第十六章 忠義の向こうにある道
建武元年の春、正成は各地から届く訴えに目を通し、帝に仕える日々を送っていた。だが、美月から自分と息子の正行が戦場に散る未来を告げられて以来、正成の胸からは一つの問いが消えずにいた。帝への忠義を貫くことと、生きて帝を支え続けることは、本当に相反するものなのだろうか。ある日の朝、正成は庭先で木刀を振っていた。鋭い動きには少しの乱れもなかったが、稽古を終えた後も、彼はしばらく庭に立ち尽くしていた。そこへ美月が姿を見せた。
「正成様。おはようございます」
「おお、美月か」
正成は木刀を置き、縁側に腰を下ろした。美月もその隣に座ると、正成はしばらく庭を眺めてから口を開いた。
「美月。そなたが暮らしていた未来の日本について、少し聞かせてほしい」
「はい。何でしょうか」
「七百年もの歳月が流れた後、武士というものはどうなっておるのじゃ」
「私の時代には、もう武士はいません。刀を差して戦う人も、国を治める将軍もいないんです」
正成は驚いたように目を細めた。
「武士がおらぬ世か。では、誰が国を守り、政を行っておるのじゃ」
「国を守るための組織はあります。でも、政治を行う人たちは、国民が選んだ代表者たちなんです」
「民が、政を行う者を選ぶというのか」
「はい。私の時代にも争いや問題はありますけれど、日本では武士同士が軍勢を率いて都で戦うようなことはありません」
正成はしばらく黙っていたが、やがて何かを思い出したように美月を見た。
「では、美月。帝はどうなっておるのじゃ。武士も将軍もおらぬ世で、帝は今もおわすのか」
美月はその問いに、迷うことなくうなずいた。
「はい。正成様。私の時代にも天皇陛下はいらっしゃいます」
正成の表情が変わった。
「まことか」
「はい。世界には数え切れないほどの国があって、長い歴史の中で多くの王朝が生まれ、そして消えていきました。でも、日本の皇室は、幾度もの戦乱や時代の変化を越えて、私たちの時代まで受け継がれています」
美月は、正成の目を見つめながら続けた。
「日本の皇室は、世界でも特に長い歴史を持つ皇室として知られています。政治の仕組みは大きく変わりましたが、天皇陛下は今も日本の象徴として、多くの人々に大切にされています」
正成はすぐには言葉を返さなかった。先ほどまでの鋭い眼差しが、少しずつ和らいでいく。
「そうか……。七百年の後にも、帝はおわすのじゃな」
「はい」
「わしらが生きるこの世が、どれほど乱れようとも、皇室は未来へと受け継がれてゆくのか」
美月は静かにうなずいた。正成は深く息をつき、春の空を見上げた。
「それを聞いて、心が安らいだ。わしらが命を懸けて守ろうとしておるものが、遠い未来にも続いておると知れただけでも、ありがたいことじゃ」
その言葉を聞いて、美月は胸が熱くなった。しかし同時に、これから正成に待ち受ける運命を思い出し、表情を曇らせた。
「正成様。皇室は未来まで続きます。でも、そこへ至るまでには、本当に多くの戦いが起こるんです。正成様が亡くなられた後も、争いは続きます」
正成は美月の顔を見つめた。
「そうであろうな。七百年もの間、何事もなく世が続くはずはあるまい」
「はい。だからこそ、私は少しでも戦いを減らしたいんです。正成様や正行様だけではなく、戦で家族を失う人たちを、一人でも少なくしたいと思っています」
正成はゆっくりとうなずいた。
「千早城でも、京の寺でも、そなたは敵味方を分けずに人を助けようとしてきた。わしは、その姿を見ておった」
美月は少し照れたように目を伏せたが、正成は真剣な表情のまま言葉を続けた。
「じゃが、世を動かす者には、それぞれ守らねばならぬものがある。帝には帝の、武士には武士の、そして民には民の思いがある。その思いが食い違えば、争いが生まれることもあろう」
「はい」
「だからこそ、話すことをやめてはならぬのじゃ」
正成の言葉に、美月は顔を上げた。
「戦うことしか道がないと思い込めば、人は刀を抜く。じゃが、互いの思いを知ることができれば、別の道が見えることもあろう。わしも、そなたからそれを学んだ」
正成は穏やかに微笑んだ。
「帝への忠義を捨てるつもりはない。されど、生きて忠義を尽くす道があるのなら、わしはそれを探してみたい」
美月は、正成の言葉を聞きながら力強くうなずいた。
「私も、正成様と一緒に探します」
その日の午後、正成のもとに、朝廷に仕える一人の武士が訪れた。各地の所領をめぐる訴えについて報告するためだった。
「正成様。播磨の赤松円心殿の周辺でも、恩賞への不満が収まっておりませぬ。直ちに兵を挙げようという動きではございませぬが、家臣たちの間には、これほど働いたにもかかわらず、なぜ十分な恩賞が与えられぬのかという声が広がっております」
正成は使者の話を最後まで聞き、しばらく考えてから告げた。
「その声を、できる限り詳しく聞いてまいれ。何を不満に思い、何を望んでおるのか、わしは知りたい」
「承知いたしました」
使者が去った後、美月は以前、播磨から訪れた佐伯重綱の姿を思い出していた。播磨から来たあの使者は、決して朝廷を倒したいと言っていたわけではない。ただ、自分たちの働きが正しく認められることを望んでいた。
「正成様。円心様と、もう一度お話しされるおつもりですか」
「うむ。円心殿に限らず、今の政に不満を抱く者は少なくない。すべての望みをかなえることはできぬが、話を聞かずにいては、心はますます離れてしまう」
「私も、そう思います」
正成は少し笑った。
「そなたの言うことに、わしも随分と影響されておるようじゃな」
美月が慌てて首を振ると、正成は穏やかに続けた。
「いや、よいことじゃ。人は、いくつになっても学ぶことができる。わしも、そなたに教えられることが多い」
美月はその言葉に胸がいっぱいになった。未来を知る自分が、この時代の人々の心を変えられるのかどうかは分からない。それでも、正成がこうして人々の声に耳を傾けようとしていることが、何よりうれしかった。
数日後、美月は正成とともに京の寺を訪れた。そこには、戦で夫を失った女や、親を亡くした子どもたちが身を寄せていた。美月が救護活動を始めてから、寺には少しずつ薬や食べ物が届けられるようになっていたが、それでも十分とは言えなかった。一人の幼い少年が、美月の袖を引いた。
「姫様」
「どうしたの」
「父ちゃんは、いつ帰ってくるの」
美月は言葉を失った。少年の父親は、鎌倉幕府との戦いで命を落としていた。母親が慌てて少年を抱き寄せた。
「ごめんなさい、姫様。この子は、まだ父親が亡くなったことをよく分かっていなくて……」
美月は静かに首を振り、少年の前にしゃがみ込んだ。
「謝らないでください。お父さんのこと、大好きだったんだね」
少年は小さくうなずいた。
「うん。父ちゃん、強かったんだ」
美月は少年の手を握り、何も言わずにその顔を見つめた。戦いが終われば、平和になる。歴史の本では、そうした言葉で一つの時代が区切られることがある。しかし、戦で家族を失った人々の悲しみは、戦いが終わったからといって消えるものではない。正成は、その様子を少し離れた場所から見つめていた。寺を出た後、美月はしばらく黙って歩いていた。
「美月」
「はい」
「あの子の父親は、もう戻らぬ」
「……はい」
「わしら武士は、戦に勝つことを考える。じゃが、勝った後に残される者たちのことを、どれほど考えてきたのじゃろうな」
美月は正成を見上げた。
「正成様は、ちゃんと考えていらっしゃいます」
正成は静かに首を振った。
「まだ足りぬ。あの子の涙を見れば、そう思わずにはおられぬ」
その言葉に、美月は先日の会話を思い出していた。七百年後にも皇室が続いていることを知った正成の安堵した表情と、今、戦で父親を失った少年を思う苦しげな表情。そのどちらも、正成という人の偽らざる心なのだと思った。
その夜、正成は一人、書状に筆を走らせていた。宛先は、播磨の赤松円心だった。かつてともに幕府を倒すために戦った武将として、今の世に抱く思いを率直に聞きたい。正成はその願いを、慎重に言葉を選びながら書き記していた。美月は、正成が筆を置くのを待ってから尋ねた。
「正成様。そのお手紙で、円心様のお気持ちが変わるでしょうか」
「分からぬ。じゃが、何もせずにいては、何も変わらぬ」
正成は書状を見つめたまま続けた。
「そなたが未来から来たことも、こうしてわしと出会ったことも、何かの縁なのじゃろう。ならば、わしも、その縁を無駄にはしたくない」
美月は静かにうなずいた。
「ただし、美月。そなたが教えてくれた未来を変えようとするなら、覚えておかねばならぬことがある」
「何でしょうか」
「一つの出来事を変えれば、その先にある多くのことも変わるやもしれぬ。そなたが望まぬことが起こる可能性もある」
美月は息をのんだ。それは、彼女自身もずっと恐れていたことだった。
「はい。私も、それが怖いんです」
正成は静かにうなずいた。
「じゃが、恐れて何もせぬことが、必ずしも正しいとは限らぬ。わしらは、まだ起こっておらぬことを、すべて知ることはできぬ。そなたは未来の歴史を知っておるが、それでも、人の心まで知っておるわけではなかろう」
「はい」
「ならば、目の前にいる人を見て、何が正しいのか考え続けるしかあるまい」
美月は、その言葉を胸に刻んだ。未来の歴史を知る自分と、今この時代を生きる正成。二人の考えは、少しずつ重なり始めていた。やがて正成は書状を丁寧に折りたたみ、使者に託す準備を整えた。
「美月。そなたが望む未来へ、たどり着けるかどうかは分からぬ。じゃが、わしは、最後まで考えることをやめぬ」
美月は力強くうなずいた。
「私もです。正成様と一緒に、できることを探します」
その夜、京の空には半月が浮かんでいた。満ちては欠け、欠けては再び満ちる月。美月はその光を見つめながら、これから先に待つ運命を思った。湊川の戦いまで、まだ二年余り。その間に、自分たちは何を変えられるのだろうか。




