第十七章 武士たちの岐路
建武元年の夏、京の都には蒸し暑い風が吹き始めていた。鴨川の水は陽光を受けてきらめき、都を行き交う人々の衣も、いつしか夏のものへと変わっていた。正成のもとへ届く訴えは、夏になっても途切れなかった。楠木正成は、そうした訴えを少しでも和らげようと、朝廷と武士たちの間を奔走していた。その日の朝も、正成の屋敷には数人の武士が訪れていた。彼らは都の外から来た者たちで、幕府との戦いで失った家臣や所領について、朝廷への取り次ぎを求めていた。
「正成殿。我らは命を懸けて幕府と戦いました。されど、いまだ恩賞の沙汰はなく、家臣たちに顔向けもできませぬ」
一人の武士が、悔しさをにじませて訴えた。正成は相手の言葉を遮らず、最後まで聞いてから答えた。
「そなたらの働きが軽んじられてよいとは、わしも思わぬ。朝廷には、改めて申し上げよう。ただ、今ここで必ず望みどおりになるとは約束できぬ」
武士は唇をかみしめながらも、正成が自分たちの訴えを真剣に受け止めてくれたことに、わずかな安堵を覚えたようだった。
「それでも、正成殿が聞いてくださっただけで、少しは救われます」
彼らが去った後、美月は正成の前に茶を運んだ。正成は湯飲みを手に取りながら、庭先に目を向けた。
「毎日、こうした方々がいらっしゃるのですね」
「うむ。訴える者には、それぞれの事情がある。じゃが、同じ土地を二人が望めば、双方の願いをかなえることはできぬ。幕府を倒せば、すべてがよくなると思っていた者も多かろう。わしも、帝のもとで新しい世が始まれば、争いは少なくなると願っておった」
「でも、戦いに勝つことと、国を治めることは、違うのですね」
正成は美月を見つめ、静かにうなずいた。
「そうじゃな。戦では敵を退ければよい。されど政では、意に沿わぬ者も含めて、同じ世を生きてゆかねばならぬ」
美月はその言葉を胸に刻んだ。歴史の本で学んだ建武の新政の混乱が、今は目の前で生きる人々の苦しみとなって現れていた。
数日後、正成のもとに播磨から書状が届いた。差出人は赤松円心であり、先に正成が送った書状への返事だった。正成は封を開き、しばらく黙って読み進めたが、美月はその表情から、決して穏やかな内容ではないことを察した。
「円心様からですか」
「うむ。円心殿は、わしが心を砕いておることには礼を申しておる。じゃが、家臣たちの不満は、もはや言葉だけでは収まりきらぬと書いてある。朝廷に背くつもりはない。されど、これまでの働きが正しく報われぬのであれば、家臣たちをどう納得させればよいのか、と」
美月は、以前に会った佐伯重綱の姿を思い出した。あの使者もまた、主君と家臣たちの間で苦しんでいたのだろう。
「正成様。円心様は、まだ話し合おうとしてくださっているのですね」
「そうじゃ。だからこそ、今のうちに手を尽くさねばならぬ。一度、人の心が離れてしまえば、取り戻すのは難しい。わしは、幕府を倒すためにともに戦った者たちが、今度は互いに刃を向けるような世にはしたくない」
美月は正成の横顔を見つめ、次に届く返書を待とうと思った。
「正成様。私にも、何かできることはありませんか」
「そなたには、すでに多くのことをしてもろうておる」
「でも、もっと何かしたいんです」
美月の真剣な表情を見て、正成は少し考えた。
「ならば、円心殿の使者が再び京へ来た折には、そなたも話を聞いてくれるか。わしには見えぬものが、そなたには見えるやもしれぬ」
「はい。ぜひ」
そのころ、京の別の屋敷では、足利尊氏が家臣たちと向き合っていた。尊氏のもとにも、各地の武士から不満を訴える声が届いていた。幕府を倒すために足利軍に従った者たちは、尊氏こそが自分たちの働きを理解してくれると期待していたのである。
「殿。朝廷の裁きは、あまりにも遅うございます。我らは殿を信じて戦いました。されど、恩賞を求めれば朝廷の沙汰を待てと言われるばかり。これでは家臣たちの心が離れてしまいます」
家臣の一人が訴えると、尊氏は黙って最後まで聞き、低い声で答えた。
「帝の御政に異を唱えるつもりはない。だが、武士たちの苦しみを見過ごすこともできぬ。そなたらの働きは、わしがよく知っておる。朝廷にも、できる限り申し上げよう」
そのとき、傍らにいた佐々木道誉が口を開いた。
「尊氏殿。いつまでも朝廷の沙汰を待つばかりでは、武士たちは納得いたしますまい」
尊氏は道誉を見た。
「では、どうせよというのじゃ」
道誉はわずかに笑みを浮かべた。
「武士には、武士を束ねる者が必要なのではございませぬか」
その言葉に、座敷の空気が変わった。尊氏はしばらく道誉を見つめていたが、やがて静かに答えた。
「軽々しく申すことではない。帝のもとで新しい世が始まったばかりじゃ」
道誉は深く頭を下げた。
「失礼いたしました。ただ、武士たちが誰を頼りにしているのか、それだけはお忘れなきよう」
尊氏は何も答えなかった。だが、その胸の内には、朝廷への忠義と、武士たちを率いる者としての責任が、次第に重くのしかかり始めていた。
その日の夕暮れ、美月は正成とともに鴨川のほとりを歩いていた。川面には夕日が映り、対岸では子どもたちが笑い声を上げながら遊んでいた。都の政がどれほど揺らいでいようとも、人々の日々の暮らしは続いている。正成は川の流れを見つめながら言った。
「美月。そなたが未来を知っておると聞いてから、わしは人の言葉を以前より深く考えるようになった。円心殿の不満も、尊氏殿の立場も、わしには理解できる。帝にお仕えする身でありながら、武士たちの心が朝廷から離れてゆくのを、ただ見ているわけにはいかぬ」
美月は少し迷ってから尋ねた。
「正成様は、尊氏様のことを、どう思っていらっしゃいますか」
「尊氏殿か。武将としての器量は大きい。人を引きつける力もある。幕府を倒すためにともに戦った折にも、その力は感じておった」
「では、もし意見が違うことがあっても、お話しできる方だと思われますか」
正成は美月の問いに、何かを感じ取ったようだった。
「そなたは、尊氏殿とわしが、いずれ争うことになると知っておるのか」
美月は足を止めた。川の流れる音だけが、二人の間に響いていた。正成は、美月の表情を見て静かにうなずいた。
「答えずともよい。そなたが未来を知っておることは、もう分かっておる。じゃが、もしそのような日が来るのなら、わしはその前に、尊氏殿と話しておきたい」
美月は顔を上げた。
「本当ですか」
「うむ。戦いが始まってからでは、互いの言葉も届きにくくなる。まだ刀を抜かずに済む今だからこそ、話せることもあろう」
美月の胸に、小さな希望が灯った。彼女が考えていたことを、正成自身が口にしたのだ。
「正成様。私も、そう思います」
「ただし、尊氏殿にも守らねばならぬ立場がある。わしが帝への忠義を捨てられぬように、尊氏殿も武士たちを見捨てることはできまい」
美月は、歴史の本では敵同士として描かれることの多い二人が、実際には互いの立場を理解し得る人間だったのだと、改めて感じていた。
「それでも、話すことはできますよね」
「無論じゃ。互いに守るものが違うからこそ、話すことをやめてはならぬのじゃ」
美月は、二人が戦場で向き合う前に言葉を交わせるよう、自分にもできることを探そうと考えた。美月は夕日に染まる鴨川の水面を見つめた。まだ満月には遠い月が、淡い光を空に浮かべ始めていた。その月が再び満ちるころ、都の人々の心にも、わずかな変化が生まれているだろうか。美月には、まだ分からなかった。けれども、正成が尊氏と話す道を閉ざしていないことだけは、確かな希望だった。




