をかけると、正成は机の奥から一通の書状を取り出した。差出人の名のない、あの書状だった。正成はそれを開き、尊氏の出陣について記された一節に目を落とした。
「鎌倉は取り戻した。じゃが、これで終わるとは限らぬ」
美月は何も答えなかった。正成は書状を畳み、静かに続けた。
「尊氏殿が勝利した今、帝はその功を認められるであろう。だが、許しを得ずに兵を動かしたことを快く思わぬ者もおる。勝ったからこそ、難しくなることもあるのじゃ」その言葉に、美月は胸を突かれた。
正成はまだ、彼女が書状を書いたと断定してはいない。それでも、書かれた警告を自ら考え、現実の動きと照らし合わせていた。
「正成様は……尊氏様が、このまま都へ戻られないと思いますか」
「分からぬ。あの方にも考えがあろう。じゃが、もし東国にとどまり、武士たちがそのもとへ集まり続ければ、朝廷との間に新たな争いが生まれるやもしれぬ」
美月は唇を結んだ。尊氏は鎌倉を奪還したあと、朝廷との関係をさらに悪化させていく。そして、やがて後醍醐天皇と武力で争うことになる。その先に待つのは、正成の死だった。美月は目の前の人を見つめた。正成はすでに、自分に待ち受ける運命を聞いている。それでも逃げようとはせず、人々を守るために何ができるかを考え続けていた。
「正成様」
「何じゃ」
「もし、争いを避けられる道が一つでもあるなら……私は、それを探したいです」
正成は美月の目を見た。
「わしも同じ思いじゃ」
短い返事だったが、美月には十分だった。
その夜、都には雨が降り始めた。軒先から落ちる雫が庭石を濡らし、灯の光が障子に淡く揺れている。美月は自室の机に向かい、白い紙を広げた。鎌倉の奪還は、歴史の終わりではない。むしろ、これから始まる大きな争いの入口だった。次に何を知らせるべきか。美月は筆を取ったものの、すぐには文字を書けなかった。未来の出来事を一つ伝えるたびに、誰かの選択が変わるかもしれない。その選択が人を救うのか、それとも新たな悲劇を招くのか、彼女にも分からなかった。
雨音の向こうで、遠くの寺の鐘が鳴った。美月は顔を上げた。今日、息子の無事を知って泣いた老女の姿が浮かんだ。あの涙を、喜びの涙に変えることはできた。たとえ歴史全体を変えることができなくても、一人の命、一人の願いを守ることはできるのかもしれない。やがて、美月は筆先を紙に下ろした。その頃、書院では正成が東国から届いた報告を読み返していた。灯のそばには、差出人の名のない書状が置かれている。正成はその一節をもう一度確かめると、静かに目を閉じた。
都に降る雨は、夜更けになってもやまなかった。そして東国では、戦に勝った尊氏のもとへ、次々と武士たちが集まり始めていた。




