第二十二章 未来を告げる書状
建武二年七月、北条時行の挙兵によって東国の情勢は一変し、京都の朝廷にも緊張が広がっていた。鎌倉を守る足利直義の軍勢が苦戦しているという知らせが届くたび、都では武士たちが集まって議論を交わし、正成の屋敷にも朝廷からの使者が頻繁に訪れた。東国へ討伐軍を送るべきだという声は高まっていたが、誰に兵を率いさせるかを巡って意見は分かれ、朝廷の決断は容易に定まらなかった。
美月は廊下から、正成が家臣たちと軍議を重ねる姿を見つめていた。部屋には各地から届いた書状が積まれ、地図には軍勢の動きを示す印が書き込まれている。美月は、これから起こるはずの出来事を知っていた。北条時行は鎌倉を奪い返し、尊氏は弟の直義を救うため東国へ向かう。その出陣は、やがて後醍醐天皇との対立を深めるきっかけになる。
正成は、美月が遠い未来から来たことを知っている。水面に映る月を通して出会い、自ら手を差し伸べてこの時代へ招いたのは、ほかならぬ正成だった。美月が一度現代へ戻り、再びこの時代へ来たことも、自分と息子の正行に待ち受ける運命を知っていることも、正成はすでに承知していた。だからこそ美月は、何をどこまで伝えるべきか迷っていた。未来を語れば人を救えるかもしれない。しかし、軽率な一言が新たな争いを生むこともある。
その日の夕刻、屋敷の門前に一人の老女が現れた。衣は擦り切れ、足元には泥がついている。老女は門番に何度も頭を下げ、東国へ向かった息子の消息を知りたいと懇願していた。
「わたしには、あの子しかおりませぬ。生きているのかどうか、それだけでも……」
美月は老女の手を取り、名と息子が仕える軍勢を尋ねた。足利家に従って鎌倉の守りに加わった息子から、長く便りが途絶えているという。美月は老女を門の内側へ招き、粥と水を用意した。震える手で椀を受け取る老女を見ていると、歴史書に記された勝敗の陰に、帰らぬ人を待つ家族が幾人もいたことを思い知らされた。そこへ正成が現れた。事情を聞くと、東国へ向かう使者に消息を調べさせるよう家臣に命じ、老女の前に膝をついた。
「必ず見つかるとは約束できませぬ。じゃが、できる限りのことはいたしましょう」
老女は涙を流して頭を下げた。美月はその背を支えながら、正成の言葉が空約束ではないことを知っていた。
その夜、美月は眠れずにいた。老女の震える手が忘れられなかった。歴史の流れを変えるのが恐ろしいからといって、迫る危険を見過ごしてよいのだろうか。正成にすべてを告げるのではなく、彼自身が判断するための手掛かりを渡すことはできないか。そう考えたとき、机の上の白い紙が目に入った。
美月は筆を取った。正成にとって自分の筆跡は見慣れたものではないかもしれない。それでも、書き手を隠すため、あえて利き手を変えて文字を記した。慣れない筆先は震え、線は不揃いになった。幾度か書き直した末、彼女は一通の書状を仕上げた。
『東国に乱起こり、鎌倉の守り危うし。北条の遺児、時行の軍勢は勢いを増し、やがて鎌倉を奪わん。足利尊氏、弟を救わんとして東へ向かうも、帝の許しを得ぬ出陣は、後に大いなる争いの種となるべし』
最後に一文を添えた。
『これは戦を望む者の言葉にあらず。人の命を惜しむ者の願いなり』
美月は書状を折り畳んだ。正成なら、この警告を鵜呑みにすることなく、自分で考えてくれるだろう。翌朝、彼女は人目のない折に、書状を正成の部屋の前へ置いた。正成がそれを見つけたのは、朝の軍議を始める少し前だった。差出人の名も印もない。内容を読み終えた正成は、家臣の兼重に紙を示した。
「何者かの策ではございませぬか」と兼重は眉をひそめた。
「その可能性はある。じゃが、妙な筆跡じゃ。文字を知らぬ者ではない。書き慣れた者が、わざと癖を隠しておるように見える」
正成は紙を裏返した。何者かが屋敷の奥まで入り、誰にも見られず置いていったことも気にかかった。彼は書状をしまい、まずは東国からの知らせを待つことにした。その日、美月は落ち着かなかった。廊下ですれ違った正成がふと彼女の指を見た。
「美月殿、指に墨がついておるぞ」
美月は思わず手を引いた。「少し、字の練習をしていたものですから」
「そうか」
正成はそれ以上尋ねず、いつもどおり穏やかに歩き去った。美月は小さく息をついたが、その胸の高鳴りはなかなか収まらなかった。
数日後、鎌倉が北条時行の軍勢に奪われ、直義が退いたとの報せが都へ届いた。正成は報告を受けると、机から例の書状を取り出した。
『やがて鎌倉を奪わん』
書かれたことが現実となった。兼重は驚きを隠せなかったが、正成は「まだ偶然とも考えられる」と答えた。ただ、その書状を以前より丁寧にしまった。
美月は知らせを聞いても、予告が当たったことを喜べなかった。鎌倉で命を落とした者、帰りを待つ家族を思うと胸が痛んだ。彼女は再び老女を訪ね、食べ物を届けた。息子の消息はまだ分からなかったが、正成が調べてくれていることを伝えると、老女は美月の手を握り、何度も礼を言った。
「どうか、希望を捨てないでください」
美月はそう言いながら、希望だけでは救えない命があることも知っていた。それでも、目の前の人に差し伸べられる手を引っ込めたくはなかった。やがて、尊氏が弟を救うため東国への出陣を決意したという知らせが届いた。正成は再び書状を広げた。鎌倉の陥落に続き、尊氏の動きまでも記されている。正成はしばらく文字を追い、ふと美月の顔を思い浮かべた。
水面の月を通して自ら招き入れた娘が、未来を知っていることは疑いようもない。美月は、正成と正行が将来命を落とすことさえ打ち明けている。尊氏には未来を軽々しく告げぬよう、正成自身が注意したこともあった。だから、今さら美月が未来の出来事を知る理由を考える必要などなかった。正成が考えたのは、別のことだった。なぜ、直接話さず、名を伏せてまで知らせようとしたのか。
わざと崩した筆跡。部屋の前に置かれた書状。あの日、美月の指についていた墨。そして末尾の『人の命を惜しむ者の願いなり』という言葉。どれも決め手にはならないが、重ね合わせれば一人の姿が浮かぶ。傷ついた者を放っておけず、名も知らぬ老女のために心を砕いた美月の姿だった。歴史を変えることを恐れながらも、迫る危険を黙って見過ごせないのだろう。だから、自分が判断できるように書状を残したのではないか。正成はそこまで考えて、ようやく美月の苦しさに思い至った。
「……美月か」
かすかな笑みが浮かんだ。まだ問いただすつもりはなかった。彼女が名を伏せたのなら、その思いを尊重しよう。ただし、書かれた警告は軽んじまい。正成は書状を丁寧に折り畳み、机の奥へしまった。尊氏が東国へ向かう日、街道には鎧をまとった武士たちが列をなし、馬の蹄の音が響いていた。美月は正成とともに、出陣する軍勢を見送った。尊氏は二人に気づくと馬を止めた。
「楠木殿。弟を救い、鎌倉を取り戻したならば、必ず都へ戻るつもりだ」
正成は深く頭を下げた。「どうか、ご無事で。帝への忠義をお忘れなきよう」
「……心得ておる」
尊氏の視線が美月へ向いた。「美月殿も、達者でな」
「尊氏様……どうか、必ずお戻りください」
尊氏はわずかに微笑み、再び馬を進めた。軍勢が東の街道へ消えていくまで、美月も正成も黙って見送っていた。やがて正成が静かに口を開いた。
「美月殿。人は、知っておることをすべて口にできるとは限らぬな」
美月は驚いて顔を上げた。正成は東の空を見つめたまま続けた。
「じゃが、誰かを救いたいという思いまで、隠す必要はあるまい」
美月はすぐには答えられなかった。正成がどこまで察しているのかは分からない。それでも、その言葉には責める響きがなく、胸の奥に張りつめていたものが少しだけほどけた。
「……はい」
遠くの山々には夏の雲が広がっていた。美月は尊氏の軍勢が進んだ方角を見つめながら、これからも危険を知らせようと決めた。未来を知ることが、人を救う力になるとは限らない。それでも正成が自ら考え、選べるように、できることを続けたい。隣に立つ正成は何も尋ねなかったが、その沈黙には、彼女の思いを受け止めようとする静かな信頼があった。




