第十八章 交わされる言葉、揺れる天下
建武元年の秋、京の都には冷たい風が吹き始めていた。東山の木々は少しずつ色づき、鴨川の岸辺には枯れ葉が舞うようになっていた。都の季節が移っても、正成のもとへ届く知らせに明るいものは少なかった。美月は書状に目を通す正成の姿を見守りながら、争いを避ける道を考えていた。ある日の午後、正成のもとに播磨から一人の使者が訪れた。以前にも屋敷を訪れた、赤松円心の家臣、佐伯重綱だった。
「正成様。お久しゅうございます」
重綱は深く頭を下げた。
「おお、重綱殿。遠路、よう参られた。円心殿は息災でおられるか」
「はい。主は変わらず播磨におります。ただ、朝廷への不満を抱く家臣たちの声は、日に日に大きくなっております」
正成は重綱を座敷へ通し、美月もその場に同席した。重綱は美月の姿を見ると、以前よりも少し柔らかな表情を見せた。
「姫様も、お変わりなく」
「はい。重綱様も、お元気そうで何よりです」
重綱は一度うなずいた後、正成に向き直った。
「円心様は、正成様からのお書状を大変ありがたく受け止めておられます。されど、今の朝廷の政については、なお疑問を抱いておられます」
「どのようなことじゃ」
「幕府を倒すために戦った武士たちの働きが、十分に報われておらぬことです。家臣たちは、命を懸けて戦ったのに、なぜ自分たちの願いが聞き届けられぬのかと、不満を募らせております」
正成は黙って聞いていた。
「その思いは、わしにも分かる。じゃが、朝廷にも事情がある。すべての者の望みを一度にかなえることは難しい」
重綱は静かにうなずいた。
「円心様も、それは理解しておられます。しかし、理解することと、家臣たちを納得させることは別でございます」
その言葉に、美月は顔を上げた。
「重綱様。円心様は、朝廷と争うことを望んでいらっしゃるのでしょうか」
重綱は少し驚いたように美月を見たが、やがて首を横に振った。
「少なくとも、今はそのようなことを望んではおられませぬ。ただ、このまま不満が積もり続ければ、家臣たちを抑えきれなくなるやもしれません」
美月は胸の奥が重くなるのを感じた。歴史は、ある日突然、大きく変わるわけではない。こうした小さな不満や行き違いが積み重なり、やがて取り返しのつかない争いへとつながっていくのだ。正成は重綱に向かって言った。
「円心殿には、わしからも改めて書状を送ろう。朝廷にも、武士たちの声を届けるつもりじゃ」
重綱は深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉。円心様にも、必ずお伝えいたします」
その後も三人は、播磨の情勢や武士たちの暮らしについて、長く話し合った。重綱が語る家臣たちの苦労は、正成が京で耳にしている訴えとも重なるものだった。やがて重綱が帰る支度を始めたとき、美月は思い切って声をかけた。
「重綱様。一つだけ、円心様にお伝えいただけませんか」
「何でございましょう」
「私は、戦いで傷ついた人や、家族を失った人たちを見てきました。だから、できることなら、もう誰にも同じ思いをしてほしくないんです。円心様にも、どうか話し合う道を捨てないでいただきたいと、お伝えください」
重綱はしばらく美月を見つめていたが、やがて深くうなずいた。
「姫様のお言葉、必ず主にお伝えいたします」
重綱が去った後、正成は美月に向かって静かに言った。
「そなたの言葉は、武士たちの心にも届くやもしれぬな」
美月は首を横に振った。
「まだ、何も変わっていません」
「変わるかどうかは、すぐには分からぬ。じゃが、言葉を交わしたことまで無駄になるとは限らぬ」
美月はその言葉を聞き、少しだけ表情を和らげた。
数日後、京では足利尊氏のもとにも、各地の武士から訴えが寄せられていた。尊氏は家臣たちの話に耳を傾けながら、朝廷と武士たちの間に生まれつつある溝を感じていた。その日、尊氏の屋敷を訪れていた佐々木道誉は、庭を眺めながら口を開いた。
「尊氏殿。武士たちの不満は、もはや一部の者だけのものではございませぬ」
尊氏は静かにうなずいた。
「分かっておる。じゃが、帝の御政を乱すようなことは、軽々しくできぬ」
「もちろんでございます。ただ、武士たちが何を望んでいるのか、その声を聞く者が必要なのではございませぬか」
尊氏はしばらく黙っていた。
「わしも、武士たちを見捨てるつもりはない。されど、朝廷と争うことが、この国のためになるとも思えぬ」
道誉は尊氏の横顔を見つめた。
「尊氏殿は、楠木正成殿をどう思われますか」
突然の問いに、尊氏は少し意外そうな表情を見せた。
「正成殿か。あの方は、帝への忠義を何よりも重んじておられる。されど、武士たちの苦しみを理解できぬ方ではあるまい」
「ならば、一度、正成殿とお話しされてはいかがでしょう」
尊氏は道誉を見た。
「何ゆえじゃ」
「正成殿もまた、武士たちの不満を和らげようとしておられると聞きます。互いに考えを知ることは、決して無駄ではございませぬ」
尊氏はしばらく考えた後、静かにうなずいた。
「そうじゃな。正成殿とは、いずれゆっくり話してみたいものじゃ」
道誉は、その言葉を聞いて小さく頭を下げた。
一方、美月は正成の屋敷で、古い書物を広げていた。そこには、過去の戦いや武士たちの働きが記されていたが、美月の目は文字を追いながらも、別のことを考えていた。未来の歴史では、足利尊氏と楠木正成は、やがて敵として戦場で向き合うことになる。しかし、今の二人はまだ、互いを憎み合っているわけではない。それならば、争いが避けられなくなる前に、何かできることがあるのではないか。美月は書物を閉じ、庭を見つめた。そのとき、正成が部屋に入ってきた。
「美月。何を考えておる」
美月は少し迷ったが、正直に答えた。
「尊氏様のことです」
正成は静かにうなずいた。
「尊氏殿か」
「はい。正成様は、尊氏様とお話ししたいとおっしゃっていましたよね」
「うむ。機会があれば、わしも話してみたいと思っておる」
美月は正成を見つめた。
「その機会を、待つだけではなく、こちらから作ることはできませんか」
正成は少し驚いたように美月を見た。
「こちらから、か」
「はい。尊氏様も、武士たちのことで悩んでいらっしゃると思います。正成様も、朝廷と武士たちの間で苦しんでいらっしゃいます。お二人が話せば、何か新しい道が見えるかもしれません」
正成はしばらく考えていたが、やがて穏やかに笑った。
「そなたは、まことに不思議な娘じゃな。未来を知っておりながら、今を変えることを諦めぬ」
美月は静かに答えた。
「未来を知っているからこそ、諦めたくないんです」
正成は、その言葉を深く受け止めたようだった。
「よかろう。尊氏殿に、一度お目にかかりたいと伝えてみよう」
美月の表情が明るくなった。
「本当ですか」
「うむ。ただし、互いの立場は簡単には変わらぬ。話したからといって、すべてが解決するわけではないぞ」
「分かっています。それでも、話すことから始めたいんです」
正成は静かにうなずいた。
その夜、正成は足利尊氏に宛てた書状をしたためた。内容は、朝廷と武士たちの現状について、一度率直に意見を交わしたいというものだった。美月は、その姿を少し離れた場所から見守っていた。たった一通の書状で歴史が変わるとは思わない。それでも、敵として向き合う運命にあった二人が言葉を交わそうとしている。その小さな変化に、美月は希望を感じていた。窓の外には、秋の月が静かに輝いていた。美月はその光を見つめながら、心の中で願った。
どうか、この一歩が、争いを減らす道につながりますように。そして、正成様が生きて未来へ進むための、最初の一歩となりますように。




