第二十章 消えた密書
建武二年の七月、京の町には、まだ戦乱の傷痕が残っていた。幕府が滅び、後醍醐天皇による新しい政治が始まってから二年。人々はようやく平穏な暮らしを取り戻せるものと期待していたが、武士たちの間では恩賞や所領をめぐる不満が募り、都のあちこちで争いが絶えなかった。朝廷へ訴えを届けるため、遠国から上洛した者たちが寺の軒先に寝泊まりし、沙汰を待ち続ける姿も珍しくなくなっていた。
美月が正成の屋敷で暮らすようになってから、幾度も季節が巡っていた。昨秋、正成と尊氏が同じ灯の下で語り合った光景は、今も彼女の胸に残っている。二人は互いを敵とは思っていなかった。それなのに、歴史が記した結末では、正成は尊氏の軍勢と戦い、湊川で命を落とす。
その未来を思い出すたび、美月は何かをしなければならないと感じていた。しかし、何をすればよいのか分からないまま、時間だけが過ぎていた。そんなある日の夕刻、正成の屋敷に一人の若い武士が駆け込んできた。男は二十歳を少し過ぎたほどで、着物の袖は裂け、左腕には血のにじんだ布が巻かれていた。門番に行く手を阻まれても引き下がらず、正成に直接渡さねばならない書状があると繰り返していた。
「何事ですか」
騒ぎを聞きつけた美月が庭へ出ると、男は彼女の姿を認め、助けを求めるように顔を上げた。
「楠木殿は……こちらにおられるか」
「正成様は、ただいまお留守です。どうなさったのですか」
男は答えようとしたが、突然、膝から崩れ落ちた。美月は駆け寄り、家臣に水と清潔な布を持ってくるよう頼んだ。傷口を確かめると、左腕には刃物で切られたような深い傷があった。すでに血は固まりかけていたものの、周囲は赤く腫れている。
「誰に襲われたのですか」
男は苦しげに息をつき、懐へ手を入れた。
「これを……楠木殿に……」
差し出されたのは、汗と血で汚れた一通の書状だった。美月が受け取ろうとすると、男はその手首をつかんだ。
「決して……足利の者には渡してはならぬ」
その言葉に、美月の指が止まった。
「足利……尊氏様のことですか」
男は答えず、門の方へ目を向けた。
「追ってくる……」
次の瞬間、門の外で馬のいななきが響いた。
「そこにいる男を出せ!」
荒々しい声が屋敷に響き渡った。門番たちが槍を構える。美月は書状を懐へ収め、傷ついた男を支えながら家臣に命じた。
「この方を奥へ。早く!」
二人の家臣が男を抱え、廊下の奥へ運んでいく。その姿が見えなくなるのとほぼ同時に、門前へ三人の武士が現れた。先頭の男は黒い直垂をまとい、腰には太刀を差していた。年の頃は三十代半ば。鋭い目つきで屋敷の中を見回すと、門番に向かって言い放った。
「先ほど、手負いの男がここへ入ったはずだ。引き渡してもらおう」
「何者でござる」
門番が問い返すと、男は鼻で笑った。
「名乗る必要はない。あの男は盗人だ。大切な書状を奪って逃げた」
美月は門の内側から、そのやり取りを聞いていた。盗人。だが、傷ついた男は正成に書状を届けようとしていた。しかも、足利の者には渡すなと告げている。何かがおかしい。美月がそう感じたとき、黒い直垂の男が彼女に気づいた。
「そこの女。男を見なかったか」
美月は一瞬、答えに迷った。しかし、ここで男を引き渡せば、何が起こるか分からない。
「ここは楠木正成様のお屋敷です。ご用件があるのでしたら、まずお名前をお聞かせください」
男の眉が動いた。
「女が口を挟むな」
「正成様のお留守に、名も告げず屋敷へ押し入ろうとなさるのですか」
美月の声は震えていた。それでも、視線をそらさなかった。男は一歩踏み出したが、門番たちが槍を交差させた。
「それ以上はお通しできませぬ」
しばらくの沈黙が流れた。やがて男は舌打ちし、背後の二人へ目配せした。
「よかろう。だが、その男をかくまえば、楠木殿にも災いが及ぶぞ」
そう言い残し、三人は馬を返して立ち去った。蹄の音が遠ざかるまで、美月はその場から動けなかった。やがて門番が静かに告げた。
「美月様、もう大丈夫でございます」
美月はようやく息を吐いた。しかし、胸の奥には、得体の知れない不安が広がっていた。男たちは、なぜそれほどまでに書状を取り戻そうとしたのだろう。そして、傷ついた武士は、なぜ足利の者に渡すなと言ったのか。その答えは、懐に収めた一通の書状の中にあるのかもしれなかった。
正成が屋敷へ戻ったのは、夜になってからだった。美月から事情を聞くと、正成はすぐに傷ついた武士のもとへ向かった。男は手当てを受け、奥の部屋に横たわっていたが、正成の姿を見ると、苦しげに身を起こそうとした。
「そのままでよい」
正成が声をかけると、男は深く頭を下げた。
「某は、播磨の武士、佐伯宗久と申します」
「播磨から参ったのか」
「はい。赤松の家中に仕える者の縁者にございます」
正成の表情がわずかに変わった。赤松円心。鎌倉幕府を倒す戦いでは、正成や尊氏らと同じく後醍醐天皇方に立った武将だった。しかし、建武の新政が始まってからは、朝廷への不満を深めていると伝えられていた。
「その傷は、誰に負わされた」
「都へ入る手前で、何者かに襲われました。書状を渡せと迫られ、逃げてまいりました」
「書状のことを、なぜ知っておったのじゃ」
宗久は唇をかみしめた。
「分かりませぬ。ただ……我らの動きを知る者が、内におるのやもしれませぬ」
正成は美月へ視線を向けた。美月は懐から書状を取り出し、両手で差し出した。
「こちらです」
正成は封を確かめた後、宗久に目を向けた。
「開いてもよいのだな」
「はい。楠木殿にお届けするよう、託されたものにございます」
正成は慎重に封を解いた。灯の明かりの下、書状へ目を走らせていた正成の顔が、次第に険しくなっていく。美月は黙ってその様子を見守った。やがて正成が、低い声でつぶやいた。
「これは……」
「何が書かれているのですか」
正成は答えず、もう一度、書状の初めから読み直した。そして宗久に尋ねた。
「この書状を託した者は、今どこにおる」
「すでに播磨を離れたと聞いております。行き先までは……」
正成は深く息をついた。
「美月殿。しばらく席を外してもらえるか」
美月は驚いた。これまで正成は、政治に関わる話であっても、彼女を遠ざけることはほとんどなかった。
「私には、聞かせられないことなのですか」
正成は静かに答えた。
「そなたを疑っておるのではない。じゃが、この書状には、知らぬ方がよいことも記されておる」
美月は何か言いかけたが、正成の表情を見て口を閉じた。
「……分かりました」
頭を下げ、部屋を後にした。廊下へ出ると、夜風が頬をなでた。美月は立ち止まり、閉ざされた障子を見つめた。知らぬ方がよいこと。その言葉が、妙に胸に残った。未来を知る自分に、正成が隠さなければならないことがある。それは、いったい何なのだろう。
夜半を過ぎた頃、美月は物音で目を覚ました。廊下を走る足音が聞こえる。続いて、何かが倒れるような鈍い音が響いた。美月は身を起こした。
「……誰かいるのですか」
返事はなかった。そっと障子を開けると、廊下の先に一つの影が見えた。黒い衣をまとった男だった。男は正成の部屋の前にしゃがみ込み、何かを探しているようだった。美月は息をのんだ。正成は別室で家臣たちと話し合っているはずだった。部屋に誰もいないことを知っている者が、そこへ忍び込んだのだろうか。男が立ち上がった。その手には、一通の書状が握られていた。美月の心臓が激しく打った。昼間、宗久が命懸けで届けた書状。あれを奪おうとしている。
「待って!」
思わず声を上げた。男が振り向いた。月明かりの中、その顔は布で覆われていたが、目だけが鋭く光っていた。美月は一歩踏み出した。
「それを返してください!」
男は答えなかった。次の瞬間、腰の短刀を抜いた。銀色の刃が月光を受けて光る。美月は足を止めた。男が近づいてくる。逃げなければ。そう思った瞬間、背後から力強い声が響いた。
「何者だ!」
正成だった。男は振り向きざまに短刀を振り上げた。正成は身をかわし、男の腕をつかもうとした。しかし男は素早く身をひねり、廊下から庭へ飛び降りた。
「曲者だ!逃がすな!」
正成の声に家臣たちが駆けつけた。男は庭を横切り、塀へ向かって走った。追いつこうとした家臣の一人が太刀を抜いたが、男は身軽に塀へよじ登り、その向こうへ姿を消した。追手が門へ走っていく。美月は震える足で正成のそばへ駆け寄った。
「正成様、お怪我はありませんか」
「わしは大丈夫じゃ。そなたこそ、無事か」
「はい……でも、書状が……」
正成は男が消えた塀を見つめた。その表情には、怒りよりも深い警戒が浮かんでいた。
「どうやら、ただの盗人ではないようじゃ」
美月は胸元を押さえた。
「正成様。あの書状には、何が書かれていたのですか」
正成はしばらく答えなかった。やがて、周囲に人がいないことを確かめると、低い声で告げた。
「武士たちの中に、朝廷に背くことを考え始めておる者がいる」
美月は息をのんだ。
「それは……尊氏様のことですか」
正成は首を横に振った。
「分からぬ。じゃが、誰かが尊氏殿の名を利用し、各地の武士を集めようとしておるらしい」
美月の背筋に冷たいものが走った。
「尊氏様は、そのことをご存じなのですか」
「それも分からぬ」
正成は庭へ目を向けた。
「もし、尊氏殿の知らぬところで事が進んでおるのなら、あの方もまた、危うい立場に置かれることになる」
美月は、尊氏が屋敷を訪れた日のことを思い出した。人々の訴えを真剣に聞き、どうすれば苦しむ者たちを救えるのかと悩んでいた姿。あの人が、自分の知らぬところで争いの中心へ押し上げられているのだとしたら。
「正成様。尊氏様に知らせなければ」
「そうじゃな」
正成は静かにうなずいた。
「じゃが、誰を信じて書状を託せばよいのか。それを見極めねばならぬ」
そのとき、屋敷の奥から家臣の叫び声が響いた。
「殿!大変にございます!」
二人が振り向くと、家臣が息を切らして駆けてきた。
「佐伯宗久が……姿を消しました!」
美月は耳を疑った。
「えっ……?」
「寝所には誰もおりませぬ。見張りの者も、いつ出ていったのか分からぬと申しております!」
正成の表情が変わった。書状を届けた男が消え、同じ夜に書状まで奪われた。偶然とは思えなかった。正成は家臣に命じ、屋敷の内外を調べさせた。美月はその場に立ち尽くした。昼間、傷つきながら屋敷へ駆け込んできた宗久の姿が浮かぶ。あの傷は本物だった。あの苦しげな表情も、偽りには見えなかった。けれども、もし彼が初めから何かを隠していたのだとしたら。美月は、あることに気づいた。
「正成様……」
「どうした」
「宗久さんは、書状を渡すとき、足利の者には渡すなと言いました」
「うむ」
「でも、追ってきた人たちは、一度も足利の名を口にしていませんでした」
正成の目が細くなった。
「つまり……」
「宗久さんは、追手が誰なのか、最初から知っていたのかもしれません」
正成は黙って美月を見つめた。やがて、ゆっくりとうなずいた。
「確かに、その可能性はある」
美月は続けた。
「それに、もし本当に尊氏様の知らないところで誰かが動いているなら、尊氏様と正成様が疑い合うように仕向けることもできるのではありませんか」
正成の表情が険しくなった。
「……なるほど」
その瞬間、美月は、自分の気づきが正成の考えを一歩進めたことを感じた。未来を知っているからではない。目の前で起きた出来事を、自分の目で見て考えたからこそ、気づけたことだった。正成は家臣を呼び、宗久の足取りを探るよう命じた。そして、美月へ向き直った。
「美月殿。そなたの申すことが正しければ、我らは何者かの思惑に乗せられようとしておるのかもしれぬ」
「はい」
「ならば、なおさら慎重に動かねばならぬ」
美月は強くうなずいた。
その夜、屋敷には夜明けまで灯がともされた。正成は読んだ書状の文言を思い返し、そこにあった人物の名も書き留めた。だが、その者が今回の一件にどう関わるのかまでは分からなかった。書状を読んでいない美月には、まだ名そのものも伝えていない。確かめるべきことが残ったまま、夜は更けていった。そして、夜明け前。京の町外れを、一騎の馬が駆け抜けていた。馬上の男は、懐に収めた書状を確かめると、東へ続く道へ馬を向けた。その書状が誰の手に渡るのか。まだ、誰も知らなかった。




