第十五章 未来を知る娘の告白
建武元年の春。寺での救護を続けていた美月は、正成が以前にも増して口数を減らしたことに気づいていた。ある日の夕暮れ、美月は正成の屋敷の庭で、静かに咲く梅の花を見つめていた。そのとき、背後から正成の声がした。
「美月、少し話がある」
振り返ると、正成が縁側に立っていた。いつもと変わらぬ穏やかな表情だったが、その眼差しには、何かを確かめようとする強い意志が感じられた。美月は正成の前に座り、静かに頭を下げた。
「何でしょうか、正成様」
正成はしばらく庭を見つめていたが、やがて口を開いた。
「美月。そなたが、わしらの生きる世とは異なる時代から来たことは、すでに聞いておる」
「はい」
「そして、そなたは、この先の世の移り変わりについても、何かを知っておるのであろう」
美月の胸が小さく震えた。正成は続けた。
「わしは、そなたが未来のことを語ろうとせぬのには、何か理由があるのだと思っておった。じゃが、近頃のそなたを見ていると、ただ人々の苦しみを案じているだけではないように思える」
美月は顔を上げた。
「正成様……」
「円心殿のことも、尊氏殿のことも、そなたは何かを知っておるのではないか」
その問いに、美月はすぐには答えられなかった。正成は、責めるような口調ではなかった。ただ、長く胸に抱いてきた疑問を、今こそ確かめようとしているようだった。
「美月よ。わしには見えておらぬものが、そなたには見えておるのだな」
正成の言葉に、美月はゆっくりとうなずいた。
「はい……。私は、これから起こることを知っています」
正成は目を閉じ、静かに息をついた。
「そうか」
しばらくの沈黙の後、正成は再び美月を見つめた。
「ならば、一つ聞かせてほしい」
その声には、武将としての威厳と、一人の人間としての切実さがあった。
「わしがこれから進もうとしている道は、果たして正しいのか。後の世の人々は、わしの生き方を、どのように見ておるのじゃ」
美月は、その問いを聞いた瞬間、胸の奥が熱くなるのを感じた。自分の命の行方よりも、歩んできた道が正しかったのかを知りたい。それが、楠木正成という人なのだ。美月は膝の上で手を握りしめた。
「正成様。私は、あなたにお伝えしなければならないことがあります」
正成は何も言わず、続きを待った。
「私は、今からおよそ七百年後の日本から来ました。大学で日本の歴史を学び、特に、この時代のことを勉強していました」
美月は一度、息を整えた。
「私が暮らしていた時代では、正成様のお名前を知らない人もいます。でも、歴史を学ぶ人たちは、正成様がどのような戦いをし、どのような思いで帝にお仕えしたのかを知っています」
正成は静かに聞いていた。
「正成様は、後の世で、忠義を貫いた武将として語り継がれています。千早城での戦いも、帝への忠誠も、何百年も後まで伝えられているんです」
正成はわずかに目を伏せた。
「そうか……。わしのしたことが、後の世にも残るのか」
「はい。正成様は、私たちの時代でも、立派な武将として尊敬されています」
美月の声は、次第に震え始めていた。
「でも……」
その一言に、正成の表情が変わった。
「でも、何じゃ」
美月は唇をかみしめた。今ここで告げれば、正成の心を深く傷つけるかもしれない。それでも、言わなければならなかった。
「正成様は……この先、戦いで命を落とされます」
庭を渡る風が、梅の枝を揺らした。正成は驚いた様子を見せなかった。ただ、静かに美月を見つめていた。
「戦場で死ぬことは、武士である以上、覚悟しておる」
その声は落ち着いていた。しかし、美月は首を横に振った。
「それだけではないんです」
正成の眉がわずかに動いた。
「正成様が亡くなられた後、息子さんが、その志を継いで戦われます」
「正行が……」
「はい。正行様は、父である正成様の思いを受け継ぎ、帝のために戦い続けます。でも、その正行様も、やがて戦場で命を落とされるんです」
正成の顔から、初めて血の気が引いた。
「……正行も、死ぬというのか」
美月は涙をこらえながらうなずいた。
「はい」
正成は何も言わなかった。千早城で大軍を前にしても動じなかった武将が、今はただ、一人の父親として息子の運命を受け止めようとしていた。
「わしの後を継いで……あの子も戦うのか」
その声は、かすかに震えていた。美月は正成の前に手をつき、深く頭を下げた。
「正成様。お願いです。どうか、私の話を最後まで聞いてください」
正成は静かにうなずいた。
「私は楠木一族の末裔です。正成様の血を受け継いで、七百年後の日本に生まれました」
美月は顔を上げ、まっすぐに正成を見つめた。
「私にとって正成様は、歴史の本に出てくるだけの人ではありません。私のご先祖様なんです。こうしてお会いして、一緒に過ごして、正成様がどれほど人を大切にされる方なのか、私は知りました」
涙が頬を伝った。
「だから、私は正成様に死んでほしくありません。正行様にも、同じ運命をたどってほしくないんです」
正成は美月の言葉を受け止めながら、深く息をついた。
「美月……」
「私は、歴史のすべてを変えたいわけではありません。未来には未来の人たちの暮らしがあって、私が何も考えずに歴史を変えてしまえば、どんなことが起こるか分からないからです」
美月は涙を拭い、言葉を続けた。
「でも、ここだけは変えたいんです。正成様と正行様が命を落とす未来だけは、どうしても変えたい。楠木一族の末裔として、そして、正成様を大切に思う一人の人間として、私はお二人に生きていてほしいんです」
正成は長い間、何も言わなかった。庭の梅の花びらが、風に乗って静かに舞い落ちた。やがて正成は、ゆっくりと口を開いた。
「美月。そなたの思いは、よう分かった」
その声には、深い温かさがあった。
「わしは、帝に忠義を尽くすことを、己の生きる道と定めてきた。その思いは、今も変わらぬ」
美月は黙って聞いていた。
「じゃが、そなたの話を聞いて、初めて考えさせられたことがある」
正成は庭の向こうを見つめた。
「わしが死んだ後、正行が同じ道を歩み、命を落とすというのなら……わしは、父として何を残すべきなのじゃろうな」
その言葉には、これまで誰にも見せなかった苦悩がにじんでいた。美月は静かに答えた。
「正成様。私は、死ぬことだけが忠義だとは思いません」
正成が顔を向けた。
「生きて帝をお支えすることも、忠義ではないでしょうか。正成様が生きていれば、もっと多くの人を助けられるかもしれません。正行様と一緒に、新しい世を築くこともできるかもしれません」
正成は、その言葉を深く胸に刻むように目を閉じた。
「生きて、忠義を尽くす……か」
「はい」
しばらくして、正成はゆっくりとうなずいた。
「美月。わしは今すぐ、そなたの願いに応えるとは約束できぬ。帝への忠義を捨てることはできぬからな」
美月はうなずいた。
「分かっています」
「されど、そなたが教えてくれた未来を、ただ黙って受け入れるつもりもない」
美月は思わず顔を上げた。正成の眼差しには、千早城で見せたあの強い光が戻っていた。
「もし、忠義を貫きながら生きる道があるのなら、わしも考えてみよう」
美月の胸に、温かなものが広がった。
「正成様……ありがとうございます」
正成は小さく微笑んだ。
「礼を申すのは、わしの方かもしれぬ。そなたは、わしに新たな道を考える機会を与えてくれたのじゃからな」
その夜、美月は一人、庭に出て空を見上げていた。春の夜空には、雲の間から月がのぞいていた。正成に未来を打ち明けたことで、彼女の胸にあった重いものは、少しだけ軽くなっていた。しかし、これから先に待ち受ける歴史の流れが、容易に変えられるものではないことも理解していた。美月が庭の月を見上げていると、屋敷の奥から正成の声が聞こえた。
「美月」
振り返ると、正成が縁側に立っていた。
「そなたに、もう一つ聞きたいことがある」
「何でしょうか」
正成は、夜空の月を見上げながら尋ねた。
「わしが命を落とすという戦いは、いつ、どこで起こるのじゃ」
美月の胸が強く打った。そして、静かに答えた。
「建武三年、五月二十五日。摂津国の湊川です」
正成はその言葉を胸に刻むように、ゆっくりとうなずいた。
「湊川……」
しばらくの沈黙の後、正成は美月を見つめた。
「ならば、その日までに、わしらが何をすべきか考えよう」
美月は力強くうなずいた。
「はい、正成様」
二人の頭上には、静かな月が輝いていた。その光は、これから歴史の流れに立ち向かおうとする二人を、そっと照らしていた。




