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第二十一章 闇に潜む者

 夜が明けても、佐伯宗久の行方は分からなかった。正成の屋敷では家臣たちが交代で周囲を見張り、門を出入りする者の身元を厳しく確かめていた。昨夜、正成の部屋に忍び込んだ曲者は書状を奪って逃げ、傷を負って寝かされていた宗久まで姿を消した。二つの出来事が偶然重なったとは、誰にも思えなかった。

 美月はほとんど眠れないまま朝を迎えていた。庭先ではいつもと変わらず鳥がさえずり、朝露に濡れた草木が陽光を受けて輝いている。しかし、その穏やかさがかえって胸の不安を際立たせた。宗久は自分の意思で姿を消したのか、それとも何者かに連れ去られたのか。考えるほど疑問は深まっていった。正成は夜明け前から家臣を集め、屋敷の警備と宗久の捜索について指示を出していた。

「傷を負った身で、遠くまで歩けるとは思えぬ。近くの寺や人家も調べるのじゃ。ただし、騒ぎを大きくしてはならぬ」

 家臣たちが出ていくと、正成は机の前に腰を下ろし、しばらく目を閉じた。美月は温かい茶を運び、その傍らに置いた。

「正成様、少しはお休みになってください」

「案ずるな。この程度で倒れるほど、わしは弱くはない」

 そう言って微笑んだものの、その目には疲労がにじんでいた。美月は向かいに座り、昨夜から考え続けていたことを口にした。

「正成様、宗久さんは本当に誰かに襲われたのでしょうか。傷は確かにありました。でも、あの人が書状を届けた後、なぜ姿を消したのかが分からないんです。追われているのなら、ここにいた方が安全だったはずです」

 正成が顔を上げると、美月はさらに続けた。

「それに、書状を奪った人は、正成様がお部屋を離れる時間を知っていたように思えます。屋敷の中の様子を、誰かが教えていたのではありませんか」

 正成はしばらく黙っていたが、やがて低い声で尋ねた。

「……内通する者がおると申すか」

「まだ分かりません。でも、屋敷の外にいる人だけで、あんなに都合よく動けるのでしょうか」

 正成は腕を組み、庭へ視線を向けた。長年ともに戦ってきた家臣たちを疑うことは、彼にとって決して容易なことではなかった。しかし、屋敷の内情が漏れている可能性を見過ごすわけにもいかない。

「そなたの申すとおり、調べねばならぬことがあるようじゃな」

 そのとき、廊下から足音が近づいてきた。

「殿、昨夜の件でお耳に入れたいことがございます」

 現れたのは、長年正成に仕える家臣の藤原兼重だった。四十を過ぎた実直な男で、屋敷の警備や使者の応対を任されている。

「何か分かったか」

「はい。昨夜、北門を守っていた者が、子の刻を過ぎた頃、裏手の塀近くで人影を見たと申しております。雨戸の点検に向かった者と思い、その場では深く気に留めなかったようでございます」

「その者は誰であった」

 兼重は一瞬ためらい、声を落とした。

「……若い下働きの清吉に似ていたと申しております」

 美月は驚いて顔を上げた。清吉は十七、八歳ほどの少年で、数か月前から屋敷で働き始め、薪運びや水汲みを任されていた。口数は少ないものの仕事は真面目で、美月にもいつも丁寧に頭を下げていた。

「清吉さんが……?」

「今朝から姿が見えませぬ。寝所にも戻っておらず、持ち物の一部がなくなっております」

 正成は立ち上がり、清吉の身元や屋敷へ入った経緯を調べるよう命じた。兼重が退出すると、美月はすぐに口を開いた。

「でも、清吉さんが犯人だとは限りませんよね」

「無論じゃ。疑わしいというだけで罪人と決めつけるわけにはゆかぬ。もし何者かに脅されておったのなら、清吉自身も危険な目に遭っておるやもしれぬ」

 その言葉に、美月ははっとした。自分は清吉が裏切った可能性を考えていたが、何かを知ったために連れ去られたのかもしれない。あるいは、やむにやまれぬ事情から手を貸し、今になって逃げ出した可能性もある。疑うことと、真実を見極めることは違うのだと、美月は改めて感じていた。昼過ぎ、美月は屋敷の裏手にある井戸へ向かった。清吉が普段、水を汲んでいた場所だった。昨夜の出来事が頭から離れず、何か手掛かりが残っていないか、自分の目で確かめたかったのである。

 井戸の周囲には桶が二つ置かれ、少し離れたところには薪が積まれていた。地面には人が行き来した足跡が残っていたが、どれも珍しいものではない。諦めて戻ろうとしたとき、薪の隙間から小さな布切れがのぞいていることに気づいた。引き出してみると、それは紺色の布で包まれた細長い木片だった。包みを開くと、小さな文字が刻まれている。

「……東寺、申の刻」

 その下には、もう一つ、短い言葉があった。

「月の使い」

 美月は思わず息をのんだ。月という文字が偶然なのか、それとも何かの合図なのかは分からない。だが、清吉が使っていた場所に隠されていた以上、無関係とは思えなかった。美月は木片を握りしめ、正成のもとへ急いだ。

「正成様、これを見てください」

 正成は木片を受け取り、刻まれた文字を読んだ。

「東寺……申の刻か」

「井戸のそばの薪の中に隠されていました。清吉さんが使っていた場所です」

 正成は裏返して確かめたが、ほかに文字はなかった。

「今日の約束かどうかも分からぬ。じゃが、調べる価値はあろう」

「私も行きます」

 美月が即座に言うと、正成は顔を上げた。

「危険じゃ。昨夜の曲者は刃物を持っておった。今度も同じとは限らぬ」

 美月は黙った。自分には武芸の心得もなく、いざというとき身を守る術もない。それでも、ただ屋敷で待っていることには耐えられなかった。

「正成様、もし誰かが私たちを疑わせようとしているのなら、何が起きているのかを知らなければ、また同じことが起こります。それに、清吉さんが助けを求めているのかもしれません」

 正成はしばらく美月を見つめていたが、やがて静かに息をついた。

「……まことに、そなたは言い出したら聞かぬな」

 その口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。

「分かった。ただし、わしの指示には必ず従うのじゃ。勝手な行動は許さぬ」

 美月は深く頭を下げた。申の刻が近づく頃、美月は正成と二人の家臣に付き添われ、東寺へ向かった。正成は人目を避けるため目立たぬ衣装に着替え、美月も質素な着物をまとって頭から薄い布をかぶっていた。道中、正成はほとんど口を開かず、時折周囲の様子を確かめながら歩いた。

 東寺の境内には参詣の人々が行き交い、僧侶の読経が風に乗って聞こえていた。五重塔が夕陽を受け、長い影を地面に落としている。美月は木片に刻まれた言葉を思い出したが、どこへ行けばよいのかまでは記されていなかった。正成は家臣の一人に周囲を見張らせ、もう一人には離れた場所で待機するよう命じると、美月とともに境内の端にある回廊へ向かった。そのとき、背後からかすかな声が聞こえた。

「……楠木殿」

 振り向くと、柱の陰に一人の少年が立っていた。清吉だった。美月は思わず駆け寄ろうとしたが、正成が腕を伸ばして制した。清吉は顔色を失い、唇を震わせていた。着物は汚れ、右の頬には殴られたような痕が残っている。

「清吉。何があった」

 正成が静かに問いかけると、少年は膝をつき、深く頭を下げた。

「申し訳ございませぬ……某が、屋敷のことを外の者に知らせました」

 美月は息をのんだ。

「どうして、そんなことを……」

 清吉は震える声で続けた。

「母が病で伏せっております。薬を買う銭もなく困っていたところへ、ある男が近づいてまいりました。屋敷の様子を教えれば、母の薬代を出してやると申したのです」

 清吉は袖で涙をぬぐいながら、初めは正成が戻る時刻や門番の人数を聞かれるだけだったこと、やがて書状を奪うために屋敷へ忍び込むと告げられ、恐ろしくなって逃げ出したことを話した。しかし途中で捕まり、殴られたうえ、再び屋敷へ戻って正成の動きを知らせるよう脅されたという。

「もう、あの者たちの言いなりにはなりたくありませぬ。けれど、屋敷へ戻れば、また捕まると思い……」

 清吉は顔を上げ、美月を見た。

「美月様なら、見つけてくださるかもしれないと思いました。いつも井戸のそばで、私に声をかけてくださいましたから」

 美月の胸が熱くなった。あの木片は、清吉が残した助けを求める合図だったのだ。正成は少年の前にしゃがみ込んだ。

「清吉。そなたがしたことは、決して軽い罪ではない」

「はい……」

「じゃが、母を救いたいという気持ちまで責めるつもりはない。大切なのは、これからどうするかじゃ」

 清吉は涙を流しながら正成を見つめた。

「何でもお話しいたします。どうか、母だけは……」

「母御のことは案ずるな。必要な手当ては考えよう」

 その言葉を聞いた清吉は、声を上げて泣き始めた。美月はその姿を見つめながら、歴史の大きな争いの陰では、こうした貧しさや弱さにつけ込まれ、望まぬ行動へ追い込まれる人々がいるのだと痛感していた。正成は清吉が落ち着くのを待ち、静かに尋ねた。

「そなたに近づいた男の名は分かるか」

「名は聞いておりませぬ。ただ、いつも黒い直垂を着ておりました」

 美月ははっとした。昨日、屋敷へ押しかけてきた男と同じ姿だった。

「その男は、どこへ行ったのですか」

 清吉は周囲を見回し、声を潜めた。

「今夜、ある寺で人と会うと申しておりました」

「どこの寺じゃ」

 清吉が答えようとした、その瞬間だった。回廊の向こうで、鋭い光が走った。

「正成様!」

 美月の叫びと同時に、黒い衣をまとった男が飛び出してきた。男の手には短刀が握られ、その刃先は清吉へ向けられていた。正成は少年を突き飛ばし、身をひねって刃をかわした。短刀が柱に当たり、乾いた音を立てる。男が刃を引き抜こうとしたところへ正成が踏み込み、腕をつかんだ。

「曲者だ!」

 正成の声に、待機していた家臣たちが駆けつけた。男は激しく抵抗したが、家臣の一人が肩を押さえ、もう一人が短刀を奪い取ると、ついに地面へ引き倒された。美月は清吉のもとへ駆け寄った。

「大丈夫?」

 清吉は青ざめた顔でうなずいたが、体の震えは止まらなかった。正成は捕らえた男を見下ろした。

「何者の命で動いておる。清吉を殺そうとしたのか」

 男は答えなかった。

「誰に命じられた」

 なおも沈黙が続いた。正成が家臣に連行を命じたとき、男が突然、口元をゆがめた。

「楠木殿……いくら探っても、もう遅い」

 正成の目が細くなった。

「何が遅いというのじゃ」

 男は薄く笑った。

「東国で火が上がれば、都も無事では済まぬ」

 美月の背筋に冷たいものが走った。東国という言葉が、記憶の中にある北条時行の挙兵と結びついたのである。正成がさらに問い詰めようとしたとき、男は突然、身をよじった。家臣が押さえ直そうとしたが、その口から苦しげな声が漏れ、男は地面に崩れ落ちた。

「何をした!」

 家臣が叫んだ。男の唇には血がにじみ、意識は急速に遠のいていた。正成はすぐに医師を呼ぶよう命じたが、男は呼びかけにも応じなくなっていた。美月はその場に立ち尽くした。つい先ほどまで短刀を振るっていた男でさえ、誰かの命令によって動かされていたのかもしれない。その背後にいる人物は、いったい何を企んでいるのだろう。やがて正成が美月のそばへ戻ってきた。

「怪我はないか」

「はい……正成様こそ」

「わしは無事じゃ。清吉を屋敷へ連れ帰ろう。今度こそ、しっかり守らねばならぬ」

 美月はうなずいたが、胸には新たな疑問が残っていた。あの男は、なぜ東国のことを知っていたのか。そして、奪われた書状には何が書かれていたのか。二つの出来事が無関係だとは、どうしても思えなかった。屋敷へ戻った頃には、すっかり日が暮れていた。清吉は別室で保護され、母親のもとへも家臣が向かうことになった。正成は捕らえた男の身元を調べるよう命じたが、意識を失った男から詳しい話を聞くことはできなかった。

 美月は自室へ戻り、静かに障子を開けた。夜空には細い月が浮かび、庭の木々がかすかに揺れている。書状を届けた宗久の失踪、屋敷へ忍び込んだ曲者、清吉の告白、そして東寺での襲撃。二日間に起きた出来事を振り返るほど、その背後に同じ人物の影があるように思えてならなかった。そのとき、廊下から足音が聞こえた。

「美月殿」

 正成だった。美月が振り向くと、正成は一通の小さな紙を手にしていた。

「先ほど、清吉が思い出したことがあるそうじゃ。黒い直垂の男が、仲間と話しておるのを聞いたという」

 正成は紙を広げた。そこには、清吉が覚えていた言葉が書き留められていた。

「鎌倉が動けば、足利も動く。そのときこそ、都の形勢は変わる」

 美月は息をのんだ。

「この言葉が何を意味するのか、今はまだ分からぬ。じゃが、何者かが東国の混乱を利用しようとしておることだけは確かなようじゃ」

「尊氏様に知らせるべきではありませんか」

「そう考えておる。明日、信頼できる者を通じて、尊氏殿へ伝えよう」

 美月は胸をなで下ろした。少なくとも、何もしないまま歴史の流れに押し流されることは避けられそうだった。しかし、その夜、屋敷の門前へ一人の使者が駆け込んできた。

「鎌倉より急報にございます!」

 その声に、正成と美月は同時に振り向いた。使者は土埃にまみれ、肩で息をしながら告げた。

「北条時行が挙兵!関東の諸勢力が呼応し、鎌倉へ迫っております!」

 正成の表情が引き締まった。美月はその場で動けなくなった。ついに、歴史が動き始めた。しかも、誰かの思惑が入り交じる中で。正成の横顔を見つめながら、美月は、自分が知る未来と目の前で起きている出来事との間に、これまで感じたことのない隔たりを覚えていた。歴史の書物には、北条時行の挙兵も、足利尊氏の東国出陣も記されている。しかし、その裏側で何者かが書状を奪い、少年を脅し、人の命を狙っていたことなど、どこにも書かれていなかった。

 自分が知っている歴史は、起きた出来事のすべてではない。その事実に、美月は初めて気づいたのだった。

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