第十四章 播磨からの使者
元弘三年の晩秋。正成のもとへ、播磨の赤松円心から返書が届いた。恩賞をめぐる訴えはすでに数え切れないほど聞いていたが、円心の言葉には、同じ戦場をくぐり抜けた武将ならではの重みがあった。だが、新しい政治が始まっても、自分たちの働きに見合う報いを得られたとは思っていなかった。播磨の武士たちの間にも不満が広がり、円心はその声を無視できなくなっていたのである。ある朝、正成は美月を呼んだ。
「美月、円心殿へ送った書状に返事があった」
美月は思わず顔を上げた。
「お会いできるのですか」
「円心殿ご自身がすぐに京へ来られるわけではないが、近く使者を遣わすとのことじゃ。まずは、その者から話を聞くことになろう」
美月は胸の奥が高鳴るのを感じた。赤松円心は、やがて足利尊氏を支える側に立つ人物だった。正成と敵対する未来を知っている美月にとって、その名は特別な重みを持っていた。だが、未来を知っふていることを理由に、今の円心を敵と決めつけるわけにはいかない。
「正成様、使者の方が来られたら、私もお話を聞いてよろしいでしょうか」
正成は少し考えてからうなずいた。
「よかろう。ただし、そなたは楠木一族の姫として同席するのじゃ。わしらの知る秘密に触れることは、決してならぬ」
「はい。分かっています」
美月は深く頭を下げた。
数日後、赤松円心の使者が正成の屋敷を訪れた。使者は三十代半ばほどの武士で、名を佐伯重綱と名乗った。日焼けした顔には旅の疲れが浮かんでいたが、その眼差しは鋭く、物腰には武士らしい落ち着きがあった。正成は使者を座敷へ通し、美月を紹介した。
「こちらは、訳あってわしが預かっておる楠木一族の姫、美月じゃ」
「楠木美月と申します。遠路、お疲れさまでございました」
美月が頭を下げると、使者も丁寧に礼を返した。
「赤松円心様の使いとして参りました。お目にかかれて光栄にございます」
挨拶が済むと、正成は本題に入った。
「円心殿は、いかがお過ごしか」
「息災にございます。されど、播磨の情勢は穏やかではございませぬ」
使者はそう言って、懐から書状を取り出した。
「幕府を倒すために戦った者たちの間で、恩賞への不満が高まっております。所領の沙汰が定まらぬ者も多く、円心様も苦慮しておられます」
正成は書状を受け取り、静かに目を通した。
「円心殿ほどの働きをした方でも、そのような思いを抱えておられるのか」
「円心様ご自身のことばかりではございませぬ。ともに戦った者たちが報われぬことを、何より案じておられます」
美月は、その言葉を聞いていた。歴史の教科書では、赤松円心は後に足利尊氏に味方した武将として記されている。しかし、今ここで語られている円心は、家臣たちの暮らしを案じる一人の領主だった。美月は思い切って口を開いた。
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
使者は少し驚いた様子を見せたが、正成がうなずくと、美月へ向き直った。
「何なりと」
「円心様は、朝廷の政治そのものに反対しておられるのですか。それとも、戦った方々への恩賞が十分ではないことに、心を痛めておられるのでしょうか」
使者は、すぐには答えなかった。やがて静かに口を開いた。
「円心様は、帝に弓を引こうなどとは考えておられませぬ。ただ、命を懸けた者たちが、戦いの後も苦しむ世であってよいのかと、お考えなのです」
美月は深くうなずいた。
「それなら、まだ話し合うことができると思います」
その言葉に、使者の眉がわずかに動いた。
「姫様は、どのようなお考えでございましょう」
美月は一度、正成の顔を見た。正成は何も言わず、続きを促すようにうなずいた。
「戦いで失ったものは、すぐには戻りません。でも、これから先、同じように苦しむ人を増やさないために、できることはあると思うんです。円心様が守ろうとしている方々の声を、朝廷へ届ける方法を考えられないでしょうか」
使者は、美月をじっと見つめた。
「姫様は、戦を知らぬお方とお見受けしますが……」
その言葉には、わずかな疑いが含まれていた。美月は静かに答えた。
「私は千早城で、傷ついた人たちの手当てをしました。戦いで苦しむ人の姿も見てきました。だからこそ、これ以上、同じことが繰り返されてほしくないのです」
使者の表情が少し変わった。
「千早城で……」
「はい」
正成が言葉を添えた。
「この娘は、戦の最中にも負傷した者たちを助けてくれた。まだ若いが、人の苦しみを見てきた者じゃ」
使者は改めて美月へ頭を下げた。
「失礼を申し上げました」
「いいえ。お気になさらないでください」
美月は小さく微笑んだ。使者との話し合いは、その後も続いた。正成は円心の訴えを朝廷へ伝えることを約束したが、同時に、すべての望みがすぐにかなうとは限らないことも率直に告げた。
「円心殿には、わしからも書状を送ろう。今は互いに力を合わせ、新しい世を支えるべき時じゃ」
使者は深く頭を下げた。
「そのお言葉、必ず円心様へお伝えいたします」
やがて使者が屋敷を辞すると、美月は正成とともに門まで見送った。冷たい風が吹き、庭の木々から枯れ葉が舞い落ちた。
「正成様、少しは円心様のお気持ちを知ることができたでしょうか」
「そうじゃな。書状だけでは分からぬこともある。そなたの申したとおりじゃ」
正成は美月を見つめ、穏やかに笑った。
「ただし、話し合えば必ず分かり合えるとは限らぬ。それでも、話すことをやめてはならぬのじゃろう」
美月はうなずいた。その言葉は、彼女自身が忘れてはならないことのように思えた。
一方、播磨へ戻る道中、使者は馬を進めながら、美月の言葉を思い返していた。若い姫君の口から語られたのは、武士の名誉でも、朝廷の権威でもなかった。戦いで苦しむ人々を、これ以上増やしたくないという願いだった。使者は、円心へ何を伝えるべきかを考えていた。やがて播磨へ戻った使者は、円心の前にひざまずき、京での出来事を報告した。
「楠木正成殿は、我らの訴えを朝廷へ伝えると約束されました」
円心は静かにうなずいた。
「正成殿らしい。あの方は、己の功ばかりを誇るお人ではないからな」
「それから、正成殿がお預かりになっている楠木一族の姫君にも、お目にかかりました」
「姫君とな」
使者は、美月とのやり取りを詳しく伝えた。円心は黙って聞いていたが、やがて小さく息をついた。
「戦を知らぬ者の言葉と笑うことはできぬな。戦で苦しむ者を見たというなら、その願いもまた真であろう」
円心はしばらく考え込んだ。
「正成殿には、いずれ直接お会いせねばなるまい」
使者は深く頭を下げた。しかし、円心の胸にある不満が、それですべて消えたわけではなかった。彼には、守らなければならない家臣と領地があった。朝廷への忠義だけでは、その責任を果たせないかもしれないという思いが、なお心の奥に残っていたのである。京では、冬の気配がいっそう濃くなっていた。美月は寺での救護を続けながら、円心からの返事を待っていた。傷ついた人々の手当てをし、身寄りのない子どもたちと過ごす日々の中で、彼女は少しずつ、この時代で生きることの意味を見いだし始めていた。
ある夕暮れ、正成が寺へ迎えに来た。
「美月、そろそろ戻ろう。日が暮れる」
「はい、正成様」
二人は並んで都の道を歩いた。
「正成様、円心様は、いつかお会いしてくださるでしょうか」
「分からぬ。じゃが、そなたの言葉は、使者を通じて届いたはずじゃ」
美月は少し安心したように微笑んだ。
「それなら、よかったです」
正成は歩みを緩め、美月に尋ねた。
「美月。そなたは、なぜそこまで円心殿のことを気にかけるのじゃ」
美月は一瞬、言葉に詰まった。未来を知っているから。その答えは、正成にだけなら伝えることができる。しかし、円心がいずれ敵となることを今ここで告げれば、正成はどう考えるだろうか。美月はしばらく迷った後、静かに答えた。
「正成様。今はまだ、うまく説明できません。でも、円心様とのつながりが、これから先、とても大切になる気がするんです」
正成は美月の横顔を見つめた。
「そうか」
それ以上は問い詰めなかった。美月が自分とは異なる時代から来たことを知る正成には、その言葉の奥に、まだ語られていない何かがあるのだと感じられたのである。都の空には、細い月が浮かんでいた。その光を見上げながら、美月は思った。人の心を変えることは、歴史を変えることよりも難しいのかもしれない。けれども、今日交わされた言葉が、いつか争いを止める小さなきっかけになることを、彼女は願わずにはいられなかった。




