第十九章 同じ灯の下で
尊氏からの返書が届いたのは、正成が書状を送ってから数日後のことだった。使いの者が門を出ると、美月は庭先で足を止め、縁側に座る正成の顔を見た。正成は読み終えた書状を折り直し、膝の前に置いた。
「お目にかかれることになった。こちらへお越しくださるそうじゃ」
美月は息をつき、それから自分が返事を待つ間、肩に力を入れていたことに気づいた。二人が会う。それだけのことなのに、遠い戦場へ続く道の途中に、ようやく手をかける場所を見つけた気がした。
「私も、同席してよろしいでしょうか」
正成はすぐには答えず、美月を見た。
「そなたを一族の娘として引き合わせることはできる。じゃが、尊氏殿に未来を告げてはならぬ」
「分かっています」
「今のあの方が申されることを、よく聞くのじゃ。まだ起きておらぬことに答えを求めれば、目の前の人を見失う」
美月はうなずいた。しかし、正成が立ち去った後も、その言葉は胸に残った。湊川で正成を死に追いやる側の人。その印象を、自分は本当に脇へ置くことができるだろうか。会いたいと願っていた相手に会えると決まった途端、美月は、その顔を見ることを恐れている自分に気づいた。
約束の日、尊氏は供の者を連れて正成の屋敷を訪れた。庭の落ち葉は朝のうちに掃き清められていたが、門から座敷へ至る間にも、新しい葉が幾枚か舞い落ちた。出迎えた正成に、尊氏は穏やかに礼を返した。その声を、美月は座敷の端で聞いた。敵を威圧する響きも、自分の力を誇るようなところもない。近づいてくる足音に合わせて、美月は膝の上の指をほどいた。正成が美月を紹介すると、尊氏は視線を向けた。
「千早城で、傷ついた者の手当てをなさったそうですな」
「はい。できることを、少しだけですが」
美月が頭を下げると、尊氏は、少しであっても助かった者には忘れられぬことだろう、と言った。その思いがけない言葉に、美月は顔を上げた。尊氏はすでに正成へ向き直っていた。彼女が何かを言い返すのを待つ様子はなく、褒めたことさえ忘れたような自然な仕草だった。初めのうち、二人は都の様子や互いの近況を話した。美月は控えたまま、そのやり取りを聞いていた。やがて正成が傍らの書状の束に手を置くと、尊氏の表情から笑みが消えた。
「円心殿のところでも、家臣たちを抑えることが難しくなっておると聞きました」
「播磨に限ったことではありませぬ。私のもとにも、訴えに来る者がおります。沙汰が下るまで待てと申しても、いつまでかと問われれば、答えられぬ」
正成は一通を取り出した。そこには、争いのある土地について、自分の訴えがどこまで取り上げられているのか知りたいと記されていた。願いを重ねる文面の途中から、筆の運びが乱れていた。書いた者がどれほどの思いで紙に向かったのか、美月には、その細い線を見ているだけで伝わる気がした。
「この者は、同じ訴えを繰り返しております。わしも口添えはしましたが、まだ返事がない」
「それで、今はどこに」
「国へ帰ったと聞いております」
尊氏は書状を受け取らず、正成の手元を見つめた。
「帰れる者は、まだよいのでしょう。京に留まれば銭が尽きる。帰れば、自分の願いが忘れられるのではないかと恐れる。そうして、誰かの屋敷の前に立ち続けておる者もいます」
美月には、寺を訪れる人々の顔が浮かんだ。名乗る力もなく横たわっていた男や、家へ戻る道を尋ねながら、その家がまだあるかどうか分からないと話した女。ここで語られている訴えの一通一通にも、そうした暮らしがある。美月は二人の間に置かれた書状を見た。歴史を変えるという言葉では、その紙一枚の向こうにいる人さえ、明日まで待たせることしかできなかった。
「尊氏殿のお力で、しばらく人々を鎮めていただくことはできませぬか。わしも、もう一度、訴えを届けます」
正成の言葉に、尊氏は目を上げた。
「待てと申すためには、待った先に何があるかを示さねばなりませぬ。楠木殿。それを約することができますか」
座敷が静かになった。庭から、葉を掃く音が聞こえた。美月は正成を見たが、正成は返事を急がなかった。しばらくして、書状を畳に置き、手を離した。
「わし一人の言葉で、沙汰を約することはできませぬ」
「私も同じです。人が頼ってくるからといって、その願いをかなえられるわけではない」
尊氏の声には、先ほどまでとは異なる疲れがあった。美月は、その顔を見つめた。この人には、すでに天下を取る道が見えているのではないか。どこかでそう思っていた。しかし、目の前の尊氏は、自分の屋敷へ来る者に何を答えるべきかを考え、正成から答えを得ようとしていた。
「何を待っているのかだけでも、知らせることはできないでしょうか」
口にしてから、美月は二人の話を遮ったことに気づいた。頭を下げようとしたが、尊氏が静かに続きを促した。
「願いがかなうとは約束できなくても、書状が届いていることや、まだ調べなければならないことがあるなら、それを伝えるだけでも……何も返事がないまま待つよりは、違うと思うんです」
尊氏は美月を見たまま、尋ねた。
「それでも待てぬ、と言われたら」
美月は言葉に詰まった。相手には食べる物がないのかもしれない。家族が病に伏しているかもしれない。知らせさえ届けば耐えられるだろうと考えることも、待つ側に立ったことのない自分の勝手なのではなかったか。
「……それで、すべて済むとは思いません」
答えながら、声が小さくなるのが分かった。それでも美月は顔を伏せなかった。
「でも、返事がなければ、自分のことはどうでもよいのだと思ってしまいます。私が待っている側なら、きっとそう思います」
尊氏はすぐには何も言わなかった。正成が書状を手に取り、もう一度、末尾まで目を通した。
「この者には、わしから返事を書こう。できぬ約束はせず、今、どこまで話が進んでいるのかを確かめてから」
尊氏はゆっくりとうなずいた。
「私のもとへ来た訴えにも、同じ者の名があるかもしれませぬ。こちらでも調べさせましょう」
そこから、話は具体的になった。二人は手元にある訴えの名を確かめ、同じ土地をめぐる申し立てが重なっていないか、誰に事情を聞くべきかを話し合った。美月には分からない名も多かったが、口を挟まずに聞いた。一つの訴えを確かめるだけでも、これほどの手間がかかる。その間にも、新しい訴えは届くのだろう。正成が夜更けまで書状に向かっていた理由を、美月はようやく、その仕事の重さとして知った。
日が傾き、座敷に灯が運ばれた。二人の間にあった書状の束は、読んだものと、改めて確かめるものとに分けられていた。天下の行く末を決めるような約束は、何一つ交わされなかった。それでも、尊氏が帰るために膝を動かしたとき、正成は、今日の話に応じてくれたことへの礼を述べた。
「また、お目にかかりたい」
「私もです。今日ここで申したことが、少しでも先へ進んでから参りましょう」
尊氏は立ち上がりかけ、それから正成を見た。
「楠木殿。もし、なおも何も変わらず、人々が私のもとへ押し寄せてきたときには、どうすればよいとお考えですか」
正成は黙って尊氏を見返した。美月は二人の顔を交互に見た。今、ここで答えてほしいと思った。どんなことがあっても争わないと、二人に約束してほしかった。しかし、その願いを口にすることはできなかった。
「そのときも、まず、お話を聞かせていただきたい」
正成が答えると、尊氏は短くうなずいた。それ以上の言葉を重ねずに立ち上がり、美月にも礼をして座敷を出た。見送りを終えて戻ると、灯の傍らには、正成が返事を書くと言った書状が残されていた。美月はそれを片づけようとして、手を止めた。尊氏の最後の問いが、まだ耳に残っていた。二人は同じ灯の下で話し、相手の言葉を聞いた。それでも、答えの出ない問いを、それぞれ持ち帰ったのである。
正成は硯の前に座った。美月が水を用意すると、礼を言い、ゆっくりと墨をすり始めた。美月も傍らに座り、風に揺れた紙の端を押さえた。今夜のうちに、この一通への返事を書く。そのために灯を絶やさないことなら、自分にもできた。




